|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
6月14日(土)の午後ハイデルベルクを見学したあと、シュトゥットガルト Stuttogart 近郊のジンデルフィンゲンSindelfingen に一泊。ツアー4日目の6月15日(日)は、バスで1時間ほど南下し、シュヴァーベン高原 Schwäbische Alb にあるヘッヒンゲン Hechingen にてホーエンツォレルン城を観光した。 |
|
|
|
|
|
|
|
麦畑が広がるシュヴァーベン高原
Schwäbische Alb
|
|
拡大写真(1400x567)84KB |
|
|
|
|
|
|
ホーエンツォレルン城 Burg Hohenzollern
|
|
|
ドイツ南部のシュヴァーベン高原の裾野に標高855mの円錐状の山があり、その頂上にホーエンツォレルン家発祥の地であるホーエンツォレルン城がある。遠くからでもよく見えるそのシルエットは、場所と天候により、違った表情を見せる。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x1067)167KB |
|
|
|
|
|
|
現在の城は、19世紀後半にノイシュヴァンシュタイン城と同時期に建てられた三度目の城で、重厚な存在感は見る者を圧倒する。この場所からおよそ1,000年にわたって栄えた名門ホーエンツォレルン家の歴史が始まった。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1800x1350)333KB |
|
|
|
|
|
|
ホーエンツォレルン家 Das Haus Hohenzollern
|
|
|
一族からドイツ皇帝やルーマニア国王を輩出した名門・ホーエンツォレルン家は、南ドイツのシュヴァーベン地方のこの地に発祥したヨーロッパの貴族、王家、皇帝家として知られる。ドイツ語では”ホーエンツォレアン”又は“ホーエンツォラーン”と発音する。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
1415年から選帝侯としてブランデンブルク選帝侯領を治めるようになり、1525年には一族のアルブレヒトがドイツ騎士団を廃し、プロイセン公国を建てて初代プロイセン公となり、その子孫が絶えると、1618年にはブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントがプロイセン公国を継承した。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
三十年戦争(1618〜1648)の際にはフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)が指導に当たった。選帝侯フリードリヒIII世はスペイン継承戦争でハプスブルク家に味方する見返りに「プロイセンの王」を名乗ることが許されたため、1701年にフリードリヒ I 世として戴冠し、ホーエンツォレルン朝プロイセン王国が誕生した。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x1050)371KB |
|
|
|
|
|
|
啓蒙主義を代表するフランスの多才な哲学者であり作家であったヴォルテールと親交の深かったフリードリヒ II世は、啓蒙専制君主として君臨、絶対主義下においてプロイセンを強化し、着実に領地を広げていった。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x1200)342KB |
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1200x1600)433KB |
|
|
|
|
|
|
1862年、オットー・フォン・ビスマルクが宰相になると、ヴィルヘルム I 世の下、プロイセンを中心としたドイツ統一を成し遂げ、ドイツ帝国が誕生し、列強の一員となった。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x1200)452KB |
|
|
|
|
|
|
第一次世界大戦の敗北でドイツ皇帝ヴィルヘルム II 世は亡命し、ホーエンツォレルン家のドイツ支配は幕を閉じた。ヴィルヘルム II 世の子孫はドイツで生活しており、現在の当主はヴィルヘルムの玄孫(げんそん)(孫の孫)ゲオルク・フリードリヒ。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1800x1350)427KB |
|
|
|
|
|
|
選帝侯時代以前に分家した支流にホーエンツォレルン=ヘヒンゲン家とホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家がある。ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家からは1866年にカロル I 世がルーマニア公に迎えられ、1881年にルーマニア国王に即位した。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(2000x1500)656KB |
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x1200)485KB |
|
|
|
|
|
|
1947年に王制が廃止されるまで、カロル I 世の直系がルーマニア王家として続いた。最後の国王ミハイ I 世は現在も存命。ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家本流の現在の当主はフリードリヒ・ヴィルヘルム。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(120x1600)317KB |
|
|
|
|
|
|
鷲の門をくぐり、三重の螺旋通路を上った後、門の塔を通って最後の坂を上がると、舞台風景のような舗装された中庭がある。そこに中世の古びた大砲が一門、ポツンと展示されていた。 |
|
|
|
|
|
|
|
キリスト礼拝堂、宿泊施設、レストラン、売店、管理事務所などがある本館
|
|
拡大写真(1600x1200)360KB |
|
|
|
|
|
|
本館の玄関上部に設けられた時計の4の文字がユニークである。8を横半分に切り、その上半分を使ったもので、ℓ のような文字になっている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
祝賀会・宴席の大広間とも呼ばれる伯爵の大広間は、城内で一番広い。天井は、金色の蔓草(つるくさ)模様で飾られ、赤味を帯びた大理石で造られた列柱に支えられているため、大聖堂のような雰囲気がある。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1800x1300)455KB |
資料 |
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x875)253KB |
|
|
|
|
|
|
♪ 交響曲第9番/ベートーヴェン Sinfonie Nr. 9 d-moll op. 125
|
|
|
BGMに流れる荘厳な曲は、ベートーヴェンが最後に作曲した交響曲第9番「合唱」の第4楽章前半である。日本では親しみを込めて第九(だいく)とも呼ばれ、副題として合唱付きが付されることも多い。第4楽章はシラーの詩「歓喜に寄す」が用いられ、独唱と合唱を伴って演奏される。その主題は「歓喜の歌」として親しまれている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1400x1050)247KB |
資料 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
高層建築物の全周をぐるりと囲む稜堡は、17世紀初めに行われた要塞化の際に設けられたもの。一周すると、晴れた日には北東はシュトゥットガルトのテレビ塔から、南西は黒い森(シュヴァルツバルト)の最高峰フェルドベルク山に至るまで、高原の稜線に沿って360度のパノラマが広がっている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x12050)404KB |
|
|
|
|
|
|
稜堡には、歴代のプロイセン国王の銅像が飾られているが、表情や衣装に特徴があり、結構、楽しませてくれる。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1800x1350)613KB |
|
|
|
やましろや すそにひろがる むぎばたけ |
The mountain castle, wheat fields lying in the lower slopes. |
|
|
|
|
拡大写真(1800x1300)521KB |
|
|