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平成24年(2012)4月13日(金)から24日(火)までの12日間、家内と共にクラブツーリズム主催の「プレミアムステージ
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歴史と旅するスペイン
ゴールデンルート12日間」の旅(13名)に参加したので、そのハイライトを紹介したい。 |
「スペイン早春の旅・下」は、実質10日間の旅のうち後半のグラナダ到着から翌日のグラナダ観光〜ミハス〜クエンカ〜バレンシア〜バルセロナまでの5日間の記録である。 |
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【凡例】
▲:上の画像の説明文 ▼:下の画像の説明文 〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示 |
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資料:クラブツーリズム |
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■ 旅の概要 ■ |
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1日目 2012年4月13日(金) 成田空港 10:25〜LX0160〜チューリッヒ〜LX2032〜19:50 マドリッド空港 泊
2日目 2012年4月14日(土) マドリッド〜トレド/観光〜アランフェス/観光〜マドリッド 泊
3日目 2012年4月15日(日) マドリッド〜アビラ/観光〜セゴビア/観光〜マドリッド/闘牛観戦 泊
4日目 2012年4月16日(月) マドリッド/観光(プラド美術館etc)〜スペイン新幹線AVE〜コルドバ/観光 泊
5日目 2012年4月17日(火) コルドバ〜セビリア/観光〜 ロンダ/観光〜グラナダ 泊
6日目 2012年4月18日(水) グラナダ/観光〜ミハス/観光〜グラナダ/フラメンコショー 泊
7日目 2012年4月19日(木) グラナダ〜ラマンチャ/白い風車〜クエンカ 泊
8日目 2012年4月20日(金) クエンカ/観光〜バレンシア/観光 泊
9日目 2012年4月21日(土) バレンシア〜タラゴナ/観光〜バルセロナ 泊
10日目 2012年4月22日(日) バルセロナ/終日観光(サグラダ・ファミリア、カサ・ミラ、ピカソ美術館etc) 泊
11日目 2012年4月23日(月) バルセロナ空港 09:45〜LX1953〜12:20 チュリーッヒ 13:30〜LX0160〜
12日目 2012年4月24日(火) 〜08:20 成田空港 |
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資料:Google マップ |
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▼
ロンダの観光を終えた我々一行のツアーバスは、高速道A-92に乗り、東方180km約3時間の道のりをひた走って一路グラナダに向かった。車窓から眺める風景はアンダルシア地方特有の白い家々が立ち並ぶ長閑(のどか)なもので、我々の旅情を慰めてくれた。 |
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高速道A-92/グラナダまであと80km 2012.04.17 18:37
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シエラ・ネバダ山脈 Sierra
Nevada |
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▼ シエラ・ネバダ山脈(Sierra
Nevada)は、スペイン南東部アンダルシア地方にある山脈で、最高地点はムラセン山(3,478.6m)。スペイン語で「積雪のある山脈」を意味し、年間を通じて雪が残っている。 |
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万年雪のシエラ・ネバダ山脈が見えてきた! 19:40
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↓最高峰のムラセン山(3,478m) |
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▲▼ ヨーロッパで最も南に位置するスキーリゾート地として、多くの観光客が訪れる。その裾野はグラナダ、マラガなどの都市に広がり、一部の地域はシエラ・ネバダ国立公園に指定されている。 |
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↓最高峰のムラセン山(3,478m) |
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グラナダ郊外から臨むシエラ・ネバダ山脈 19:45
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■ 6日目:
グラナダ/観光〜ミハス/観光〜グラナダ/フラメンコショー 泊 ■ |
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▼ 6日目4月18日(水)は、グラナダでヘネラリーフェ庭園とアルハンブラ宮殿を観光後、約160km2時間半西方に走り、白い村ミハスの観光。夜はグラナダに戻り、フラメンコショーとアルハンブラ宮殿のライトアップを観賞した。 |
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資料:クラブツーリズム |
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グラナダ Granada |
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▼ 約24万人が暮らすグラナダ Granada は、スペイン南部の都市で、アンダルシア州グラナダ県の県都である。かつてはイベリア半島最後のイスラム王朝ナスル朝グラナダ王国の都であり、壮麗なアルハンブラ宮殿で知られる。シエラ・ネバダ山脈が抱える「ベガ」と呼ばれる肥沃な平野を基盤にして栄えた。グラナダとは、石榴(ザクロ)の意。 |
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アルハンブラ宮殿とヘネラリーフェ庭園
1/2(グラナダ)
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資料:Googleマップ |
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▲▼
