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2月24日(土)、東京駅で目黒区にお住いの山本啓一さん(69歳)と合流、新幹線を利用し、水沢江刺(みずさわえさし)駅まで2時間、タクシーで15分で岩手県奥州市水沢区黒石町(くろいしちょう)にある天台宗(てんだいしゅう)妙見山(みょうけんざん)黒石寺(こくせきじ)に行き、裸の男と炎の奇祭として知られる蘇民祭(そみんさい)を徹夜で激写した。こゝでは速報版として解説するので、蘇民祭について知識のない方は、拙著 日本三大奇祭(黒石寺蘇民祭) を参照願いたい。 黒石寺公式ホームページ |
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黒石寺本堂(薬師堂) |
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本尊・薬師如来座像(国指定重要文化財) |
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黒石寺承認 |
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本堂(薬師堂)前から見た参道 |
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「山さん」と愛称される山本さんは、通称「山本グループ」のリーダーで、部外者として参加されている中では蘇民祭の第一人者であるといっても過言ではなく、今年の蘇民祭で28回目となる超ベテランである。山さんは、黒石寺の藤波洋香(ふじなみ・ようこう)住職(別当)とも親しく、自宅から電話でやりとりする間柄である。 |
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国指定の「記録保存すべき無形民俗文化財」である蘇民祭を取り仕切る黒石寺蘇民祭保存協力会青年部(阿部新治部長、部員40人)の部長以下の幹部とも長年の付き合いがあり、地元民と同じような扱いを受けている。 |
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今回、山本グループの密着取材を行い、黒石寺蘇民祭の最新の状況を切り取ってきた。今年山本グループは、約10人が参加し、本堂(薬師堂)に向かって右の一番便利な精進小屋の最奥地が本拠地として青年部から割り与えられたので、私も彼らの一員として起居を共にした。 |
■■■ 裸 参 り ■■■ |
瑠璃壺川 |
に下りてきた |
総代 |
を先頭とする行列(裸参り) |
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山さんとともに今年26回目の参加となった「昇(しょう)ちゃん」こと長谷川昇司さん(56歳)(八王子市)と、10回目の「KUMAちゃん」(39歳、東京浅草)のお二人にも密着取材のご了解をいただいた。山さんと昇ちゃんは、蘇民祭のポスターにも登場しており、蘇民祭の関係者で知らない人はいないほど有名である。KUMAちゃんは、私のホームページの裸祭りに登場頂いている方で、今回、初めて親しく歓談することができた。 |
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↓KUMAちゃん |
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日程は従来とまったく変更はない。午後10時から裸参りが始まるので、1時間前から場所取りを行い、特等席でベストショットをものにすることができた。手桶で水面をたたいたり、撮影至近で水を被ったりして、わざと水を掛ける人もいて、全身ビショビショになり、カッパを着て撮影すれば良かったと後悔した。二台の愛機も濡れ鼠になったが、幸いカメラの故障はなく、レンズをハンカチで拭きながらの撮影となった。 |
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裸参りは、総代を先頭に隊列を組み、厄年連中、一般祈願者、善男善女が角燈(かくとう)と呼ぶ提灯を持ち、「ジャッソウ」「ジョヤサ」の掛け声をかけながら、瑠璃壺川(るりつぼがわ)の垢離取場に入り、頭から3度水を被って身を浄め、本堂(薬師堂)、妙見堂を巡り、五穀豊穣、災厄消除の祈願を行う。これを3度繰り返す。褌(ふんどし)をしている人も3度目の水垢離には褌を外すのが作法で、裸の参加者約100名のなかで、今年は昇ちゃんほか1名がそれに従った。 |
親子の寒中水浴 |
