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ノイシュヴァンシュタイン城に行くには、徒歩でも可能だが、ホーエンシュヴァンガウ城のあるホーエンシュヴァンガウからシャトルバスと馬車が出ている。写真下の右上にはノイシュヴァンシュタイン城が見えており、せいぜい500mほどの距離である。 |
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ノイシュヴァンシュタイン城行きの馬車/ホーエンシュヴァンガウ
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我々は、ツアーバスを駐車場に残し、このシャトルバスでノイシュヴァンシュタイン城に向かった。バス便は往路のみの運行なので、帰りは歩きとなる。最初、バスは一台しか使われていなかったが、この日は乗客が多く、途中で二台目が投入された。距離が短いので、片道10分もかからない。 |
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ホーエンシュヴァンガウ城のそばから出発するノイシュヴァンシュタイン城行きのバス
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ホーエンシュヴァンガウ城 Schloβ Hohenschwangau
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12世紀に築かれて荒れ果てていた城をルートヴィヒII世の父・マクシミリアンII世が1832〜1836年にネオゴシック様式で再建し、夏の狩りの城として使ったのがこの城である。後年ノイシュヴァンシュタイン城を建てたルートヴィヒII世は、弟オットーと幸せな子供時代をこの城で過ごした。ノイシュヴァンシュタイン城の築城中は、この城から進行状況を見ていたという。 |
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ルートヴィヒII世が子供時代を過ごしたホーエンシュヴァンガウ城
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ノイシュヴァンシュタイン城の近くの山上の停留所でシャトルバスを降りると、最初に向かうのが城南のペラート峡谷に架かるマリエン橋である。この橋から眺めるノイシュヴァンシュタイン城が最高である。この光景を見たいためにはるばるやってきたといっても過言ではない。以下、様々な角度で撮影したので、ゆっくりとご覧あれ。 |
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しんりょくの たにまにそびゆ はくあじょう |
A white castle, rising high over the fresh green valley. |
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マリエン橋から見たノイシュヴァンシュタイン城(南面)
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ノイシュヴァンシュタイン城 Schloβ Neuschwanstein
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ノイシュヴァンシュタイン城は中世風の城だが、築城は19世紀後半の1869年のこと。政治には一切関心がなく、築城オタクといわれるバイエルン国王ルードヴィヒII世(1845-1886)が17年の歳月と巨費をつぎ込んで建てた白亜の美しい城である。見る方角によって姿かたちが変わるロマンあふれる名城として名高い。 |
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ルードヴィヒII世は、よくこのバルコニーからホーエンシュヴァンガウ城を眺めていたという。 |
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ドイツの偉大な作曲家リヒャルト・ワーグナーのパトロンとして、異常なまでにオペラに取り付かれたルードヴィヒII世は、「ローエングリン」「トリスタンとイゾルデ」など数多くのオペラの場面を城内の壁画に描かせている。 |
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三角帽子 |
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ノイシュヴァンシュタイン城のグランドデザインを任されたのは、城郭建築の専門家ではなく、宮廷劇場の舞台装置や舞台美術を専門にしていた画家だったというのも驚きで、この城は、中世の騎士道を崇拝するルードヴィヒII世が、こだわりをもって完成させたワーグナーのオペラの舞台に似合う趣味の城に他ならない。 |
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リヒャルト・ワーグナー Wilhelm Richard Wagner
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1813年5月22日(ライプツィヒ) - 1883年2月13日(ヴェネツィア) |
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ワーグナーは、歌劇で知られる19世紀のドイツの作曲家であり、また理論家、文筆家としても有名。ロマン派歌劇の頂点として『歌劇王』の別名を持つ。 |
本名 Wilhelm Richard Wagner。ドイツ語の発音に近いヴァーグナーとも表記される。また、「ヴァグナー」「ワグネル」とも書かれることがある。 |
