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2007年4月11日(水)中部地方が移動性高気圧に広く覆われたので家内と二人で特急あずさ3号で長野県松本
市に行き、花曇りのような霞のかかった晴天の下で、国宝・松本城の花見と戦国時代の様式を色濃く残す天守閣
の探訪を楽しんだ。 |
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JR中央本線松本行き特急あずさ3号が小渕沢(こぶちざわ)付近に差し掛かったころ、右側の車窓から北東方に八ヶ岳の勇姿が見えた。八ヶ岳(やつがたけ)は長野県の諏訪(すわ)地域と佐久(さく)地域及び山梨県の境にある南北30km余りの山塊で大火山群。赤岳(あかだけ)(2899m)を最高峰に横岳(よこだけ)などで構成。日本百名山の一つ。 |
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素晴らしい八ヶ岳 |
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車窓右の八ヶ岳・編笠山(2524m) |
編笠山↓ |
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左側の車窓から南西方向には南アルプス(赤石山脈)北端部が見えた。北端には鋸岳(のこぎりだけ)(2685m)〜甲斐駒ヶ岳(かいこまがたけ)(2967m)〜早川尾根〜鳳凰三山(ほうおうさんざん)の連峰が北西から南東に延び、この連山から野呂川・北沢峠を隔てた南側では、主に南北に連なる二列の山脈となる。最高峰は標高3192mの北岳
(きただけ)で、富士山に次ぐ日本第二の高山。 |
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北アルプスが急峻な山が多いのに対して、南アルプスは北部の甲斐駒ヶ岳〜鋸岳一帯を除き、比較的なだらかな山が多い。南アルプスが北アルプスより新しく隆起した山であるため、比較的浸食が進んでいないためだと考えられている。甲斐駒ヶ岳は、例外的に火成岩である花崗岩からなるため、山肌が白く峻険な山容である。 |
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車窓左の南アルプス・甲斐駒ヶ岳(2967m) |
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「文化薫るアルプスの城下町」がコンセプトの松本市は、長野県中部(中信地方)に位置し、人口約23万人を擁
する長野県第二の都市。 2005年4月に梓川村(あずさがわむら)、四賀村(しがむら)、奈川村(ながわむら)、安曇村(あず
みむら)の4村を編入した。 松本市公式ホームページ |
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JR松本駅 |
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松本駅前に播隆上人(ばんりゅうしょうにん)の銅像があった。その功績を讃える碑文は、次のように書かれていた。 |
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槍ヶ岳開山の祖 播隆上人(1782-1840)は 幾多の苦難をのりこえ 1828年に槍ヶ岳登頂を極めた 日本アルプスの命名者の英人ガウランドの登頂(1878)に先立つこと50年 まさに近代アルピニズムの黎明を開く不滅の業績を残した(以下略) 夏山の思い出・山岳の魅力(槍ヶ岳) 夏の北アルプス縦走(槍ヶ岳) |
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北アルプス(飛騨山脈)は、富山県、岐阜県、長野県に跨(またが)る山脈で、中央アルプス(木曽山脈)と南アルプス(赤石山脈)と共に日本アルプスを構成する。中央アルプスと南アルプスには火山が存在しないが、北アルプスには火山が多い。
北アルプスの形状は巨大なY字型で、その中心を流れるのが黒部峡谷。 その西側には剱岳・立山などの立山連峰が位置し、東側には白馬岳・鹿島槍ヶ岳などの後立山連峰が列なる。
播隆上人が1828年に初登頂に成功した槍ヶ岳(やりがたけ)は、北アルプス南部にある3180mの山で、長野県松本市・大町市・岐阜県高山市の境界にあり、日本百名山の一つに数えられている。 |
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松本市アルプス公園から臨む北アルプス |
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資料 |
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個人旅行の気ままな旅とあって、時間はタップリある。駅前のホテルに荷物を預け、internetで調べたお勧めコースを辿(たど)ることにし、松本市役所前の太鼓門に向かった。駅前からゆっくり歩いて20分ほどで着く。 |
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松本市内で見つけたお城の本屋 |
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国指定史跡で国宝の松本城は、別名を烏城(からすじょう)とも呼ばれ、地元市民の憩いの場として親しまれているが、400年ほど前に建造された日本最古の五層城郭である。