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ジャッソウは「邪正・邪(よこしま ジャッ)を正(ただす ソウ)」、ジョヤサは「常屋作・とこしえの住まいを作る/家内安全」という意味らしい。 暖冬とはいえ、外気温はこの夜-8℃を記録し、吐く息が白い。3度目の水垢離を終えて石段を上がってくる若者たちから掛け声の合間に「イタイ、イタイ」の声が聞こえた。参加者たちは、青年部によって割り振られた精進小屋に入り、炭火で凍てついた手足を温め、仲間と酒を酌み交わしながら歓談し、次の出番を待つ。 |
裸参りのあと精進小屋で暖を取る山本グループ(手前が昇ちゃん)
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裸のまま上着だけ着用。昇ちゃんは褌もしていない。酒で身体を暖め、炭火で手足を温める。楽しい談笑のひととき。 |
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午後11時半から柴燈木登(ひたきのぼり)が始まった。徹夜の五つのイベントの開始には、必ず警備本部が置かれている鐘楼の梵鐘が鳴らされるので、それを聞いてから出掛ければ、場所取りをしないのであれば十分に間に合う。昇ちゃんは、柴燈木(ひたき)に素裸であがり、火の粉を浴び、煙にむせびながら、得意の山内節(やまうちぶし)を熱唱した。大きな声を出すため、煙を多量に吸い込み喉を痛めて声が変になった。いつものことだという。 |
山内節 |
を熱唱する昇ちゃん( |
柴燈木登 |
) |
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昇ちゃんの山内節は一級品で、地元の後継者に指導しているほど。 |
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柴燈木登(ひたきのぼり)は、柴燈木に登るという意味ではない。「登(のぼり)」とは庫裏(くり)から本堂(薬師堂)に出向くことをいうので、柴燈木の行事をするために必要な資器材を携えた行列が庫裏の入口から魔を払いながら本堂に向かうことを意味する。このあとの別当登(べっとうのぼり)や鬼子登(おにぼのぼり)も全く同様である。 |
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別当登(べっとうのぼり)は翌25日(日)午前2時。梵鐘を聞いてから庫裡(くり)の入口に待っていると、行列が現れる。別当の藤波洋香(ふじなみ・ようこう)住職の後に、蘇民袋を持った総代が行進。バッチリとカメラに納めることができた。蘇民袋は麻製で、蘇民将来(そみんしょうらい)の護符(ごふ)(魔除けの御守)である長さ1寸(約3cm)の小間木(こまぎ)が沢山入っている。 |
蘇民袋 |
を持つ総代( |
別当登 |
) |
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午前4時から鬼子登(おにごのぼり)。数え年7歳の男児二名が鬼子として麻衣をまとい、木製の鬼の面を逆さに背負って、大人におんぶされて現れる。前の子は木槌(さいづち)を、後ろの子は木斧(きおの)を持っている。鬼の面を逆さに背負うのは、鬼が暴れ出さないようにするためだという。 |
鬼面を逆さに背負う |
木槌 |
を持つ |
鬼子 |
(鬼子登) |
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鬼面を逆さに背負う |
木斧 |
を持つ |
鬼子 |
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鬼子が本堂内陣に入った後、本堂外陣中央で手木(てぎ)の刀を頭上に構えた親方(世話役)2名により結界を作って護摩台とし、僧侶が桶に入った曼荼羅米(まんだらまい)と十二支の形に作ったしんこ餅を撒き、信者らはそれを拾って口にする。 |
結界の中(護摩台)で |
曼荼羅米 |
と十二支の形に作った餅を撒く僧侶 |
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次に内陣東側の内御堂(うちみどう)から点火した二把(にわ)の松明(たいまつ)が外陣に持ち出され、鬼子を背負った人が火の上を飛び越しながら松明を三回まわって東内御堂(ひがしうちみどう)に戻る。水掛役により松明に水が掛けられて白煙が上がると、蘇民袋争奪戦となる。 |
渦の中心を指示する親方と山さん(蘇民袋争奪戦) |
↓KUMAちゃん ↓親方 ↓山さん・昇ちゃん |
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午後5時頃、袋出しと呼ばれる男たちが蘇民袋を持って東内御堂から外陣に入り、メインイベントの蘇民袋争奪戦が始まった。私は鬼子登の列と一緒に外陣に入って、争奪戦を迎えた。内陣と外陣を隔てる格子には、その中央に山さんや昇ちゃん、KUMAちゃんが取りついている。 |
