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人口約340万のベルリンは、1871年のドイツ帝国成立から1945年の第二次世界大戦の終結まで、ドイツの首都だった。戦後の冷戦時代には東西に分断され、東ベルリンは旧東ドイツの首都、西ベルリンは事実上旧西ドイツの州の一つ(名目上は米英仏共同管理区域)だった。 |
1990年のドイツ統一以降は、再びドイツ(ドイツ連邦共和国)の首都となった。ドイツ最大の都市であり政治の中心地であるが、金融と交通の中心地はフランクフルト、産業の中心はミュンヘンやシュトゥットガルト、ケルンとなっている。 |
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初夏を楽しむベルリン市民 |
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1888年に死去したヴィルヘルム皇帝のために19世紀末に建てられたネオロマネスク様式の教会。1943年の空襲で破壊された。戦争の悲惨さを伝えるモニュメントとして、破壊されたままの姿で保存されている。隣の八角形の建物は、新しい教会で、内部の深い青色のステンドグラスが美しい。 |
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戦災で壊れたままのカイザー・ヴィルヘルム記念教会 |
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1865〜1873年に建てられた高さ67mの塔の上に、金色の勝利の女神ヴィクトリアが立っている。1864年の対デンマーク戦争、1866年の対オーストリア戦争、1870〜1871年の対フランス戦争の勝利を記念して建てられたという。頂上は展望台になっており、285段の階段を上がらないと行けない。 |
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戦勝記念塔ジーゲスゾイレ |
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ソ連兵士慰霊公園 |
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ブランデンブルク門はドイツ・ベルリンのシンボルとされている門で、正面はパリ広場 Pariser Platz の東に向いている。高さ26m、幅65.5m、奥行き11mの砂岩でできており、1788〜1791年にプロイセン王国の凱旋門として、アテネの神殿の門を手本に建てられた。 |
この門はドイツ古典主義建築の傑作といわれている。門の上の勝利の女神ヴィクトリアと4頭立ての馬車カドリガは、1806年にプロイセンを破ったナポレオンが戦利品としてパリに持ち帰ったが、1814年にベルリンに戻った。 |
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西側から見た巨大なブランデンブルク門 |
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第二次世界大戦後は東ベルリンに属し、西ベルリンとの境界線がすぐ近くを通ることとなり、門の前にあった廃墟はすべて撤去されて何一つ建物のない無人地帯となった。ヴィクトリアの持つ杖の先は、社会主義国らしくなるよう平和の象徴であるオリーブの枝に変えられた。 |
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ナポレオンとブランデンブルク門 |
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それでも門を通っての東西ベルリンの往来は活発だったものの、1960年に東ドイツが国民流出を防ぐためベルリンの境界線を封鎖し、後に「ベルリンの壁」と呼ばれる壁を建設すると、門の前を壁が通る形となったため、門は東ベルリン西端の行き止まりとなり通行できなくなった。 |
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門の西側のベルリンの壁があった場所 |
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1989年にベルリンの壁が崩壊し、再び門が通行できるようになった。ヴィクトリアの持つ杖の先は鉄十字に戻り門は2000年12月から巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われた。1990年代から2000年代にかけて門の周囲にホテルや大使館などが再建され、門はベルリンを代表する観光地となっている。 |
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東側から見たブランデンブルク門 |
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ソ連の軍服を着た男 |
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トラバントは、1958年から1991年まで長期に亘って生産された旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)の小型乗用車で、Trabant はドイツ語で「衛星」「仲間」「随伴者」などを意味する。「トラビ」の愛称で親しまれた。 |
生産中止後10年以上を経過し、走行性能・安全性・環境性能が数十年前の水準ということもあって、旧東ドイツ地域と周辺諸国においては、急激に淘汰されている。ドイツ国内においても、排ガスの規制が高まったことで、2008年1月からはベルリンなどの市街地では、特別に許可を得た車両以外は走行できなくなっているという。 |
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旧東独製の国産車トラバント |
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ベルリンの壁崩壊の直後から、最新式のフォルクスワーゲン・ゴルフと古色蒼然たるトラバントが肩を並べて走るようになり、双方のドライバーとそれらを見比べた者に強烈なカルチャーショックを与えた。東側諸国の人々がトラバントに乗って国境検問所を続々と越える光景は、東欧における共産主義体制終焉(しゅうえん)の一つの象徴的シーンともなった。 |
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「ボール紙のボディの車」といわれることがあるが、ボディの基本材料は綿の繊維を使った繊維強化プラスチック(FRP)である。東ドイツ末期に製造品質が下がってくると表面の質感がボール紙のように見えたことから、西側が低い仕上げ品質を揶揄(やゆ)した表現である。ただし、末期は製造コスト低減のため、実際にプラスチックに紙パルプを混ぜ込んでいたらしい。これでも東ドイツでは非常に人気があり、とりわけ1980年代以降は発注してから10年は待たされるのが普通であったという。 |
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ベルリン州議会議事堂 |
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1961年ベルリンの壁の建設を開始した東ドイツ |
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第二次世界大戦後、ドイツは米・英・仏占領地域を基礎とする資本主義体制を採った西ドイツと、ソ連占領地域を基礎とする共産主義体制を採った東ドイツに分断された。 |
そのため、米英仏の占領地域であった西ベルリンは周囲を全て東ドイツに囲まれ、「赤い海に浮かぶ自由の島」となってしまい、東ドイツ住民による西ベルリンへの逃亡が相次いだ。 |
この事態に危機感を抱いたソ連と東ドイツ政府は、逃亡を防止するために壁を構築。その壁は東ドイツがすべて東ドイツ領内に建設したもので、ベルリンの壁と呼ばれるようになった。 |
ベルリンの壁は、1961年から1989年の間存在した。 |
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州議会議事堂のそばに残るベルリンの壁 |
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↓弾痕 |
↓弾痕 |
↓弾痕 |
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ベルリン市民を自由社会と共産社会に隔絶したベルリンの壁は、東ドイツから西ベルリンを孤立させる形で西ベルリンの全周を取り囲んでいた。その全長は、約155km、最高4.1mの高さがあったという。 |
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「冷戦時代の象徴」「ドイツ分断の象徴」ともいわれたが、1989年11月9日のいわゆる「ベルリンの壁崩壊」以降この忌まわしい壁は取り壊され、一部が記念碑的に残されている以外は現存しない。当時、ベルリンの壁の破片はベルリン土産として大人気だったそうだが、その多くは破砕されて道路の舗装などに利用されたという。 |
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りょくいんの かべにのこりし たまのあと |
Bullet holes remained on a wall in the shade of trees. |
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ベルリンの壁の前で記念撮影 |
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ベルリンの壁の裏には、かつてのゲシュタポ本部の跡が残っている。ゲシュタポは、ナチス・ドイツの秘密警察の略称で、その任務は、共産主義者と社会主義者の弾圧、自由主義者、教会、君主主義者の監視、ユダヤ人の追放による国家秩序の維持であった。 |
そのために、司法部のコントロールを受けることなく、国家の敵に対して残虐な拷問を行い、強制収容所に収容し、さらに見せしめが必要な場合には民族裁判所に引き出した。このテロ支配は第二次世界大戦と共に全ヨーロッパのドイツ軍占領地に広げられ、多くの悲劇が生まれたが、敗戦と共に解体された。 |
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壁の裏にあったかつてのゲシュタポ本部の跡 |
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