もともと室町時代以降この地を治めていた小笠原氏の深志(ふかし)城があった場所で、戦国時代末期の文禄2年(1593)から3年(1594)にかけて豊臣方の石川数正(いしかわ・かずまさ)・康長(やすなが)父子が城郭整備を行い、現在のような姿になったという。城郭が黒いのは、秀吉に忠誠を示すためといわれる。 |
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松本城のマップ |
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松本城の天守閣は、五層六階の天守閣(高さ29.4m)と三層の乾小天守(いぬい・しょうてんしゅ)(16.8m)を渡櫓(わたりやぐら)(12m)で連結している。泰平の世になった寛永10年(1633)、松平直政が藩主のときに二層の辰巳附櫓(たつみ・つけやぐら)(14.7m)と赤い欄干が特徴の一層二階の月見櫓(つきみ・やぐら)(11.1m)が増築され、連結複合式天守が完成した。辰巳附櫓は、天守閣と月見櫓を繋ぐためのものである。
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江戸時代中期の松本城 |
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明治維新の後、政府の政策により各地の城郭が取り壊されるなか、荒れ果て、崩壊寸前だった天守閣を地元有志が保護したことから当時の姿がそのまま残されたという。国宝の城郭は、松本城のほか、姫路城、彦根城、犬山城の4城しかなく、戦国時代の姿を今に残す貴重な文化遺産である。
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外堀と復元された太鼓門 |
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松本城には大手門、太鼓門、黒門の三つの枡形門(ますがたもん)が設けられていた。一の門(櫓(やぐら)門)と二の門(高麗門)からなる太鼓門は、二の丸に入る正門で、参勤交代などの集結の場として松本城の三つの枡形門の中で最も重要な役割を果たしており、平成11年(1999)に復元された新しい門である。 |
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巨大な玄蕃石↓ |
↓一の門(櫓門) 太鼓楼↓ |
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太鼓門枡形の櫓門(やぐらもん)の脇には、高さ約4m、周囲最大約7mの巨石が組み込まれている。これが玄蕃石(げんばいし)と呼ばれる石で、築城工事の際に、約22トンもある重さのために人夫が不平を訴えたところ、城主・石川玄蕃頭康長(いしかわ・げんばのかみ・やすなが)が自らその人夫の首を刎(は)ね、生首を槍先に刺して、人夫達に運
搬を強要したため、玄蕃石と名が付いたという。暴君ともいえる城主の封建時代を象徴する事件であるが、太鼓門にある説明板には玄蕃石の名があるだけで、このエピソードは紹介されていない。 |
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二の丸御殿跡 |
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東向きに建つ枡形(ますがた)の太鼓門を通ると、右(北)側に広々とした二の丸御殿跡が現れる。城主の居館と政庁は本丸御殿だったが、享保12年(1727)に焼失してからは、二の丸御殿がその役割を果たした。
昭和53年(1978)に全面発掘が行われ、現在は敷地に芝が張られ、当時の間取りが地面に表示されているので往時の姿を偲ぶことができる。敷地の北西角には、類焼を免れた金蔵の二の丸土蔵が建つ。 |
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二の丸御殿跡から臨む天守閣(東面) |
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白鳥の泳ぐ内堀と黒門枡形 |
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黒門は本丸の正門で、本丸御殿が黒書院であったためこの名がつく。昭和35年(1960)に一の門(櫓門)が復興し、平成元年(1989)に二の門(高麗門)が復元され、黒門枡形が蘇った。黒門に向かって左側に料金所があり、入場料600円を払わないと、ここから先へは入れない。 |
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太鼓門より先に復元された黒門 |
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太鼓門の西を通り、その西側に南面する枡形の黒門を通ると、現在は本丸庭園と呼ばれる広大な本丸御殿跡に出る。敷地の南東部に見事な枝垂桜(しだれざくら)があり、そこから見る天守閣が絶景である。天守閣に向かって左側から赤い欄干のある月見櫓(つきみ・やぐら)、天守閣、乾小天守(いぬい・しょうてんしゅ)がL字型に建ち、美しい調和を見せている。 |
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