蘇民袋の切り口を開けるために短刀をくわえて飛び込む素裸の親方 |
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小刀を口にくわえた素裸の親方が山さんらの助力で格子に取り付き、頃合いを見計らって、渦の中心めがけて飛び降り、蘇民袋に切口を入れ、小間木を取り出せるようにした。その後、危険な小刀は、親方から山さんに手渡され、格子の奥の内陣に隔離された。親方はそのまま争奪戦に参加した。 |
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争奪戦は、外陣で1時間ほど揉み合うことになる。裸押しと呼ばれる争奪戦の渦は、出そうになっても競技役員が押し戻して、出させない。その間に、小間木は蘇民袋からこぼれ落ちたり、暫定取主によって全てばらまかれるので、裸衆だけでなく観衆も拾うことができる。私も外陣に入っていたので、幸運にも1個手にすることができた。麻袋が空になった時点で蘇民袋そのものの争奪戦に移り、屋外に渦が移動することになる。 |
蘇民袋から |
小間木 |
を出してばらまく暫定取主 |
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昇ちゃんからもらった文字の入った小間木↓ |
↓私の拾った小間木 |
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疫病の護符である小間木(こまぎ)は、将軍木(かつのき)を削って六方形とし、「蘇民将来子孫門戸☆」の九文字が書かれ、一寸(約3cm)の長さに切ったものであるるが、私が手にした小間木は文字が書かれていないものだった。 |
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毎年2月中旬に開催される岡山の西大寺会陽に参加しているグループ約15人が今年の蘇民祭に参加したため、白熱した争奪戦になった。今年の西大寺会陽では、宝木(しんぎ)の争奪中に圧死者が出ており、黒石寺蘇民祭とともに日本三大奇祭に数えられる西大寺会陽は、聞きしにまさる激しい裸祭りである。 |
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それに比べると蘇民祭は、審判団のコントロールの下で、おおらかな争奪戦を楽しむというコンセプトであり、多少の擦り傷ができても命をかけて争うような激しい戦いではない。長い間培われてきた県民性や社会環境の違いがこのような伝統文化の差となって現れており、大変興味深い。 |
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しばらくして、争奪戦のルールを知らない人が審判団の隙を縫ってまだ小間木が入っている蘇民袋を外陣から外に持ち出したため、「馬鹿野郎、何やってるんだ! 戻せ戻せ!」の怒号が飛び交い、争奪戦が中断する事態となった。 |
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間もなく蘇民袋が無事に外陣に戻され、争奪戦が再開された。小間木がばらまかれ、裸衆や観衆が拾う光景が繰り返された。予定時間ののち、午前6時ころ争奪戦の渦が外に出た。石段を下り、国道343号に出て、車道を西に進み、明るくなってきた頃、いつもの終着地である国道南側の畑に下り、最後の決戦が始まった。 |
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私は渦の後方から撮影していたが、既に先行して場所取りをしている人が殆ど。ところが、畑から土手の方に渦がUターンし、私の目の前に渦が現れた。そのお陰で、低い土手の斜面から下に覗き込むようにして高見の見物の格好となり、決定的なシーンを撮影することができた。 |
幾重にも折り重なる人の層をはがしながら判定作業を行う審判たち
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↓審判 ↓審判 |
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上下2枚の写真がそれで、私以外に審判が取主から蘇民袋を受け取るシーンを撮影できた人はいないはずで、下の写真は、超ラッキーなショットとなった。撮ろうと思って撮れる写真でないので、見れば見るほど貴重な画像である。(^^; |
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↓審判 |