グラナダは壮麗なアルハンブラ宮殿で名高い。宮殿と川をはさんで向かい合う丘の上にはアルバイシンの街並みが広がる。「グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン」は、ユネスコの世界遺産に登録されている。 |
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アルハンブラ宮殿とヘネラリーフェ庭園
1/2(グラナダ)
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資料:地球の歩き方 |
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この肥沃な地は、既に紀元前8世紀ころからイベリア人が居住し、「イルトゥリル」と呼ばれていた。タルテソスの文化と関係を持ち、フェニキア人、カルタゴ人、ギリシア人と接触していた。紀元前193年にローマの支配下に入り、「イリベリス」と呼ばれるよになったが、紀元5世紀から西ゴート王国の支配下に入った。 |
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711年、ウマイヤ朝の指揮官ターリクの軍がイベリア半島に上陸し、同年にグラナダも占領された。都市の郊外には「ガルナタ」と呼ばれるユダヤ人のコミュニティがあり、彼らはターリクによる占領を支援した。これ以降グラナダは15世紀まで約780年の間、イベリア半島のイスラム支配地アル=アンダルスの領域となった。 |
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756年、アブド・アッラフマーン I
世がコルドバを都として後ウマイヤ朝を建国した。グラナダはアル=アンダルスの中でも重要な都市の1つとなり、「イルビラ」と呼ばれた。後ウマイヤ朝が衰えた11世紀始め、内戦のために都市が破壊された後、ズィール朝の一族がこの地を征服し、1013年にタイファ諸国の1つであるグラナダ王国として独立した。都市は再建され、郊外の「ガルナタ」の位置(現在のアルバイシンを含む丘陵)に移動した。 |
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アルハンブラ宮殿(東面)/グラナダ 2012.04.18
08:45
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グラナダ市街 |
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グラナダは11世紀末にムラービト朝に、12世紀半ばにはムワッヒド朝に征服されたが、都市は発展を続けた。
1212年、ラス・ナバス・デ・トローサの戦いでムワッヒド軍がキリスト教諸国連合軍に大敗してからは、アル=アンダルスは混乱に陥り、諸都市の支配者は互いに抗争を続けた。1236年、コルドバはカスティーリャ王国のフェルナンドIII世によって陥落した。 |
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はるあした あるはんぶらの あかきしろ |
Spring
morning,
the red castle of Alhambra. |
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サンタ・マリア教会 |
ナスル朝宮殿 |
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▲▼ 1232年、アンダルスの支配者の一人ムハンマド I
世は王を名乗り、1238年にグラナダに王国(ナスル朝)を建国した。1246年、ムハンマドはフェルナンドIII世と条約を結び、カスティーリャに臣従して貢納する代わりに、グラナダ、マラガ、アルメリアを保有することを許された。 |
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キリスト教徒によるグラナダの開城(1492年1月2日)
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▲ ナスル朝グラナダ王国は、イベリア半島における最後のイスラム王朝として約250年間存続し、経済・文化が繁栄した。アルハンブラ宮殿は、ナスル朝時代に建てられたもので、イスラム建築の傑作と評価される。 |
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しかし、15世紀末にカスティーリャ王国とアラゴン王国が連合王国となると、ナスル朝支配地への征服(レコンキスタ)が始まり、1492年1月2日にグラナダが降伏してナスル朝は滅亡した。 |
グラナダ開城の絵は、最後のイスラム王ボアブディル(在位1482-1492)がカトリック女王イサベルに城を開け渡しているシーンで、その後、ボアブディルは臣下と共に北アフリカに逃れたという。 |
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美しいアセキアの中庭(パティオ) / ヘネラリーフェ水の宮殿 08:50
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▲▼ ムハンマドIII世(1302-1309)の時代に建設されたヘネラリーフェは、ナスル朝時代の夏の別荘で、アルハンブラ宮殿の北、チノス坂をはさんだ北側の太陽の丘に位置する。 |
別荘内のアセキアの中庭
Patio
de
la Acequia
には、細長い池を囲むように花壇、噴水、柱廊が設けられている。この中庭(パティオ)は、アンダルシア地方
のイスラム建築において、最も保存状態が良いものの1つである。 |
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▼ ヘネラリーフェ庭園を観賞した後は、この美しいオリーブのトンネルを通って、アルハンブラ宮殿に向かった。 |
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アルハンブラ宮殿 Palacio de la Alhambra
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ナスル朝時代の1238年に着工し、1391年に完成したアルハンブラ宮殿
(総面積約1,400m2)は、スペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘の上に位置する。馬の背のような丘は、頂上部が長さ740m、幅205mにわたって平坦になっており、夏は特に暑いといわれるグラナダの中で、とても涼しい場所に位置している。 |
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石橋を渡って赤い城・アルハンブラ宮殿に入る 09:00
