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● 平成21年(2009)9月6日(日)、長野県小諸市(こもろし)八幡町(はちまんちょう)に鎮座する小諸八幡宮(こもろはちまんぐう)で八朔相撲(はっさくずもう)が奉納された。このほど、和田フォトギャラリー愛好者から、当日撮影した原画をお送り頂いたので、以下に紹介したい。 |
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【凡例】 ▲:上の画像の説明文 ▼:下の画像の説明文 〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示 |
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▲▼ 長野県東部に位置し、約44,000人の人口を擁する小諸市(こもろし)は、雄大な浅間山の南斜面に広がり、中央部に千曲川が流れる自然豊かな高原都市である。かつては、小諸城や北国街道を中心に交通の要所として栄え*、明治時代には重要な商業都市として発展した。 |
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小諸市役所から北東約10kmには、噴煙を噴き上げる浅間山(2,568m)の火口があり、登山口は、軽井沢口と小諸口(黒斑コース・火山館コース)があり、現在は火口へは行けない。 |
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筆者が小諸を知ったのは、学生時代のことで、嶋崎藤村の詩「千曲川旅情の歌」を習ったときである。「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(ゆうし)悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草も藉(し)くによしなし・・・」最初のフレーズは今も暗唱できるが、小諸ってとても寂しいところなのだという、現実離れした先入観を持った。文学は素晴らしい感性を育むが、一面を誇張していることが多いので、気をつけて観賞しなければならない。 |
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▼ 美濃国に生まれた仙石秀久(1552-1614)は、秀吉の旗下にあって軍功が認められ、信長より「永楽銭紋」の使用を許されるなど、讃岐高松城主10万石の大名にまで栄進するが、天正14年(1586)九州島津征伐での軍令違反による惨敗で秀吉の勘気にふれ、領地没収の上、追放された。 |
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しかし、4年後の天正18年(1590)小田原の役に【無】の馬印を掲げて馳せ参じ、家康軍に加わって抜群の戦功をたて、再び秀吉に認められ、
5万石の小諸城主として返り咲いた。 |
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織田家に家臣入りした際、織田信長が秀久の勇壮な相貌を気に入り、黄金一錠(一塊)を与えたという逸話が残されている。 |
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▼ 小諸市八幡町(はちまんちょう)1丁目、小諸市立野岸小学校の北隣に鎮座する小諸八幡宮(曽根徳隆宮司)は、慶長13年(1608)、初代小諸藩主仙石秀久が八幡神を当地に奉遷し、小諸城の守護神としたことに始まる。以後代々の藩主がこれを祭り、開拓の神、子育ての神とした。 |
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長野県神社庁の資料によると、現在、小諸八幡宮本社の祭神は、譽田別命(ほんだわけのみこと)=神功皇后(じんぐうこうごう)となっている。 |
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荒町 |
六区と小諸八幡宮の位置 / 長野県小諸市 |
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八朔相撲は、八幡宮の祭礼行事として位置付けられてきたもので、毎年、陰暦の八月朔日(一日)に行われることから「八朔」の名がある。現在は、9月の第1日曜日に開催される。 |
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正式には「小諸八幡宮八朔相撲」と呼ばれるこの宮相撲は、諏訪八幡宮の氏子町である荒町六区あらまちろっく(荒町あらまち・八幡町はちまんちょう・紺屋町こんやまち・三和みつわ・東雲しののめ・松井まつい)の役員で構成される小諸八幡宮祭事係が主催する秋祭で、世話役・四役の代表は、氏子総代長をつとめる小林忠昭さん。 |
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当日は、荒町六区の子どもたちが立派な化粧まわしをつけて市内を練り歩き、土俵入のあと、熱のこもった取組みを披露する。平成8年(1996)に小諸市重要無形民俗文化財に指定された。 |
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参道入口の大幟 / 小諸八幡宮(長野県小諸市八幡町一丁目) 2009.9.6 10:26
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平成21年(2009)9月6日(日)の八朔相撲は、次の日程で行われた。
■11:00〜11:50 町内練り歩き ■11:50〜12:20 神事 ■12:20〜12:40 土俵入 ■13:30〜14:40 取組み |
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小諸市教育委員会によると、八朔相撲は、徳川家康が天正18年(1590)8月1日(八朔の日)に江戸城に入城したことを祝い、五穀豊穣と天下泰平を祈願するため、慶長13年(1608)、初代の小諸城主・仙石秀久(せんごく・ひでひさ)が八幡神を当地に
勧請(かんじょう)し、八朔の日に奉納相撲を始めたものと伝えられ、約400年の伝統を誇る宮相撲である。 |
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● カーソルで画面のどこかをポイントすると説明が現れます。 |
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▲▼
八朔相撲が奉納される相撲場は、小諸神社拝殿の左前にある常設の土俵で、土壇(つちだん)を約1m20cmの高さに盛り上げて作られた土俵は、「蛇の目の辻(じゃのめのつじ)」と呼ばれ、極めて特異な形をしている。 |
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正面(南)には、高座敷が設けられて藩主が見物したので、力士が登場する東西と行司が登場する北の三方にしか上り口がない。隣村で生まれた江戸中期の名力士・雷電為右衛門は、この土俵で相撲を取ったことがあるという。 |
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ちなみに、相撲辻(すもうつじ)は、屋外で行った相撲の土俵とその場所を表す言葉で、蛇の目の辻(蛇の目辻)は、蛇の目のようなかたちを連想して付けられたものであろう。 |
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小諸八朔相撲の幟旗 |
