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枝垂桜の道を西に進むと天守閣入口に至る。使い捨てのビニール袋に靴を入れて手に持ち、400年前の状態が保存されている内部を見学した。 |
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松本城天守閣の入口 |
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天守一階は一間毎に柱が立ち、天守全体の重みを支える構造となっている。その周囲幅一間(いっけん)(1.8m)の通路は、内側の床より50cm低い。これを武者走(むしゃばしり)と呼ぶ。戦闘のとき、武士が矢玉を持ってここを走り回るのでその名がついたという。 |
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一間毎に立つ天守一階の柱と武者走 |
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二階は 鉄砲蔵 で、戦国時代から江戸時代まで、実際に日本で製作された火縄銃や鉄砲に関わる資料などが展示されている。松本城は、いわゆる「平城」と呼ばれるもので、築城のときから既に鉄砲を意識した構造が採用されているのが特徴。実際には、松本城で戦闘が行われることはなかった。 |
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天守二階の鉄砲藏 |
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日本初の大筒は、天正4年(1576)九州の戦国キリシタン大名・大友宗麟(おおとも・そうりん)こと大友義鎮(おおとも・
よししげ)がポルトガルから入手したものという。以後、朝鮮の役を経て、近江の国友や和泉の堺で製造された。 |
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火縄銃の大筒の展示 |
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大阪冬の陣(1615)では、稲富一夢(いなとみ・いちむ)の工夫による徳川方の50匁弾筒(ごじゅうもんめだんづつ)(口径30mm)の昼夜を分かたぬ猛射が大阪城天守閣の一部や淀君ら婦女子の館を破損して厭戦(えんせん)気分を早める戦略がとられ、和議を早める結果となったことは良く知られている。
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大筒の射撃図 |
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馬上で扱いやすいように銃身を縮めた馬上筒は、加藤清正が武器として取り入れたことが「常山紀談(じょうざん・
きだん)」に書かれている。それによると、「加藤家騎馬武者馬上鉄砲の事」と題して、清正の騎馬武者は、身分の
隔たりなく、全て長さ50cmほどの火縄銃を馬上で構え、敵陣に迫ると発砲してから槍を入れた、とある。 |
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火縄銃の展示 |
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銃身が短い馬上筒は、扱いやすいが、近距離でなければ命中せず、初期のものは連射もできなかったという。 |
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鉄砲頭の具足 |
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江戸後期になるとより一層研究開発され、2貫目玉筒(口径100mm)前後の大筒まで造られるようになったという。 |
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火縄銃を描いた戦国絵巻屏風 |
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三階は天守二重の屋根裏に設けられているので窓がなく、明かりは南側の千鳥破風(ちどりはふ)の格子から僅かに入るだけである。そのため、当時は「暗闇重(くらやみじゅう)」と呼ばれ、倉庫としていたという。柱は手斧(ちょうな)がけの跡が残ったまま。鉋(かんな)がけがなされているのは居所とされた四階以上である。 |
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削り跡が残る太い梁と柱(天守三階) |
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続く四階は、三階までとガラリと様子が異なり、柱が少なく、天井が高い上に、四方から外光が入るので明るく広
々とした感じである。柱、鴨居(かもい)、長押(なげし)などは全て鉋(かんな)仕上げである。有事の際、六階の最上階
とともに城主の座所に当てられたものと考えられている。 |
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天守四階の城主御座所 |
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四階から五階への階段は、天守閣の急な階段の中でも最大の難所で、梁(はり)が階段に近接し、傾斜が60度もあって、背負ったリュックサックがつかえるほど。係員が上下の交通整理と警戒に当たり、危なっかしい人には手を貸してくれる。 |
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背負ったリュックがつかえるほど狭くて急な階段 |
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天守五階は中央に3間(5.4m)四方の大広間があり、有事には幹部の居所に充てられるものと推定されている。四方に窓があるので、六階と共に周囲の戦況を見るのに都合がよい。30本の柱は全て創建当時のままで、うち4本は六階との通し柱である。 |
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四方に窓のある天守五階 |
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五階を過ぎ、再び急な階段を上がると、ようやく最上階の六階に至る。有事には最高幹部の司令塔(城主の座所)となる。六階の床面は地上22.1mの高さにあり、東は本丸庭園と美ヶ原高原(うつくしがはらこうげん)、南は松本市街の中心部と塩尻・木曾方面、西には安曇平(あずみだいら)が広がり、その向こうに乗鞍岳や槍ヶ岳などの北アルプスが見える。この日は春霞のために北アルプスは見えなかった。 |
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天守六階屋根裏に祀られた二十六夜神 |
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最上階に上って見逃してはいけないのが屋根裏にある二十六夜神。案内板にその謂(いわ)れが書かれている。 |
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天守閣最上階から臨む本丸御殿跡と美ヶ原高原(東方) |
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守護神二十六夜社勧請の謂れ |
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天守六階小屋梁の上に二十六夜社を勧請したのは、元和四(1618)年である。其の年の正月、月令二十六夜の月が東の空に昇る頃、二十六夜様が天守番の藩士川井八郎三郎の前に美婦となって現われ、神告があった。
「天守の梁の上に吾を奉祀して毎月二十六日には三石三斗三升三合三尺勺の餅を搗(つ)いて斎き、藩士全部にそれを分かち与えよ。さすれば御城は安泰に御勝手向きは豊かなるや」。
翌朝、このことを藩主に言上し、翌二月二十六日に社を勧請し、以来明治維新に至るまで其のお告げを実行してきた。お陰で松本城天守は多くの危機をのり越えて無事今日に至っている。 |
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六階最上階から |
埋橋 |
を臨む(北西方) |
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天守を降りて行くと、最後に月見櫓に至る。松本城は、現存する日本の城の中で唯一天守と月見櫓が連結され一体となっている城である。
月見櫓は、家康の孫にあたる松平直政が将軍・家光を迎えるため、寛永10年(1633)に増築されたもの。泰平の世になって造られたため、赤い高欄が雅な趣を醸し出しており、まるで能舞台のようである。 |
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