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▲▼ 宮殿と呼ばれているが、城塞としての機能を備えており、内部に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設がある。その大部分はイベリア半島最後のイスラム政権・ナスル朝の時代に建設されたものである。
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廃墟のアルハンブラ宮殿
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▲▼ 建物は白を基調としているが、アルハンブラとはアラビア語で「赤い城塞」を意味するアル=カルア・アル=ハムラー القلعة الحمراء, al-qal‘ah al-ḥamrā' と呼ばれていたものが、スペイン語において転訛したものという。 |
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モスクの跡地に建てられたサンタ・マリア・デ・ラ・アルハンブラ教会
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アルハンブラという名の由来については、城塞周辺の土地の土壌が赤いため、あるいは建築に使われた煉瓦の色であるとか、宮殿が赤い漆喰で覆われていたからなど諸説がある。しかし、イブン・アルハティブが「アルハンブラ宮殿増築のときに夜を通して篝火(かがりび)を燃やして工事したため、グラナダ平野から見上げた宮殿が赤く染まって見えたことからこのように呼ばれた。」という説を唱え、これが一般的な説として通用しているという。
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堅牢そうなカルロスV世宮殿(ファサード) 09:10
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カルロスV世宮殿 Palacio
de Carlos V
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カトリック両王の孫カルロスV世が命じて建てた宮殿。建築様式を当時最新のルネッサンス様式とし、資金はグラナダのモーロ人から徴収することにして建設が始まったが、その後、モーロ人追放令が発令されるなどして資金難に陥り、建設は長期間中断され、屋根がついたのは18世紀に入ってからのことという。 |
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内部にアリーナのような円形のパティオがあるカルロスV世宮殿
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▲ イスラム建築の中にカトリック建築が混在する光景は、コルドバのメスキータと同じ状況で、とても違和感がある。現在、一階は「二姉妹の間」のオリジナルの扉など、多数の宮殿関連の品を展示するアルハンブラ博物館になっており、二階は美術館として使われている。 |
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宮殿の西を守るアルカサバの巨大な塔
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▲▼ ツアー一行は、最初に夏の離宮ヘネラリーフェを見学した後、アルハンブラ宮殿に入り、カルロスV世宮殿や宮殿の西部を守るアルカサバ Alcazaba の巨大な塔のそばを通り、「メスアール(裁き)Mexuar の中庭」から
「メスアールの間」に入った。この区画は、王宮で最初に建てられた部分で、罪人たちはここで取り調べられて裁きを受けた。 |
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その当時の刑罰はとても苛酷で、「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典のように、グラナダの町で盗みを働いたものには右手や両耳を切り落とす刑が言い渡されたという。王宮のすべての壁には、アラビア語で「神のみぞ勝利者である」と書かれている。 |
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メスアール(裁き)の間 Sala del Mexuar 09:30
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▲▼ そして何よりも素晴らしいのは、1492年、イスラムの最後の王からアルハンブラ宮殿を奪回したイサベル女王とフェルナンド王のカトリック両王が同じ年にこの「メスアールの間」でクリストファー・コロンブスにインド洋への航海を許可し、資金を授けたという。アメリカ大陸が国際的に認知されてその歴史が始まるのは、実にこの部屋がその嚆矢(こうし)ということになる。とてもエキサイティングな話ではないか! |
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アメリカ大陸が世界史に登場する嚆矢となったコロンブス謁見の部屋
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宮殿のどの部屋にもアラビア文字で「神のみぞ勝利者である」と書かれている↓ |
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アルハンブラ宮殿の中心部がこのコマレス宮 Palacio
de Comares で、アラヤネス(天人花)のパティオ Patio de los
Arrayanes の水鏡に映えるコマレスの塔が美しい。 |
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水鏡に映えるコマレスの塔(大使の間)/アラヤネス(天人花)の中庭 09:37
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砂漠の民の水に寄せる強い思いに浸りながらコマレスの塔に導かれた。内部には、素晴らしいアラビア風の装飾が施された「大使の間
Salćn de Embaladores 」がある。 |
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大使の間入口のアーチ/コマレスの塔
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♪ アルハンブラの想い出
Recuerdos
de la Alhambra |
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● BGMの第一曲は、有名なギター独奏曲「アルハンブラの想い出」で、スペインの作曲家・ギタリストのフランシスコ・タレガ(タルレガ)による名曲である。 |
「近代ギター音楽の父」といわれるタルレガがアルハンブラ宮殿を訪れたときに見た噴水にヒントを得て作った。ギターを志す人があこがれるトレモロの逸品で、この曲が弾ければ他に何も望まないほどの名曲中の名曲である。 |