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雷電為右衛門(1767 - 1825)は、信濃国小県郡(ちいさがたぐん)大石村(現長野県東御市とうみし)生まれの江戸時代の大関で、本名は関太郎吉(爲右衛門)。 |
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力士生活21年、江戸本場所35場所(大関は27場所)中、254勝10敗2分、勝率9割6分2厘で、大相撲史上、古今未曾有の最強力士に推す意見も多い。横綱免許は受けなかったが、東京・深川にある富岡八幡宮の横綱力士碑に「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われることが多い。 |
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石鳥居の左(西側)にある |
雷電 |
像 / 諏訪大社本宮(長野県諏訪市) |
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子供たちの支度部屋は、小諸八幡宮西方約200mに位置する八幡町会館(はちまんちょうかいかん)である。八幡宮の下見をしたあと、八幡町会館に赴くと、絢爛豪華な化粧まわしをつけた子供たちがパレードの出発を待っているところだった。 |
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化粧まわしを締めて町内パレードにでかける子供たち / 八幡町会館 10:55 |
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▲▼ この年、八朔相撲に参加した子供たちは、6歳から12歳までの小学生、総勢19人だった。氏子総代長の小林忠昭さんによると、豆力士たちは、小組しょうぐみ(1・2年生)、中組ちゅうぐみ(3・4年生)、大組おおぐみ(5・6年生)に分けられており、それぞれに横綱が一人いる。参加者が少ないときは、幼稚園児や保育園児の参加もある。中学生になると思春期を迎え、裸になるのを嫌う傾向があり、八朔相撲は、小学生を中心に行われるという。 |
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子供たちは、荒町六区を管轄する小諸市立坂の上小学校の児童であるが、少子高齢化により、小諸八幡宮の南隣に位置する野岸小学校にも応援参加をお願いしているという。 |
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▼ 平成21年(2009)9月6日(日)午前11時、八朔相撲一行は小組を先頭に町内パレード(練り歩き)に出発した。幣束を持って行列を先導するのは、
建功神社の中山美恵子宮司。小諸八幡宮の曽根徳隆宮司の妹さんで、この日は応援に駆けつけてきた。 |
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● 八朔相撲は、小諸市教育委員会
生涯学習課(TEL 0267-23-8880)の資料では、次のように説明されているが、現在はかなり簡略化されている。 |
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荒町全町の中から6歳〜14歳までの子どもが土俵入りをする。みな金系銀系で繍箔(しゅうはく)(刺繍で飾る)したさん然たる化粧廻を締めて、縮緬の思い思いの襦袢を着し、福草履(白と紫をより合わせた太い緒の草履)を履き、大組には二人の横綱あり、これは縮緬の白と桔梗紫のより合わせた綱を腰に廻し、その先を後より両肩に出し七五三を下げる。本場所のそれに異ならず、行司はやはり、その年長者のうち二人、肩衣(室町時代移行の武士の礼服。小袖の上に、肩から背中をおおって着るもの。下には半袴を着ける。)、福草履に軍配扇を持つ。 |
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子どもたちは年齢により、小組・弓引・中組・大組の四組に分けられる。かつては祭典の十日前から稽古を始めたといわれている。祭典前日、八幡町公民館(以前は海応院、呑竜様仏光寺)で支度をし、祭事係、相撲世話人が付き添い、予習する。 |
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当日は、最上の組を先頭に、行司、横綱、大組、中組、弓引、小組の順で町内を一巡する。その後、社内に入り、神前でお払いを受けて、定の席に着く。古くから藩主が上覧したことから御前相撲と称え、祭日の式はこの土俵入りが終われば、それで御祭礼相済み、という届けをするのが例であった。 |
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豆力士たちの後ろ姿 |
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祭日には神官の土俵開きの祝詞の式が終わると、小組から化粧廻しをつけて順次土俵入りをし、藩主は重役を随(したが)えて幔幕(まんまく)を張りめぐらした高桟敷で上覧する。これが終われば、子ども一同に「竹に雀」の扇一本を賜るのが例であった。 |
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白壁の土蔵の前を下る中組たち |
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終了後、普通相撲を始めた。これも他所と異なり、すべて三番勝負、その勝者に賞品を与えた。翌二日、子どもは祭事係、相撲世話人の付添で御礼参りといって、また町内を一巡し、庄屋の家へ行って、あらかじめ設けてある敷物の上で、土俵入りの形をしてこれで終わることになった。 |
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小組・中組の横綱の後ろ姿 |
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はっさくや けしょうまわしの まめりきし |
First of
August, children of sumo wrestlers wearing an ornamental
loincloth. |
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天機山光岳寺山門前を行く大組たち / 荒町一丁目 11:12 |
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小諸市教育委員会が八朔相撲の調査資料を作成して小諸市重要無形民俗文化財に認定した平成8年(1996)頃は旧暦の八朔に近い9月1日を開催日としていたが、平日に当たると子どもの学校があるので、現在は、9月第1日曜日に行われている。 |
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バヤリースを飲んで水分補給 11:15 |
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▲▼ 八朔相撲一行は、荒町の北まで練り歩き、隣接の本町(ほんまち)の石橋でバヤリースを飲んで休憩した。 |
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本町の石橋の上で休憩 |
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川に何があるの? |
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