同時代の作曲家ブラームスや音楽評論家ハンスリックとしばしば対立。従来のイタリア・オペラの概念を拡大して、音楽と劇を融合した「総合芸術」としての「楽劇」の構想を打ち出し、バイエルン国王、ルードヴィヒII世をパトロンにしてバイロイトに祝祭劇場を作った。 |
このバイロイト祝祭劇場は、現在でも毎年バイロイト音楽祭を開いており、世界各地から熱心なワグネリアンと呼ばれる人たちを集めている。 |
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主な作品 |
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【オペラ】 さまよえるオランダ人 Der fliegende Hollanger タンホイザー Tannhauser ローエングリン Lohengrin 【楽劇(がくげき)】 トリスタンとイゾルデ Tristan und Isolde ニュルンベルクのマイスタージンガー Die Meistersinger von Nurnberg ニーベルングの指環 Der Ring des Niebelungen 序夜「ラインの黄金」 第1夜「ワルキューレ」 第2夜「ジークフリート」 第3夜「神々の黄昏」 【舞台神聖祝典劇】 パルジファル Parsifal |
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西 面 |
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BGMに流れる音楽は、ワーグナーの名作「ワルキューレ」のメドレー。日本でもよく知られる曲である。ワルキューレ(「戦死者を選ぶ者」の意)は、北欧神話に登場する複数の半神で、主神オーディンの命を受け、天馬に乗って戦場を駆け、戦死した勇士たちを天上の宮殿ヴァルハラへと迎え入れる役割を持つ。 |
この勇士たちは、ラグナロクでの戦いに備えて、世の終わりまで武事に励むという。ヴァルハラにおいて、彼らをもてなすのもワルキューレの務めの一つである。 |
ワルキューレは本来9人いるといわれている。また、ギリシャ神話の女神ニケとも同一視される場合がある。後代には「英雄の前に現れる幻想的な恋人」というイメージを与えられた。日本語では「戦乙女(いくさおとめ)」「戦女神(いくさめがみ)」などともいい、一般には、鎧と羽根のついた兜で身を固め、槍(もしくは剣)と盾を持ち、ペガサスなどの翼の生えた馬に乗る美しい乙女の姿で表される。 |
ちなみに、オーロラは、オーディンの使者として夜空を駆けるワルキューレの鎧が煌(きらめ)いたものだと考えられていた。 |
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妃をめとらず、孤独で数奇に満ちたルードヴィヒII世の生涯は、ミュンヘンの南西近郊にあるシュタルンベルク湖
Starnbergersee での謎の溺死により幕を閉じたため、この城は未完成のまま現在に至っている。 |
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撮影:松井公代 |
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国王による浪費はバイエルン王室の経済を逼迫(ひっぱく)させ、狂王といわれて不興を買ったが、民衆への接遇には意を用い、築城による雇用機会の創出や経済波及効果もあって、一般大衆の評判は良かったという。 |
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不要不急の築城は、現在のテーマパークの建設と同じで、今となっては大きな観光資源となり、アルプスに近い静かな寒村に過ぎなかったこの地の人々に大きな富をもたらしているのは皮肉である。 |
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画像:フリー百科事典 Wikipedia |
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マリエン橋は、ノイシュヴァンシュタイン城の城南に位置するペラート峡谷に架けられた仮設橋のような橋で、脚下には滝がある。こんな嶮しい谷間によくぞ架けたと思うが、吊り橋のような頼りなさを感じるので、長居は禁物。 |
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マリエン橋から引き返し、山上の停留所から徒歩でノイシュヴァンシュタイン城に向かう途中に、ホーエンシュヴァンガウ城がよく見えるスポットがある。父王が建設したこの城は、シャトルバスの出発地点であるホーエンシュヴァンガウの名を取って命名された。我々が昨夜泊まったシュヴァンガウは、「白鳥の河口」の意味。ホーエンシュヴァンガウは、上シュヴァンガウ村である。 |
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↓アルプ湖 |
↓シュバンゼー湖 |
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ノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥城)という名は、現在ホーエンシュヴァンガウ城のある地にかつてあったシュヴァンシュタイン城(白鳥城)にちなみ、1890年になってから付けられた名で、建設当時はノイホーエンシュヴァンガウ城(新上シュヴァンガウ城)と呼ばれていた。 |
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