2018年7月3日改訂 |
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♪ラストエンペラー主題曲/サントラ版〜エレクトーン |
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1996年3月13日、早春の北京中心街にある故宮(紫禁城)を訪ね、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の一生を描いた映画「ラストエンペラー」の世界を垣間見た。
故宮の見学 明・清時代に北京・紫禁城に造営された宮殿・故宮は、故宮博物院の名で現存している。 場内の見学は、南の天安門をくぐり、午門で入場券を購入し、構内に入る。見学コースはひたすら北上し、神武門で外に出る。行程は数キロにのぼる。夏の暑い盛りには暑くて断念する観光客も多いという。神武門で車が待ってくれていた。その後景山公園に上り、故宮全体を一望した。 天安門 天安門には、巨大な毛沢東の肖像画が掲げられている。天安門の前面に広大な天安門広場が広がる。天安門広場といえば、どうしても天安門事件を連想してしまう。この事件を契機に中国の民主化を求める国際世論が沸騰したが、現在の状況は、経済特区による改革解放政策が重点で、民主化を求めるアメリカの要求には応えていない。 天安門事件 1989年6月4日未明、民主化を要求して天安門広場を中心に集まった学生・市民に、治安当局が人民解放軍による武力弾圧を行い、300余人の死者を出した事件。〈六・四事件〉とも呼ばれる。 |
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02 |
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天安門を抜けると、午門に至る。ここで参観券を購入し、中に入る。外国人の参観料は、55元 yuán 約600円である。普通の中国人の月収が3000円ほどだから、これはかなり高い。 映画「ラストエンペラー」では、午門がたびたび出てくる。若い溥儀が自転車に乗ってやって来て「門を開けろ」と言ったのがここだ。追放されたたくさんの宦官がいたのが午門前の広場で、溥儀は門の上に登ってその様子を見ていた。故宮を去る溥儀はこの門から出て行った。 故 宮 Imperial Palace 故宮は、北京の旧市内のほぼ中央を占める紫禁城のことで、明・清時代の古い宮城ゆえに故宮と呼ばれ、約490年間、24人の皇帝の居城となった。1987年ユネスコの世界遺産に指定された故宮は、中国にとって万里長城に並ぶ国宝である。 もとはこれとともに宮苑や官庁を併せ含んだ区域を皇城と称した。故宮は、南京から北京に遷都した明の成祖永楽帝が、1420年(永楽18年)に元の宮城跡に竣工したもので、明末に大破壊をこうむったあと、清がほとんどその規模を受けついで復興し今日に至っている。 故宮は南北960m、東西760m(約72万m2、東京の皇居は約22万m2)で、高さ10mの厚い城壁に囲まれ、四面に各1門、四隅に角楼を設け、その外に幅50m余の堀をめぐらしている。この中に9000近く の部屋があり、明代では9000人の宮女、宦官10万人が住んでいたという。 もとの皇城の正門に当たる天安門から、東の太妓(現、中山公園)と西の社稷(しやしよく)壇(現、労働人民文化宮)の間を通り、端門をへて宮城の正門である午門に達する。これをくぐると、御河に架した金水橋を隔てて太和門があり、内に太和殿、中和殿、保和殿の3大殿が南北に並び、きわめて壮観である。これらは国家の重要な儀式を行ったところで、中でも正殿である太和殿は中国最大の木造建築である。 東側には東華門内に文華殿、文淵閣、西側には西華門内に武英殿、南薫殿などがあり、以上の南半部は皇帝の公的な場所という意味で外朝と称する。その北半部は皇帝一家の私的な住居で内廷と称し、保和殿背後の乾清門から北に乾清宮、交泰殿、坤寧宮などが一直線に配置され、北門である神武門に終わっている。これを中央にして内廷は南北縦割りに5区域に分かれ、それぞれに多数の建築が立ち並ぶ。諸建築は明代の遺構もあるが、大部分が清代のもので、広大な敷地に黄釉の瓦屋根と朱塗りの柱壁が相映じ、往時の絶大な皇帝権を象徴している。 |
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午門をくぐると、高さ24mの太和門に至る。午門同様、門といっても巨大な建物である。太和門の向こうが太和殿となる。 溥儀 1906〜67 溥儀(ふぎ)は、中国・清朝最後の皇帝。在位1908-11年。年号により宣統帝という。また満州国の皇帝としては康徳帝といい、在位1934-45年。姓は愛新覚羅(あいしんじょろ)。光緒帝の弟載祭(さいほう)(醇親王)の長子として生まれ、西太后の意志で3歳で即位した。 辛亥革命により退位後も中華民国臨時政府の清室優待条件により大清皇帝の尊号を保持し、紫禁城内に住んで小朝廷を維持していたが、1924年馮玉祥ら国民軍の北京占領に際し、優待条件を取り消され天津に移った。それ以前も以後も清朝再興の望みを捨てなかったが、1931年の九・一八(満州)事変の翌年、日本の関東軍の働き掛けを受け入れて、彼らが樹立した〈満州国〉の執政、ついで1934年皇帝となった。 日本の敗戦によりソ連軍に捕らえられ、チタ、ハバロフスクの収容所を経て、1950年以後撫順、ハルビンで囚人生活を送り、1959年反省を認められて釈放され、北京の文史資料研究委員会に勤務した。1964年北京で出版された自伝《わが半生》は世界中で反響を呼んだ。 |
