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国立美術館 Nasjonalgalleriet |
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オスロの国立美術館には、ノルウェーを代表する画家・ムンクの「叫び」や「マドンナ」などの作品が多数収められている。「叫び」や「マドンナ」は同名の作品が何点かあるが、2004年、市営・ムンク美術館
Munch Musset
に収蔵されている「叫び」と「マドンナ」が盗難に遭い、破損されて返還された。そのため、国立美術館の「叫び」と「マドンナ」にはガラスが嵌められ、写真も撮影禁止となり、盗難防止に万全の体勢がとられている。 |
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エドヴァルド・ムンク Edvard Munch 1863-1944 |
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ムンクは、「叫び」の作者として有名で、1000クローネ紙幣の肖像に描かれており、ノルウェーの国民的な画家である。生と死、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、それを人物画に表現した。 |
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ムンクは、1863年ノルウェーのローテン村に生まれ、翌年一家はクリスチャニア(オスロの旧称)へ移住。1868年、5歳の時に母が結核のため30歳の若さで死に、姉と弟も若くして死ぬ。エドヴァルド自身も虚弱な子供で、身近に「死」を実感したことはムンクの芸術に生涯影響を与えた。 |
1881年画学校(のちの王立美術工芸学校)に入学。1884年頃から「クリスチャニア・ボヘミアン」という、当時の前衛作家・芸術家のグループと交際。 |
1885年数週間パリに滞在。1889年ノルウェー政府の奨学金を得て正式にフランスに留学し、レオン・ボナのアトリエに学んだ。パリではゴーギャン、ゴッホなどのポスト印象派の画家たちに大きな影響を受けた。 |
パリに着いた翌月に父が死去。1892年ベルリンに移り、「叫び」などの一連の絵を描いた。 |
ムンクは1890年代に制作した「叫び」「接吻」「マドンナ」などの一連の作品を「フリーズ・オブ・ライフ」(生命のシリーズ)と称した。これらの作品に共通するテーマは「愛」と「死」であり、それらがもたらす「不安」であった。 |
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ムンクは何人かの女性と交際したが、生涯独身を通した。1902年の夏、オースゴードストランで過ごしていたムンクは、数年ぶりで再会した、以前の恋人のトゥラ・ラールセンとトラブルになり、発砲事件を起こす。真相は不明だが、この事件でムンクは左手中指の関節の一部を失った。 |
この頃からムンクは精神が不安定になってアルコールに溺れるようになり、1908年から1909年にかけて、デンマークの著名な精神科医のもとで療養生活を送った。 |
1909年以後の後半生はノルウェーで過ごした。1909年からはクラーゲルー、1916年から没年まではオスロ郊外のエーケリーに定住。ノルウェーでは心身の健康が回復し、画面が若干明るくなったものの、作品のテーマは引き続いて人間の存在に関わる孤独や不安などであった。 |
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有名な作品が19世紀末の1890年代に集中しており、「世紀末の画家」のイメージがあるが、晩年まで作品がある。生涯独身で精神病を病んだところなどゴッホと似たところがあるが、ゴッホは生存中僅か1枚の絵しか売れず、赤貧の中で自殺を遂げたが、ムンクは画壇に認められて多数の絵を売ることができ、恵まれた人生だったといえる。第二次世界大戦中の1944年に死去。 |
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「叫び」はムンクが1893年に発表した油彩画で、彼の代表作である。極度にデフォルメされた人物や、血のように赤く染まったフィヨルドの夕景と不気味な形、赤い空に対比した暗い背景、遠近法を強調した構図。 この絵は、彼が感じた幻覚に基づいており、このときの体験を次のように日記に書いている。 |
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夕暮れ時、私は二人の友人と共に歩いていた。すると、突然空が血のような赤に染まり、私は立ちすくみ、疲れ果ててフェンスに寄りかかった。友人は先を行った。それは血と炎の舌が青黒いフィヨルドと街に覆い被さるようだった。そして、自然を貫く果てしなく、終わることのない叫びを聞いた。 |
彼が書き残したように、「叫び」はこの絵の人物が発しているのではなく、「自然を貫く果てしない叫び」が聞こえるため、その恐怖から耳を塞いでいるのである。ムンクがこの絵を発表した際、当時の評論家たちに酷評されたが、後に一転、高く評価されるようになった。 |