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審判の判定が終わり、蘇民祭の行事は午前7時ころ全て終了した。参加者が私服に着替えた後、鐘楼1階の警備本部で表彰式が開かれ、今年の取主となった鈴木長一さん(48歳)に藤波住職から賞状が授与され、米俵1俵と記念品などが青年部役員から手渡された。 |
鐘楼1階の警備本部で藤波洋香(ふじなみ・ようこう)住職(別当)による取主の表彰
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見事取主の栄誉に輝いた鈴木さんは、岩手県遠野市(とおのし)宮守町下鱒沢(みやもりちょう・しもますざわ)の方で、鐘楼の前でマスコミの取材を受けていたので、終わった後、我々の小屋の前で記念写真を撮らせていただいた。遠野市は、岩手県内陸部にあり、日本の民俗学の草分けである柳田國男の名作「遠野物語」や河童や座敷童子(ざしきわらし)で有名な「遠野民話」などで全国的に知られる町である。 |
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青年部と個人グループの貢献 |
参加者がせいぜい100人程度の小さな地方の祭りが、これほどまでに有名になって全国に認知されるようになったのは、30年前に青年部ができ、廃れかけていた千年余の歴史ある伝統行事の保存伝承に立ち上がったことが大きい。 |
今年は青年部発足30周年の節目に当たり、地元の胆江(たんこう)日日新聞の胆江日日文化賞を青年部が受賞することが決まっている。表彰式は3月7日であり、心から受賞をお喜び申し上げたい。 |
しかし、今年で28回目の参加となる山さんは、青年部がわずか5人ほどの勢力で発足して間もなく初参加し、素朴で大らかな蘇民祭の魅力に惹かれ、爾来、青年部に協力して伝統の復活に尽力してきたというから、青年部の幹部が彼を大事にするのは当然であり、それに賛同して協力してきた昇ちゃんやKUMAちゃんなど個人グループの貢献も高く評価したいと思う。 |
これからも存続する蘇民祭 |
internetで黒石寺蘇民祭を検索すると、色々なサイトで蘇民祭について書かれた記事を目にするが、そのなかで、「黒石寺蘇民祭が存亡の危機にある」という記事を目にした。確かに、数えで7歳の鬼子がなかなか見つからなかったり、外部からの参加で支えられている側面があるが、人手不足は東京の三社祭などでもみな同じ状況にある。 |
それだけの理由では、誰も存続の危機に瀕しているなどとは思わない。特に蘇民祭の場合は、人望の厚い藤波住職のもとで、盤石の実行部隊である青年部40人のほか、山さんなど伝統を守るグループがしっかりと根付いており、国から指定を受けた「記録保存すべき無形民俗文化財」であるこの蘇民祭が廃れるようなことはあり得ない。 |
昇ちゃんと蘇民祭 |
私が心配するのは、このおおらかな祭りが、変質してゆくということである。数年前から素裸で参加することを自粛する動きがみられ、今年、素裸で裸参りをした人は、昇ちゃんを含めて僅か二人であった。昇ちゃんは、伝統に従って三巡目で素裸になり、その後柴燈木(ひたき)に上がって素裸で山内節を披露した。 |
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昇ちゃんが載った2006年のポスター |
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しかし、事後、昇ちゃんは警察から褌を締めるよう注意を受けた。藤波住職が健全な蘇民祭を永続させるために苦渋の決断をしていたことを知った昇ちゃんは、ショックを隠しきれないでいたが、住職の意を酌んで、来年から素裸を止めることにした。そのため、来年の蘇民祭から素裸で参加する人はいなくなり、褌だけの裸祭りになる。 |
全裸ということで奇祭といわれ、全国的に知られるようになった黒石寺の蘇民祭は、その弊害として興味本位の参加者が増え、風紀が乱れ、全裸ビデオが流れて、アダルトサイトなどで悪用されるなど、公序良俗に反する弊害が指摘されてきた。藤波住職もこれ以上伝統文化だとして固持できないと判断されたものと思われる。 |
記録保存すべき無形民俗文化財であるだけに、私ばかりでなく、蘇民祭の伝統を守るために献身してきた山本グループや有識者たちは、日本の祭りのおおらかな原点が失われることの重大性に鑑みれば、どうしても割り切れない気持ちが残ることはいなめない。地元にも賛否両論がある。 |
しかし、時代の変遷による価値観の多様化や映像文化の発達などに伴い、伝統文化も時代の要請に合わせて変質してゆかざるを得ない状況にあり、黒石寺住職の決断は、現実的選択と思われる。 |
