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 感動写真集

2012年6月15日改訂

 

 

 

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♪巡礼 KasedaMusicLabo

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          金龍や蓮珠の舞の早春賦  北舟

2006年6月23日作成

金龍の舞の熱演

金龍の舞の熱演(淺草寺/東京都台東区)

淺草神社神紋「三葉葵」   淺草神社神紋「三網」   淺草神社神紋「左三巴」

江戸っ子!三社祭

示現会

淺草神社あさくさじんじゃ
 三社(さんじゃ)様・三社権現の名で親しまれる淺草神社は、淺草寺観音堂(本堂)正面から東60mに鳥居があり、その奥に拝殿がある。祭神は隅田川で観音像をすくい上げた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟と、その像を小堂に奉安した土師真中知(はじのまつち)である。
 網が3つ組み合わされた神紋・三網紋は、他に例を見ないもので、淺草寺創建の功労者である三柱の神を象徴している。
 のちに、現在の淡島堂付近にあった東照宮が寛永19年(1642)に焼失したため、東照大権現(徳川家康)を合祀した。三網紋のほかに徳川の葵の紋があるのは、そのためである。 
淺草神社
淺草神社

資料

震災も戦災も無事だった淺草神社

震災も戦災も無事だった淺草神社

撮影:和田義男

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 淺草神社(三社権現社)の創建は平安末期から鎌倉時代初期で、現社殿は慶安2年(1649)徳川三代将軍家光の寄進になるもの。拝殿・石の間・本殿を工の字形に配置して1棟を構成する権現造りといわれる江戸初期の建築様式を伝える建物で、先の戦争でも難を逃れ、昭和21年(1946)国の重要文化財に指定された。
 江戸時代以前は、神仏混淆(しんぶつこんこう)により淺草寺と一体となっていたが、明治のはじめ、神仏分離政策により淺草寺と別れ、明治元年(1868)三社明神、同5年(1872)淺草神社と改称し、現在に至っている。

塗り替えで色彩が蘇った淺草神社

塗り替えで色彩が蘇った淺草神社

撮影:和田義男

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三社祭さんじゃまつり
 淺草神社の祭礼・三社祭は、氏子44ヵ町と浅草組合*1(あさくさくみあい)で構成される淺草神社奉賛会の主催により、毎年5月17・18日に近い金・土・日に行われる。 平成18年(2006)は5月19・20・21日に催行された。
*1浅草組合:正式には東京浅草組合といい、料亭、置屋、芸妓の組合費で運営される連絡事務所。芸者の料亭への手配、花代の支払い、諸行事など浅草の花柳界*2(かりゅうかい)の運営を請け負う。
*2花柳界:芸者衆が出入りする料亭街。宋代の文人・ 蘇東坡(そとうば)*3が詠じた禅語「柳緑花紅」に由来する。
*3蘇東坡:北宋の詩人。蘇軾(そしょく)ともいい、「春宵一刻値千金」で始まる「春夜」という有名な詩で知られる。

車夫とガッツポーズ!

車夫とガッツポーズ!

撮影:和田義男

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 人力車茅の輪の前でポーズ取り 北舟 

じんりきしゃ ちのわのまえで ぽーずとり

観音祭かんのんまつり
 江戸時代には、隅田川から観音像が現れた日に因んで1年おきの3月17・18日に本祭(ほんまつり)が行われた。当時、淺草寺と三社権現社は一体で、祭礼は観音祭(かんのんまつり)と呼ばれた。三社神輿を淺草寺の観音堂に安置(堂上げ)し、氏子町内から繰り出される豪華な山車(だし)行列が勢いと絢爛(けんらん)さを競い合い、神輿を堂下げして隅田川を渡御する船祭(ふなまつり)が行われた。

三社神輿船渡御の図 / 三月十八日淺草三社権現祭禮 (東都歳時記)

天保9年(1838)に刊行された東都歳時記は、斎藤月岑編集による江戸市中・近郊の季節の行事や名所などのガイドブック。特に当時の花見風俗がリアルに描かれている。

三社神輿船渡御の図 / 三月十八日淺草三社権現祭禮

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 明治になると、観音祭は、政府の神仏分離政策により、淺草寺の法要としての示現会(じげんえ)と、淺草神社の祭礼としての三社祭とに分かれ、示現会は3月18日に、三社祭は5月17・18日に行われるようになった。また、本社神輿の船渡御に代えて氏子各町への渡御が行われるようになった。

淺草寺参道に現れた金龍

淺草寺参道に現れた金龍

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淺草寺本尊示現会せんそうじほんぞんじげんえ
 観音示現会ともいわれる淺草寺本尊示現会は、推古36年(628)3月18日に隅田川から観音像が現れた日に因んで、3月18日に近い土・日に行われる。平成18年(2006)は3月18・19日に斉行された。

観音を象徴する蓮華珠に欣喜雀躍する金龍

観音を象徴する蓮華珠に欣喜雀躍する金龍

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金龍の舞きんりゅう まい
 3月18日(土)〈午前11時〉〈午後2時〉〈午後3時〉の3回、境内において金龍の舞が奉演された。この舞は、昭和33年(1958)10月、観音堂の落慶を祝して浅草観音慶賛会が後世に伝える記念行事として創始したもの。
 金龍の舞の創作に参画した久保田万太郎*は、「金龍の舞の奇瑞や暮れの秋」という句を残している。
*久保田万太郎(1889 - 1963):東京市浅草区田原町(現在の東京都台東区雷門)生まれの浅草っ子で、劇作家・小説家・俳人。通称、久保万。三田派を代表する作家。下町情緒を描く作品で有名。

ベスト・ナインによる熱演

ベスト・ナインによる熱演

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 金龍や蓮珠の舞の早春賦 北舟 

きんりゅうや れんじゅのまいの そうしゅんふ

 隅田川で漁をしていた兄弟の網に黄金の観音像がかかり、村長(むらおさ)の家に安置したところ、金の鱗をつけた龍が天から舞い降りてきたという伝説にちなんで創始されたもの。隅田川に観音像が現れた3月18日の示現会と10月18日の菊供養に金龍の舞が奉納される。
 寺伝には「18日、寺辺に一夜にして松千本ほど生ず、3日を過ぎて天より長さ百尺ばかりの金鱗の龍、松の中に下りしがその後あるところを見ず、これによって金龍山という」とある。

金龍の舞の熱演

金龍の舞の熱演

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 舞の振り付けは長崎の蛇踊りに範をとっているが、先頭の蓮華珠(れんげじゅ)は観音を表し、金龍はこの観音の姿に欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して舞い踊るさまを表現している。
 金龍は、長さ約15m、重さ約80km、全体が金箔で覆われている。1人 が蓮華珠を捧げ持ち、8人が龍を操作しながら勇壮な舞を披露する。稚児行列や手古舞(浅草おどり)と共に披露される。
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