ムンクは5枚の「叫び」を描いたといわれ、版画を含めると何枚描いたか分からない。国立美術館にある「叫び」(91x73.5cm)は、画集に収められることが多く、門外不出という。ムンク美術館にある「叫び」(83.5x66cm)は日本をはじめ、海外で展示されており、サイズがやや小さく、色の濃さや目の描き方などに違いがある。 |
internetで「叫び」を調べると、絵の上部の赤く染まった雲の下に、ノルウェー語で「この絵を描いたのは、きちがいに違いない」と書かれたものがあり、専門家はムンクが書いたものだろうと鑑定しているという記事があったが、国立美術館の「叫び」には、そのような文字は見当たらなかった。 |
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別名「受胎」とも呼ばれるムンクの「マドンナ」には、生の神秘のカラクリと女の魔性が、謎と不安に満ちた筆致で描かれている。女は死に等しい恍惚の表情を浮かべ、それを血のように赤い光輪が支える。愉悦とともに訪れる死の影。抗(あらが)いがたい愛憎(あいぞう)のさなかにも、ムンクは死を垣間見る・・・と解説されている。 |
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ムンクの「マドンナ」 / 国立美術館 |
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カール・ヨハン通り Karl Johansgate |
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オスロの中心部を南東から北西に貫くカール・ヨハン通りは、オスロ中央駅から王宮を結ぶ約2kmの目抜き通りで、歩くと30分ほどかかる。オスロ大聖堂から国会議事堂までの間は歩行者天国になっており、商店やレストランが立ち並び、ショッピング・モールといった風情がある。 |
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この日は日曜日でオスロ市内の店は全て休みだが、幸運にもサマー・フェスティバル(夏祭り)のため、カール・ヨハン通りには露店などが出て、ショッピングを楽しむことができた。 |
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サマー・フェスティバル(夏祭り)中のカール・ヨハン通り
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王 宮 Det Kongelige Slottet |
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カール・ヨハン通り北西端の高台の広場には、立派な王宮が建っている。この建物は1822年に着工されたが、資金不足のために一時中断されたあと、1848年に完成した。 |
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王宮前広場には、当時のスウェーデン王・カール・ヨハンが馬に乗った大きな銅像が建っている。ノルウェーは1814年から1905年までスウェーデンの支配下にあり、ノルウェー王も在位していたが、スウェーデン王がこの王宮を建てたため、1905年(ナインティーン・オー・ファイブ)に独立した後も、そのまま銅像が残されている。 |
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王宮には銃剣を担いだ衛兵が一人、直立不動の姿勢で勤務していた。衛兵をバックにした記念撮影は自由であるが、話しかけてはならないという。彼は見学者との会話を禁じられているからである。 |
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勤務中の衛兵はサングラスを着用できないようで、ハンサムな若者であったが、とても眩しそうな目をしていた。サングラスをすると、伝統の衣装のイメージが損なわれることは間違いなので、彼らの高い美意識を感じる。 |
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ヴァイキング船博物館 Vikingskipshuset
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ヴァイキング*船博物館は、オスロの西側に突き出ている半島・ビィグドイ Bygdøy 地区にある。王宮などのあるオスロ市街の対岸に位置するため、オスロ市庁舎前の波止場からフェリーで渡った方が早いが、我々はツアーバスでオスロ湾をぐるりと廻って行った。 |
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*ヴァイキング:日本では「バイキング」と表記するのが一般的だが、「地球の歩き方」やクラブ・ツーリズムは「ヴァイキング」としており、それに習った。 |
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ヴァイキングは、8世紀から300年以上に渡って西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンジナビアの武装船団(海賊)を指す言葉であったが、これはキリスト教徒からの一方的な見方で、現在は「その時代にスカンジナビア半島に住んでいた人々全体」を指す言葉となっている。 |