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太和殿 中国北京の紫禁城の外朝三大殿のうち最大の正殿である太和殿は、高さ35m、幅約63m、奥行き約33m、面 積2377m2で、中国最大の木構造建築である。殿の真中にある、金色に塗られ、竜が彫ってある玉 座(写真08)は、封建王権の象徴である。皇帝の即位、生誕と祝日の慶典及び出兵征伐などの国家の重要な式典は、ここで行われた。明代創建時には奉天殿といい、のちに皇極殿、清の1645年(順治2)に太和殿と改称された。 太和殿は、華麗な彫刻の高欄・階段をもつ白大理石造で高さ8mの三重基壇上に立ち、黄色琉璃瓦の二重寄棟造の大屋根をいただく木造建築で、細部の彩色や調度にいたるまですべて最高級の形式を採用している。
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まず目につく黄色の瑠璃瓦に紅い壁、皇帝にのみ許されるこの配色は、皇帝が天下の中心にあって絶大無比の権力を有していることを示している。 陰陽五行説で黄色は中央を表し、万物の本である土に属している。紅色は、火に属し喜悦や盛大なことを意味する。また各建物もその用途に合わせて配色されている。例えば、黒は水を表すが、「四庫全書」が収蔵された文淵閣などは火事の難を防ぐために、黒の瑠璃瓦が使われている。 西太后 1835‐1908 西太后は、中国、清末(1862‐1908)の最高権力者で、垂覧政治で有名。彼女は、咸豊帝の妃、同治帝の母で、満州族の出身。1852年咸豊帝の後宮に入り、1856年皇子載淳を生んだ。1861年咸豊帝が死ぬと載淳が即位し、年号が祺祥と改められ、彼女は皇帝の生母として慈禧太后と尊称されたが、同年恭親王奕辻(えききん)と組んで宮廷クーデタを起こして先帝の寵臣を処刑し、年号を同治と改め、先帝の皇后であった慈安太后とともに垂覧聴政を始めた。慈安太后が東太后と通称されたのに対し、彼女は西太后と呼ばれた。 1875年同治帝が病死すると彼女は自分の甥にあたる4歳の載腰(さいてん)を強引に帝位につけ、光緒と年号を定め、再び東太后とともに垂覧政治を行った。 |
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06 |
東太后が死に、1884年に奕辻が失脚すると、清朝の政権は彼女一人に集中した。日清戦争の敗戦後、1898年には変法派による政治革新が行われた。これに対し彼女は袁世凱の武力を背景に戊戌(ぼじゆつ)政変を起こして新政を失敗させ、変法派を処刑・追放し、光緒帝を幽閉して、三たび垂覧政治を始めた。 1900年義和団の反乱が起こるとこれを利用して親帝的な列強に宣戦したが、8ヵ国連合軍の北京占領にあって西安に逃亡し、媚外(列強におもねる)政策に方針を転じた。以後孫文らの革命運動を弾圧しつつ、清朝の維持存命のため、変法派の改革案をまねて立憲政治への転換を装った新政に着手したが、すでに手遅れであった。 1908年、光緒帝の死の翌日、3歳の溥儀(ふぎ)を次の帝位につけることを決めて病死した。 太和殿の高欄階段と雲龍階石 白亜の階段の中央は、延々と大理石に雲と龍の彫刻が施されたレリーフが続いている。「雲龍階石」と呼ばれる。清王朝の権威を誇示しているかのようだ。両脇に階段があり、高欄がある。 映画「ラストエンペラー」では、即位の儀式で、大勢の臣下が階段下の広場でひれ伏す中、3歳の溥儀がこの階段の頂上に立った。その後キリギリスの鳴き声に心を奪われ、宦官から容器に入った一匹のキリギリスを献上されて喜ぶ無邪気な新帝だった。 映画のクライマックスで、年老いた溥儀が太和殿に至るこの階段をヒョコヒョコと上がって行った。太和殿の内部にある玉座をめざして...。そして.....(写真08に続く)。 |
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太和殿の瑠璃瓦の屋根には、10匹の動物の飾りが見える。魔よけなどの意味があるのだろう。 紫禁城という名称 中国の古代天文学では、いつも定位置にある北極星を中心とした一群の星座(北斗星の北東の15の星)を紫微垣(しびえん)と呼び、天子の星座とし、天子の居所を紫宮と呼んだ。故宮もその星座の理念を地上に表した建て方がされている。また、庶民にとって皇宮は禁地であり、禁城とか禁中と呼ぶ。この二つの意味を込めて紫禁城と呼ばれるようになったという。 宦官 去勢(睾丸摘出)された男子で、有力者、とくに君主の宮廷に仕える者。宦官はエジプト、メソポタミア、ペルシアなどの古代東方諸国にすでに存在し、イスラム時代、オスマン・トルコ時代にも有力者のハレムを管理するために多数の宦官が用いられた。この風習は、西アジアから東西に伝わり、ギリシア、ローマにも存在したが、中世に入ってキリスト教が普及するとともに衰えた。またインドにも存在し、ことにムガル帝国の宮廷には数千人の宦官がいた。しかし歴史上、宦官の果たした役割が最も大きかったのは中国である。日本には存在しない。 |