2018年7月3日改訂 |
♪ラストエンペラー主題曲/サントラ版〜エレクトーン |
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太和門をくぐると太和殿、中和殿、保和殿の3大殿が南北に並び、これらの施設で国家の重要な儀式が執り行われた。中でも正殿である太和殿は、中国最大の木造建築で、皇帝の即位式など極めて重要な国事行為が行われた。 太和殿の玉座は、まさに歴代の皇帝が鎮座した権威の象徴であり、龍をモチーフに、黄金の椅子が偉光を放っている。玉座の下にはロープが張り巡らされており、ここから先は、立ち入り禁止となっている。 映画「ラストエンペラー」のラスト直前、白亜の階段を年老いた溥儀がヒョコヒョコとのぼり、太和殿の中に入り、昔を思い出して自分の椅子に座ろうとロープをまたぐと、少年が走ってきて、「止まれ!そこに入ってはいけない。 Stop! You are not allowed in there. 」と言う。溥儀が「だれ? Who are you?
」と尋ねると、少年は守衛の息子でここに住んでいるという。溥儀が「私は中国の皇帝だった。
I was the Emperor of China. 」というと、少年は「証拠は? Prove it. 」という。 |
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内廷の東北端に珍妃井(ちんひせい)と呼ばれる井戸がある。1900 年8ヵ国連合軍の北京侵攻に慌てた西太后によって光緒帝の妃、珍妃がこの井戸に投げ込まれ、溺死したというエピソードが残っている。思ったよりも小さい井戸だ。西太后はその後、夢に珍妃が出てくるようになり、相当悩まされたという。井戸に落ちないよう、鉄製のボルトが嵌められている。 防火用水槽 構内の所々に大きな金属容器が置かれている。何かと思ったら、防火用水槽だった。 故宮は、明代、永楽帝が新殿に移ってまもなく、三大殿が落雷により焼失、続いて乾清宮も火事に遭った。がっくりした永楽帝は、しばらく再建せず、1440年(正統5年)になってやっと修復した。しかし、その後も焼失、再建をくりかえしており、防火対策に頭を痛めた様子がうかがえる。 |
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皇極門の南に九龍壁がある。気をつけていないと見落とし勝ちだ。見事な彩色が施されている。すべて瑠璃装飾で、今にも躍り出そうな生き生きとした龍が9体描かれている。同じものは一つもない。 故宮のトイレ 故宮は、ベルサイユ宮殿と同様、厠所はない。そのかわりに、毎日使われる大量の木炭の灰を集めて貯め、それを利用して排出物の処理をしていたという。宮殿の住人は皆便盆・便壷(おまる、陶器製)を用い、用が済むとすぐ雑用専門の宦官がこの灰で処理し、毎日決まった時刻に宮殿の外に運び出した。このため臭気が立ち込めることもなく、ハエも少なかったらしい。ベルサイユ宮殿よりずっと衛生的だ。現在は、ベルサイユ宮殿と同様、故宮の中にもトイレがあるのでご安心を! |
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構内には、所々、獅子が鎮座している。元祖「唐獅子」である。9世紀頃中国から日本に伝来した幻想動物の唐獅子は、頭側部両側や頸部、尾を火索状に渦巻く多量の毛で覆い、胴体、四肢に数個の文様を散らした特異な容姿で現代に伝わっている。唐獅子は、邪悪なものを退け、国家鎮護を祈念するものだ。 売 店 故宮には沢山の売店、喫茶店等がある。土産物屋はどこも似ていて、絵葉書、Tシャツ、工芸品、本などを販売している。
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故宮の北側の出入り口だ。大きく故宮博物院の表示がある。 清朝滅亡後も故宮にいた溥儀 1911年の辛亥革命の結果、約270年続いた清朝は1912年に幕を閉じた。1908年に3歳で即位した宣統帝(愛新覚羅溥儀 1906ー1967)は、在位僅か4年で、7歳のときに皇帝でなくなる。しかし、清朝滅亡後も紫禁城北半分の内廷に居住し、1924年までの13年間を過ごした。この間多くの文物が流失あるいは焼失したという。 故宮博物院の成立 1924年11月20日、清室善後委員会が発足し、故宮文物の公開調査が行われ、翌25年、「故宮博物院」が成立。1928年に「故宮博物院組織法」が公布され、その所有権が民国政府にあることが明確にされるとともに一般に公開されるようになった。 |
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北の出口「神武門」を抜け、直ぐ北の景山公園へ行った。景山公園は、人造の公園で、高さ43mの丘である。展望台から故宮を一望に見渡すことができる。息が止まるほど素晴らしい景観が足下に広がる。 新中国の故宮博物院 日中戦争、国共内戦を経て、1949年、新中国の誕生とともに故宮博物院も国民党の手から人民政府の管轄に移った。故宮は、世界に現存する規模がもっとも大きく、もっとも整っている古代の木構造群であり、1961年、国務院によって「全国重点文物保護単位」に指定された。1987年にはユネスコの「世界遺産」リストに登録された。 |
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掘の幅は僅か52m。この掘が故宮の全周を取り囲んでいる。四隅に角楼がある。私が入手した中国の図面では、この掘は筒子河と表記されている。しかし、中国国家観光局(大阪)のinternet資料には、「蘇芳色の城壁は3400mもあり、城壁の四隅にそれぞれ四つの角楼がある。城壁の外は護城河という堀に囲まれている」と書かれており、掘の名称が違っている。 二つの故宮博物院 日中8年戦争の終結後、間もなく国共内戦が激化したため、蒋介石率いる国民党政府は、1948年12月から3回に分けて計2972箱(24万件弱の文物)を台湾に運んだ。これらは疎開文物の中でも選りすぐられた逸品ばかりだった。 台湾に運ばれた文物は最初台中に保管されていたが、1965年に台北市の郊外に国立故宮博物院が落成し、移転。現在、湿度の高い気候を配慮して空調設備の整った宮殿風建物に70万件近い文物が収蔵されている。 中国の故宮博物院は、その建物自体が歴史的価値のあるかつての宮殿そのものであり、遺宝や文化財が当時のままに展示されているという点が大きな特色だ。一方、台湾の国立故宮博物院は、その文物の価値が素晴らしく、比類のない国宝級の財宝を数多く所蔵し、展示している。 中国政府は、現在も蒋介石が持ち出したこれらの文物の返還を台湾政府に要求しているが、台湾政府は応じていない。 internetで故宮を検索すると、中国の故宮博物院と台湾の国立故宮博物院が入り乱れてヒットする。二つの故宮博物院の存在が、二つの中国の問題を象徴している。(完) |
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