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フランシスコ・タルレガ
Francisco
Tarrega
1854-1909 |
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スペイン東部のカステリョン・デ・ラ・プラーナという地で生まれたタルレガは、少年の頃から独学でギターを弾き、22歳の時マドリッド音楽院に入学し、ピアノと和声学を学んだが、彼にとって終生の伴侶となった楽器はギターで、奏法の工夫やレパートリーの拡大により、ギターに新たな魅力を付け加えていった。 |
その成果の一つが、同じ音又は違う音を交互に規則的に早く繰り返して演奏するトレモロ奏法であった。 |
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大使の間のアラブ風の空間/コマレスの塔
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タルレガは、グラナダ地方にあるアルハンブラ宮殿のエキゾチックな印象を豊かな伴奏の響きの中からメロディが立体的に浮かび上がってくるようなトレモロ奏法で表現した。タルレガが作曲したギター曲は400曲にものぼるといわれている。
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大使の間の美しい壁面
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♪ ヘネラリーフェにて
En
el Generalife |
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● 交響詩「スペインの庭の夜 Noches en los Jardines de Espana 」は、スペインの作曲家マヌエル・デ・ファリャ(1876-1946)の作曲した独奏ピアノと管弦楽のための作品で、3つの楽章の中の第一楽章がBGM二曲目の「ヘネラリーフェにて En el Generalife 」である。 |
アルハンブラのカリフ(イスラム国家の最高権力者)のハーレム「夏の離宮」をイメージした逸品。ジャスミンの花香る夜のヘネラリーフェの花園が鮮やかに蘇る。 |
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複雑な文様の天井と美しい明かり取りの窓/大使の間
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ライオンのパティオ Patio
de los Leones |
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コマレス宮を過ぎると、有名な12頭のライオンの噴水が設けられたライオンの中庭(パティオ)に至る。ここは、王族たちのプライベート空間で
あるライオン宮 Palacio de Leones
と呼ばれる区画である。 |
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ライオンのパティオは、現在、修復中だったので、2003年11月に感動写真集同人・南光優氏が撮影した写真を再掲して、対比していただこう。 |
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修復中だったライオンのパティオ
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▲▼
パティオの中央には、どうみても格好が良いとはいえないライオンが大きな水盤を支えている噴水が置かれている。グラナダのユダヤ人たちがムーア人の王の庇護の御礼として献上したもので、12頭のライオン像は、イスラエルの12の部族を表しているともいわれる。 |
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イスラム世界では、偶像は一切禁止されているのに、ライオン像が受け入れられたのは、宮殿側にユダヤ人たちの厚意をむげに断れないという配慮が働いたものという。「ライオンのパティオ」が有名になった理由は、
イスラム宮殿に偶像が置かれているというショッキングな光景によるもので、美術的な価値は乏しい。 |
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ライオンのパティオ Patio de
los Leones 2003.11
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撮影:南光 優 |
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アルハンブラ物語 The
Tales of
Alhambra |
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アルハンブラ物語は、アメリカ人作家ワシントン・アーヴィング(1783-1859)が1832年に発表したグラナダの丘に今もその姿を残すアルハンブラ宮殿にまつわる全2巻の旅行記・伝説集である。彼は、アメリカ公使館書記官としてスペインに赴き、偶然の幸運からモーロ人の築いたこの城に滞在し、宮殿の華麗かつ荘厳な姿とそこに暮らした幻想的な日々がさまざまな物語を織りまぜて詩情豊かに綴られている。 |
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拡大写真(1200x800)200KB |
撮影:南光 優 |
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「アルハンブラ物語」
・・・
私は「ライオンの中庭」を通りかかったとき、ライオンの噴水のそばで、ひとりのターバンを巻いたムーア人らしいひとがひっそりとすわっているのに驚いた。私の頭の中には、一瞬さまざまな伝説が浮かんできて、魔法が解かれた幾世紀も前の人間が、突如として現れてきたのだと思った。おそるおそる話しかけてみると、古代の魔法を破って現れた人間ではなく、彼は生来のベルベルのテトゥアン人であった。彼は、アルハンブラはベルベルの古城を思い出させるので、夏にはときどきこの丘へ登ってくるのだといった。そこはこれほど壮大ではないけれど、建造物も装飾もよく似ているという。
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この商人は石に刻まれた文字を指さして、「セニョール、旦那さまよ。ムーア人がグラナダを支配していた頃は、グラナダの市民はもっと陽気だったようですよ。ムーア人は恋とか音楽、詩のほかは何も考えなかったのです。悲しいにつけ、うれしいにつけ、それを詩につくり、歌にたくしていたのですね。詩の上手な男と美しい声でうたう女が最高の人気者で、みんなから大事にされました」
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