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2006年11月16日(木)から3泊4日の日程で家内と共にクラブツーリズムのツアーに参加し、山水画で有名な中国の桂林( けいりん Guilin )に旅した。成田から広東省の省都・広州まで空路5時間(復路は4時間)、広州から桂林まで空路1時間。3日間連泊し、じっくりと霧の桂林を堪能することができた。時差は-1時間なので、非常に楽な旅だった。 |
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広州(こうしゅう コワンチョウ ピン音(びんいん): Guãngzhōu )は中華人民共和国の南部に位置する広東省(かんとんしょう)の省会(しょうかい)(省都)であり、華南(かなん)地区全体の行政的中心である。副省級市として省と同様の経済的な権限を与えられている。 |
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1894年広東省の陳姓の人々の寄付によって建てられた広東最大の建築物で、国の全国重要文化財に指定されている。 |
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面積7,434km2、人口713万人。流動人口が約300万と推定され、常住人口は約1,000万人とみられる。北京、上海に次ぐ中国第三の大都市で、昔から羊城と愛称され、また「花城」「穂城」の名もあり、「穂」と略称される。 |
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広州は古代の百越(ひゃくえつ)の地であるが、秦(しん)の始皇帝が中国を統一して南海郡番禺県を設置したのに始まる。秦帝国の崩壊後、漢人官僚・趙佗(ちょうた)が南越国を樹立して自立したが、前漢の武帝によって滅ぼされた。古代から中国の南海貿易の中心地として発展し、漢代には交州に属し、三国の呉(ご)が広州を分置した。 |
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註:実際は直線 |
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唐代半ばの741年には最初の市舶司(しはくし)が設置され、多数のイスラム教徒やユダヤ人が訪れた。外国人居留区である蕃坊(ばんぼう)もおかれた。唐末の黄巣(こうそう)の乱に際して襲撃を受け、多大な打撃を受けたが復興し、五代十国時代には南漢王国の首都となった。 |
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海禁政策を取った明代でも広州は南海諸国の朝貢船(ちょうこうせん)の入港地となり、清代半ばの1757年からは広州のみが外国に開放されて欧米諸国と広東貿易が行われた。華僑に広州出身者が多いのはこのためである。 |
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石畳の広い中庭 |
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アヘン戦争中の1841年には一時英軍に占領され、1911年には孫文(そんぶん)が広州蜂起を行い、辛亥革命(しんがいかくめい)*の先駆けとなった。袁世凱(えんせいがい)の没落後、孫文は1921年越秀山(えっしゅうざん)南麓で中華民国大総統に就任し、広州が中華民国の臨時首都となった。 |
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*辛亥革命:1911年に中国で勃発した革命で、清朝(しんちょう)が倒れ、中華民国が生まれた。映画「ラストエンペラー」は、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいぜんかくら・ふぎ)の生涯を描いたもの。 故宮探訪 |
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豪華な調度品のある部屋 |
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1924年には軍閥割拠の中国を統一するため国共合作を行い、黄埔軍官学校を設立、蒋介石が校長となり、周恩来が政治部主任を務めた。この時期には毛沢東も農民運動講習会をこの地で開催している。 |
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一人っ子の記念撮影 |
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孫文没後、蒋介石の国民党は共産党と分裂し、1927年共産党は広州コミューンを樹立したが、間もなく国民党軍の侵攻を受けた。蒋介石は1928年に首都を南京に移転した。 |
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日本の交番制度を見習った中国の派出所。安くて便利。 |
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中華人民共和国成立後も香港に近い広州は中国の対外貿易港として発展した。1979年ケ小平が対外経済開放政策を取ると、深圳(しんせん)・珠海(じゅかい)の経済特区を傘下に収める広州は更に経済成長を加速している。 |
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しかし多数の人口が農村から流入し、治安は悪化しており、金網や鉄格子の窓を持つアパートが多いのは、夫婦共働きの留守を狙った泥棒が増えているためという。 |
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40人のツアーは赤組・青組に分かれて二台のバスで観光。撮影は赤組で、ガイドはスキンヘッドの黎黄(れいこう)さん。 |
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孫文が中華民国大統領に就任した越秀山の南麓に位置する中山紀念堂は、孫文の業績を称え、辛亥革命後、広州市民と海外華僑が資金を出し合って建造したもので、 八角形の屋根を持つ独特の宮殿様式である。敷地はもと清朝軍の詰所だった所で、 辛亥革命直後は革命軍の司令部が置かれたこともある。
抗日戦争時、日本軍に爆撃され、 屋根の一部が破壊されたが、1963年に大規模な修理が行われた。記念堂の前庭には ステッキをもつ孫文の像が立っており、敷地内には孫文記念館が併設されている。 |
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中国の人口約13億のうち、4億人が海岸地帯に住み、改革開放政策により、豊かな生活を享受している一方で、残りの9億人が奥地の農村部に住み、昔と変わらぬ窮乏生活を強いられている。広州では一般労働者の月給が1〜3万円と高い水準にあるが、農村部では年収5千円程度であり、貧富の差は拡大するばかりだという。 |
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資料 |
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孫文(そんぶん Sūn Wén ) (1866年11月12日 - 1925年3月12日)は、中国の政治家、革命家。辛亥革命を起こし、中国革命の父と呼ばれる。 字(あざな)は中山 (Zhōngshān)、逸仙 (Yìxīan)。中国では前者で、欧米では後者の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senで知られる。
台湾(中華民国)では国父(國父、Guófù)と呼ばれる。また、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として「国父」の扱いをうける。中台両方で尊敬される数少ない人物である。生前は、その主張を単なる大言壮語ととらえ、孫大砲(大砲とはほら吹きに対する揶揄的な表現)と呼ぶ者もいた。
非常に短気で、激昂しやすい性格であった。中国では孫文よりも孫中山(そん・ちゅうざん)の名称が一般的であり、尊敬の念をこめて「孫中山先生」と呼んでいる。 |
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中山紀念堂にある孫文の胸像 |
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農村部の女性は良い暮らしを求めて都市部に流出しており、一人っ子政策の影響も大きく、地方の農村に住む成年男子の結婚はとても困難な状況にある。これから10年の間に適齢期の男性1億人が結婚できないというから、日本の比ではない。 |
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巨大な中山紀念堂の内部 |
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中華料理は、北京・上海・四川・広東など、所変われば品変わるが、「食は広州にあり」といわれるだけあり、広東料理は世界中に最も広まった中華料理である。広東語である飲茶(ヤムチャ)*やワンタンが英語でも日本語でもそのまま外来語として使われていることからも分かるように、中国国内でも広東料理店が増えているという。 |
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*飲茶(ヤムチャ):中国広東省、香港、マカオを中心に行われている習慣で、中国茶を飲みながら点心(てんしん)(菜(中華料理の主菜)と湯(中華スープ)以外のもの)を食べること。 |
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広州で夕食後、空路1時間で桂林空港に着き、迎えてくれた専用バスで三連泊する桂山大酒店に到着。強行軍の初日が終わった。ちなみに中国南部では酒店はホテルで、飯店はレストラン。北京では、飯店がホテルで酒店がレストランとなるが、桂林で飯店をホテルとして使っているところもあり、厳密な区別はなさそう。 |
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