私の予測では、今後、蘇民袋を切り裂く親方のように祭祀の重要な部分は素裸の伝統を保持し、観衆の面前で裸参り・柴燈木登・蘇民袋争奪戦に参加する者には褌が義務づけられるものと見られる。 |
ともあれ、一般参加者の素裸が無くなったとしても、それ以外の伝統文化は大手を振って存続させることができるわけで、蘇民祭を末代まで健全に伝えてゆけることが約束されたともいえよう。 |
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そして、昇ちゃんは、蘇民祭千余年の歴史の中で、柴燈木の上で素裸で山内節を唄った最後の男として、永遠に語り継がれてゆくことになる。昇ちゃん、長い間ご苦労さま、そして、おめでとう! これからは、褌を締め直して誰に憚ることなく山内節を唄って欲しい。 |
苛酷な蘇民祭 |
暖冬で雪は無いとはいえ、-8℃の深夜に褌一丁で三度境内を巡回して水垢離をし、柴燈木登で火の粉や煙を浴び、早朝には2時間にわたって蘇民袋争奪戦を繰り広げる蘇民祭は、とても苛酷な祭礼である。参加者に聞いてみると、無傷の人は皆無で、足の痺(しびれ)れや痛みは共通しており、精進小屋の炭火で温めて感覚が戻るかどうかといったところである。 |
山本グループで一番ダメージが大きかったのがKUMAちゃん。足の凍傷が一番ひどく、水沢江刺駅ではびっこを引き、電車を待つ間、足のマッサージをしていた。そのほかに、柴燈木登で身体のあちこちに火傷を受け、飛び降りたときの打撲や擦り傷・切り傷があり、争奪戦では筋肉痛になったそうで、回復に1週間ほどかかったという。 |
KUMAちゃんの他にびっこを引く人は見かけなかったが、足のダメージは共通しており、程度の差はあっても軽い凍傷にかかるようである。祭りの最中は興奮しているので、感覚がないが、終わってから感覚が戻ってくると、痛みや痺れを感じるようで、KUMAちゃんも争奪戦が終わるまではびっこを引いていなかったのに、終わってからびっこを引くようになった。それでも翌年には参加するので、彼らは毎度のことと意に介していないようである。 |
感動の蘇民祭 |
2001年10月、友人から誘われて、初めて兵庫県姫路市の灘のけんか祭りを見て、男らしい裸祭りの素晴らしさに魅了された私は、それ以来、全国の裸祭りの取材を続け、次々に作品を発表し、日本の裸褌文化を紹介してきた。 |
まだ8年しか経っていないが、これまでに最高の感動を受けたのが、この蘇民祭である。天台密教や修験道などが習合し、東北のこの地で独自の文化を育んできた蘇民祭は、梵鐘、法螺、太鼓、角燈、手木などを用い、僧侶や信者たちが列をなして独特の作法や呪文で魔を払いながら境内を巡る。特に鬼子の登場は奇抜である。 |
何といっても素晴らしいのは、裸の男たちが厳寒の中で雪解け水を浴び、柴燈木(ひたき)に上って火の粉や煙を浴びて身を清めつつ声高らかに山内節を唄い、蘇民袋を求めて裸のぶつかり合いを見せることである。 |
厳寒地で徹夜で行われる蘇民祭は、奇祭といわれるにふさわし魅力が沢山あるが、とりわけ、日本の祭祀のおおらかな原点が残されており、千年余もの歴史を刻んで今日に存続してきた重みがある。参加者たちは、徹夜の行事の合間に精進小屋の炭火を囲んで酒を酌み交わし、歓談しながら苦楽をともにする。こゝには男たちの裸の交流があり、都会に住む現代人が失ってしまった感動とロマンがある。 |
感動巨編に向けて |
二刀流で夢中で撮影した結果、一晩で800万画素2200枚3.5メガを切り取っていた。フラッシュ撮影が主となることから、予備電池を沢山持参した。予想外に消耗が激しかったが、何とか間に合った。 |
夜は-8℃に冷え込むなど、厳しい環境だったが、やっているときは、カッカしており、ホカロンなどを持参し、防寒の備えが十分だったので、寒さはそれほど感じなかった。小屋も炭火が強力で温かく、無料で使わせてくれるので、大変助かった。水洗トイレも完備しており、売店や食堂、自動販売機もあり、不自由はない。 |
これから、感動と興奮が醒めやらぬ内に、一気にフルバージョンを作成することとしている。蘇民祭についても、規模と内容と正確性において、日本一の作品にしたいと考えており、特に、裸祭りファンにとっては垂涎の作品になると思われ、ご期待いただきたい。 |
謝 辞 |
最後に、この取材の成功は山本さんはじめ密着取材させていただいた方々のご指導とご支援のたまものであり、心からお礼申し上げます。また、黒石寺の藤波住職や青年部幹部の皆様方の並々ならぬご配慮を賜り、大変お世話になりました。 |
末筆ではありますが、これからも日本の民俗文化の誇りである黒石寺蘇民祭の変わらぬ伝統の存続を祈念申し上げ、微力ではありますが、影ながら応援させて頂きたいと思っています。これからもどうか宜しくお願い申し上げます。 〈 合掌 〉
有り難うございました。 〈 完 〉 2007.02.26 和田義男 |