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ザクセン州ライプツィヒは約50万人を擁し、ザクセン州では州都ドレスデンをやや上回る最大の都市である。旧東ドイツ地域ではベルリンに次いで大きく、ライプチヒとも表記される。 |
7世紀頃、エルスター川とパルテ川の合流地点近くに、スラヴ人の集落ができたことがこの街の始まりとされている。 菩提樹という意味の リプツィ Libz というスラヴ語で呼ばれ始めたのは11世紀に遡り、ライプツィヒの語源となった。このため、日本でも稀に菩提樹市と称される場合がある。 |
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ライプツィヒの聖トーマス教会(西面) |
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ライプツィヒに所在する聖トーマス教会は、ルーテル派の教会で、 ヨハン・ゼバスティアン・バッハがトーマスカントルを務め、また、彼の墓があることでも知られる。宗教改革者マルティン・ルターは、1539年ペンテコステ(聖霊降臨祭)の主日に、この教会の講壇に立ち説教をした。 |
トーマスカントル(トーマスカントールとも)は、ライプツィヒ聖トーマス教会のカントル(音楽監督)のことで、教会の音楽を取り仕切り、その付属小学校の教職にも当たり、さらにはライプツィヒ市全体の音楽監督も兼ねた。バッハもこの職に就き、トーマス教会聖歌隊を率いて週1回の礼拝でカンタータ(交声曲)*を演奏し、街のさまざまな行事にも相応しい音楽を作曲、演奏した。 |
*カンタータ(交声曲):単声または多声のための器楽伴奏付の声楽作品。 |
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バッハの胸像のある緑地 |
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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685.3.21 - 1750.7.28)は、18世紀に活動したドイツの作曲家で、「近代音楽の父」と称される巨匠である。単に「バッハ」といえば本作曲家を指すことが普通であるが、その他のバッハと区別するためにJ.S.バッハと略記することが多い。また、バッハ家でもっとも偉大であるという意味で大バッハという呼び名も古くから使われている。 |
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ヨハン・ゼバスティアン・バッハ Johann Sebastian Bach |
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バッハ家は、ドイツ中部テューリンゲン地方で代々音楽を職業とした一族であった。約2世紀半の間にバッハ家が輩出した音楽家は約60人に達し、遺伝学の研究対象とされたこともある。当時は身分が世襲固定されており、職業音楽家の家系は職業音楽家以外の選択肢があまりなかった、という事情もある。 |
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聖トーマス教会の南に建つバッハの銅像 |
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この時代の音楽家は、現在のクラシック音楽の一流演奏家のような名声とそれに見合う収入を得る名士ではなく、むしろ十把ひとからげで扱われる楽器担当の召使いのような存在で、バッハ一族もその時代の音楽家の最も一般的なありようと変わることはなかったという。ちなみに"Bach"とは、「小川」の意である。 |
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聖トーマス教会のバッハ門 |
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バッハは、1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会のトーマスカントルに就任し、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。ルター派の音楽家として活動していたが、王のカトリックへの宗旨変えに応じ、宮廷作曲家の職を求めてカトリックのミサ曲も作曲している。1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。 |
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バッハのステンドグラス/聖トーマス教会 |
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1749年頃から眼疾患が悪化し手術を受けたが、医師テイラーの技術が未熟であったため、手術後は病床に伏し1750年に65歳でこの世を去った。 |
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生前のバッハは、作曲家というよりもオルガンの演奏家・専門家として高く評価されていたが、彼の楽曲は息子や弟子たちによって受け継がれ、1829年のメンデルスゾーンによるマタイ受難曲のベルリン公演をきっかけに再発見され、高く評価されるようになったという。 |
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バッハ自筆の楽譜「マタイ受難曲」/バッハ博物館 |
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聖トーマス教会の南にある噴水 |
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ふんすいの ばっはのまちに あそぶこら |
Children playing at the fountain of Bach town. |
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噴水で遊ぶ子供たち |
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ライプツィヒは中世から金融と商業の町として発展した。1409年には、ハイデルベルク、ケルンに次いでドイツで3番目に古いライプツィヒ大学が創立され、ゲーテやニーチェ、森鴎外が学んだ。 |
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17世紀には、印刷・出版も盛んとなり、1650年には世界で最初の日刊紙「ライプツィヒ新聞」が創刊された。第二次世界大戦前まではドイツの出版物の半数がライプツィヒで印刷されていた。岩波文庫が手本としたのは、この町の出版社のレクラム文庫だったという。 |
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マルクト広場にある旧市庁舎(ライプツィヒ市歴史博物館) |
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生涯の後半を聖トーマス教会のオルガニスト兼指揮者として過ごしたバッハをはじめ、シューマン、リスト、ワーグナーといった著名な音楽家が偉大な業績を残している。 |
