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ドレスデンのノイマルクト広場に建つフラウエン教会は、バロック様式の傑作で、ザクセンで多くのプロテスタント教会が建てられた時期に1726年から1743年にかけて建設された。その後200年にわたり、威風堂々とした「石の釣鐘」と称する直径25mの大ドームは、ドレスデンの市民に親しまれてきた。 |
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ノイマルクト広場 |
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しかし、1945年2月のドレスデン大空襲で破壊され、瓦礫の山が残された。その後は、戦争と破壊という過去の過ちを忘れないための記念碑となっていたが、1994年に再建が始まり、2005年10月30日フラウエン教会に献堂され復活を遂げた。 |
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フラウエン教会 |
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再建には、世界中から182億円もの寄付が集まり、瓦礫から掘り出したオリジナルの部材をコンピューターを活用して可能な限り元の位置に組み込む考古学的再建作業は、「ヨーロッパ最大のパズル」と評された。 |
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かつて、ドイツ最大のプロテスタント教会として建設に6188日もかかったのに、破壊には僅か一夜しかかからなかった。新しい部材との組み合わせがモザイク模様を描き出しているこの建物は、戦争の悲惨さを伝えるモニュメントの一つとして、新しい名所となっている。 |
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フラウエン教会の前に建つマルティン・ルター像/ノイマルクト広場 |
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プロテスタント教会には、始祖マルティン・ルター(1483.11.10-1546.2.18)の銅像が見られる。ルターは、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)の神学者、牧師、説教家、ルーテル教会の創始者として知られ、もともと聖アウグスチノ修道会の修道司祭であったが、宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。 |
カトリック教会の金銭による免罪符(正しくは贖宥状/しょくゆうじょう)の売買に反対し、聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけは、プロテスタント諸教会のみならず、対抗改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えた。 |
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マルティン・ルター/ルーカス・クラナッハ画(1529年) |
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宗教上の足跡のみならず、ヨーロッパ文化にも大きな足跡を残した。ルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の成立において重要な役割を果たしたことや、自ら賛美歌を手掛けたことなどが挙げられる。カタリナ・フォン・ボラという元修道女と結婚したことで、プロテスタント教会における聖職者の結婚という伝統をつくったことでも知られる。 |
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彼とて人の子、過ちもある。ルターの反ユダヤ主義的な声明は、1933-1945年にナチスの宣伝材料として使用された。ルターは1523年の時点ではローマ・カトリックの反ユダヤ主義に抗議していたが、ユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに失望したルターは、1543年に反ユダヤ主義を文書で表明した。現代のドイツ・ルーテル派(マリア福音姉妹会など)は悔い改めを表明している。 |
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シュタールホーフ外壁のマイセン焼きのタイル画 |
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ドレスデン城のアウグスト通り沿いの外壁には、歴代君主たちを描いた100mにわたる壮大なマイセン焼きの壁画「君主たちの行列」がほぼオリジナルの状態で現存している。 |
1123年から1904年までのザクセン君主の騎馬像や、時代を飾った芸術家たち総勢93名が描かれている。タイルは25,000枚も使われており、奇跡的に戦災を免れたこの壁画は、ドレスデン必見のスポットとなっている。 |
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巨大な壁画「君主の行列」 |
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1732年、フリードリヒ・アウグスト I 世は、ドレスデン城から近い場所に自らの居城として後期バロック様式によるツヴィンガー宮殿を建立した。この宮殿はドレスデンを代表する建築物で、ドイツ・バロックの最高傑作といわれている。第二次世界大戦で破壊されたが、現在、復元されて一般公開されている。 |
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ツヴィンガー宮殿の巨大な王冠の門 |
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ツヴィンガー城の中庭 |
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王冠の門の外に広がる水壕 |
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マイセンは、ドイツ・ザクセン州ドレスデン地方マイセン郡 Landkreis Meißen の郡庁所在地であり、人口約2万8千の工業都市である。マイセン白磁器とワインで知られる。 |
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エルベ河畔のアルブレヒト城 |
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エルベ川を望む小高い丘に建つアルブレヒト城は、15世紀にザクセン王国を支配したヴェッティン家が居城として建設したものだが、完成直前に宮廷をドレスデンに移してしまったので、住むことはなかった。 |
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なつのかわ まいせんはくじを うみししろ |
Summer river, the castle produced Meissen white porcelain. |
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アルブレヒト城の威容 |
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1710〜1864年に、この城の中に磁器工場が置かれ、機密保持のため、マイセン白磁の発明者ヨハン・フリードリヒ・ベドガーをここに幽閉状態にして作業にあたらせていた。この工場は1865年に町の外れに移転し、現在でもマイセン磁器工場としてマイセン磁器が作られている。 |
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磁器研究のためアルブレヒト城に幽閉された宮廷錬金術師ベドガー |
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写真:マイセン国立磁器工房 |
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18世紀初頭までヨーロッパには1200℃位までの比較的低い温度で焼成する軟磁器の技術しかなく、そのため、中国の景徳鎮の五彩磁器や日本の伊万里焼(有田焼)など東洋磁器の収集家であったザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト I 世(強王、Friedrich Augst I 1694-1733)は、1705年に19歳の宮廷錬金術師のヨハン・フリードリヒ・ベドガー(Johann Friedrich Bedgar 1686-1719)に硬質磁器の開発・研究を命じ、1709年、ヨーロッパで最初の硬質磁器焼成に成功した。この時から、機密保持のため、ベドガーはアルブレヒト城に幽閉・軟禁状態となった。 |
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マイセンの町並み |
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その翌年の1710年、アウグスト王はマイセンのアルブレヒト城内に「王立マイセン磁器工房」を創設し、ベドガーのもとで3年後にカオリン(長石類岩石の風化によって生成される鉱物)を用いた白磁の焼成に成功し、1717年には染付磁器の焼成技術を完成させた。 |
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マイセン磁器工房 |
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こうして、マイセンは、ヨーロッパ随一の磁器の生産地として、その名を轟かせることになった。しかし、アルブレヒト城に軟禁され続けたベドガーは、過度のストレスからアルコール中毒となり、37歳の若さで死亡したという。 |
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ロクロによる成形作業 |
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マイセンのトレードマークは、1723年以来、交差した青い剣で、刃や鍔の傾きなどが年代によって変化している。最も人気のあるデザインは、コバルトブルーの「玉ねぎ模様 ツヴィーベルムスター Zwiebelmuster 」と呼ばれる模様で、一度はどこかで見たことがあるポピュラーなもの。玉ねぎ模様といわれているが、実はザクロと桃を図案化したもので、その元をたどれば、中国に行き着く。 |
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手描きの絵付け作業 |
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造形や絵付けは今でも全て伝統的な手作業で行われるため、マイセンの名声を支えるのは、匠の技であり、その繊細で優美なデザインは、永遠に生き続けることになるだろう。ただし、値段もとびきり上等で、一般家庭にとっては高嶺の花なので、手軽に買えないのが悩みの種である。 |
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豪華なマイセンのテーブルウェア |
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マイセンはエルベ川の船便により材料・製品の輸送が容易であり、また近辺にはカオリンを採掘できる鉱山もあり、この立地条件の良さが現在に至る繁栄を支えている。 |
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初期のマイセンのデザインは、中国の五彩磁器や有田焼の影響を受けているが、1720〜1730年代にプロイセンからザクセンに招かれた天才絵付師・ヘロルトらによってヨーロッパ的なロココ調の作品が主流になった。 |
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マイセンの見事な磁器カップ |
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