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ヴァイキングは、中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残したが、彼らは海賊や交易、植民を生業とする特殊な集団ではなく、故郷においては普通の農民であり、漁民であった。特に手工業に秀でており、職人としての技量は当時としては世界最高レベルにあり、ヴァイキング船はそれを裏付ける貴重な遺産である。 |
下図はヴァイキングの領地と航海を示したもので、 緑色はヴァイキングの居住地又は植民地で、青線は航路、数字は到達年を表す。このほか、黒海やカスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している。 |
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ヴァイキング船博物館の正面玄関を入ると、売店があり、その奥に白いトンネル状の空間があり、その中央に見えるのが1904年に発掘されたオーセバルク船 Oseberg で、この博物館が誇る至宝のヴァイキング船である。 |
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1904年にトンスベルグ
Tønsberg 近郊で発見された全長21.m、幅5.1mのオーセバルク船は、30人で漕ぐように造られたヴァイキング船である。800年代から50年間使用された女王の船で、素晴らしい装飾が施されている。女王の死後、遺体と共に埋葬されていたため、朽ち果てることなく、今に甦ったものである。 |
この船に埋葬されていたのは2人の女性。若い方が主人で、年配の方は殉死した侍女という。女主人はオスロ・フィヨルドに領地を持っていたハルフダン国王の母・オーサ女王と推定されている。ハルフダンはノルウェーを最初に統一した覇王ハラルド美髪王の父で、ユングリング王朝の祖である。 |
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奥に入った左には、900年代に使用された長さ23m、幅5.2m、深さ約2mのゴークスタット船が展示されている。
1880年にサンデフィヨルド
Sandefjord 近郊で発掘されたこの船は、喫水線が極端に低い平底船(ひらぞこせん)で、32人で漕ぐように造られた典型的なヴァイキング船である。1000年も昔に建造されたとはとても思えない素晴らしい造形美に驚く。 |
船からは60歳代の男性の遺骨が見つかっている。航海が好きな首領だったのか、墳墓から小船も3隻見つかっており、いっしょに展示されている。ノルウェー人たちは、このような船を乗りこなし、世界で初めて帆走による大型船の遠洋航海の可能性を実証した。 |
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奥の右手には、フレドリクスタ
Fredrikstad 近郊で発見され、船底部だけが掘り出された全長約20m、幅4mのテューネ船が展示されている。遠距離航海用に造られたものと推定されているが、損傷がひどく、大部分が失われていたために復元せず、発掘時のままの状態で展示されている。マストの基部に一体物の大きな木材が使われているのが見える。 |
ヴァイキングたちが活躍した時代から1000年後の1893年、ゴークスタット船を真似たヴァイキング船がノルウェーを出発し、大西洋を無事に乗り切ってカナダのニューファンドランド
New Foundland に到着し、その造船技術と航海術の素晴らしさを実証した。ノルウェーは、現在も海洋先進国である。 |
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この作品を編集中、デンマークで修復されたヴァイキング船が北海横断に出発したとのAFPの記事を目にした。 |
【2007年7月3日 AFP】 11世紀に作られたヴァイキング船が7月8日、デンマークのロスキレ湾(ロスキレ・フィヨルド、Roskilde Fjord )からアイルランドのダブリン Dublin 向け出発した。同船は11世紀のヴァイキング船を修復したもので、1962年に外殻構造が発見され、2000年から2004年にかけて、ロスキレRoskilde のヴァイキング船博物館 Viking Ship Museum の艇庫で、11世紀当時の状態に修復された。北海の横断には約7週間を予定し、人力と風力のみでの航海となる。 |
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写真で見る限り、デンマークのヴァイキング船はノルウェーのものとやや構造が違っている。ノルウェーのヴァイキング船は、船首尾材が大きく、頑丈につくられているが、深さがなく、平底船であるのに対して、デンマークのものは、ポピュラーなカヌータイプで、我々が良く目にする船型に近い。双方とも船尾の舵の構造や位置は類似している。ロマンと感動が一杯のヴァイキング船。無事に北海を乗り切ってアイルランドに到着することを祈念したい。 |
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