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また、近年のドイツ統一は、1989年に東ドイツの民主化を求める運動がライプツィヒのニコライ教会に集まった人々のデモが発端となっており、ドイツ統一はライプツィヒから始まったともいわれる。 |
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ナッシュマルクト広場の旧交易会館前に建つゲーテ像 |
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ライプツィヒ大学に学んでいたゲーテがよく通ったという酒場が、旧市庁舎(ライプツィヒ市歴史博物館)近くのメードラーパッサージュ(古いアーケード街)というショッピングアーケードの地下にある。 |
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メードラーパッサージュ(古いアーケード街) |
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1525年創業という歴史的なワイン酒場のアウアーバッハス・ケラー Auerbachs Keller は、ゲーテの「ファウスト」にも登場するため、観光名所になっている。地下へ下りる手前には、ファウストとメフィストフェレス像がある。 |
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ファウストとメフィストフェレス像/メードラーパッサージュ |
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東北ドイツの旅 ... 続く to be continued |
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住居:兵庫県明石市 |
昭和11年(1936)生まれ |
趣味:音楽鑑賞 旅行 ウォーキングなどの運動 |
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感動写真集第113集/特集!旅紀行第80集 「東北ドイツの旅・上」 |
平成21年(2009)1月30日 作品:第5作 画像:(大61+小13) 頁数:5 ファイル数:164 ファイル容量:37MB
平成12年(2000)〜平成21年(2009) 作品数:314 頁数:1,149 ファイル数:38,630 ファイル容量:6,179MB |
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東・北ドイツへの旅
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2008年5月28日から6月5日にかけて、あしかけ9日間の表記の旅行に妻と一緒に行ってきました。9日間といっても初日は夜に関西国際空港に集合しただけで、テイクオフは翌5月29日の0時25分でしたから本当は8日間でしょう。旅行の企画はクラブツーリズムで「東ドイツと北ドイツ世界遺産ぐるり周遊9日間」というコース80001の旅で、カタール航空のドーハ乗り継ぎ便でベルリンに飛びました。
ドイツには14年前、関西国際空港が完成して間なしの頃に1度行っていますが、そのときは南部を中心に回りました。それで今回は前回未訪問の土地を選びました。
私事にわたる話で恐縮ですが、実はドイツという国は、今はなき畏友O君が1979年に長期出張で西ドイツのハンブルクに滞在しております。また、別の友のT君は1985年に西ドイツの保険会社の研修で同じハンブルクに半年間滞在しておりました。T君は、その間、英語で研修を受けたそうですが、その後来日した研修のドイツ人教官から「君の英語は結局6ヶ月間分らずじまいだった。」と言われたそうです。しかし、T君は、その後立派に仕事を勤め上げました。
O君の方は、その間、イースターの休暇を利用して西ベルリン観光に出かけており、その様子を我々の手紙集のような文集に寄稿しております。その時の文集を読み返しましたが、当時、分裂した西ドイツから西ベルリンに入るには航空機によるか、東ドイツ区域には停車しない直行列車によるほか方法がありませんでした。
O君はハンブルクからの列車に乗りましたが、境界を越えるとゲシュタポを思わせる拳銃を持った兵士が乗り込み、パスポートと切符を調べたそうです。また、西ベルリンではヴィルヘルム記念教会や戦勝記念塔などを2階建てバスで観光し、翌日には、日帰りで東ベルリン観光をしております。あのベルリンの壁で唯一外国人が通れるチェック・ポイント・チャーリーを通過するときにも武装警官の厳しいチェックがあり、バス・ドライバーなどがピリピリしていたことが記されていました。
東側ではブランデンブルク門、整然としたウンター・デン・リンデン通り、ドイツ歴史博物館などを観光しており、西側の喧騒に対し、東側の静まり返った様子を伝えております。しかし、帰途、チェック・ポイント・チャーリーを通過して西側にバスが戻ると緊張から解かれ、ほっとした乗客から自然と拍手が起こったそうです。
今回の私たちの旅の目的は、再統合されたベルリンなどの現状を見て、友を偲び時の流れを感じることにもありました。しかしチェック・ポイント・チャーリーではバスは停車せず、振り向くと、かつての西ベルリン側にある米兵の写真が見えただけでした。ウンター・デン・リンデン通りは緑豊かでしたが、ひっそりとはしておらず、ブランデンブルク門は立派でした。
しかし、現地ガイドの話では、統合後、東側の人々からは「なんだ、統合しても以前と変わらないじゃあないか。」と不満があり、西側からは「なんで我々が東側の人の年金や保険を負担しなければならないのか。」との声があったそうです。難しい問題で、本質的にいまだ未解決でしょう。
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りょくいんの かべにのこりし たまのあと |
Bullet holes remained on a wall in the shade of trees. |
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【編集子が選ぶ名作】 |
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小池さんのお陰で、ベルリンの観光ができ、東西に分断された敗戦国ドイツの悲劇を目にすることができた。朝鮮半島では未だにその状況が続いているが、同じ敗戦国である日本は比較的早い段階で沖縄がアメリカから返還され、現在は北方領土問題が残るだけである。
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祖国統一と共に復興が進み、国民が一致団結して奇跡的な高度経済成長を遂げ、先進国の仲間入りを果たせた日本は、大変幸せな国だと思う。 〈 続く 〉 2009.1.30 和田義男 |
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ふんすいの らくえんありき さんすーしー |
Sans Souci, once a paradise of fountain. |
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【編集子が選ぶ名作】 |
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