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赤褌神輿 |
愛知県名古屋市 2012年7月16日(月)海の日 那古野神社 撮影・原作:宮嶋 茂 |
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那古野(なごや)神社例大祭は、1100年の歴史ある夏祭で、江戸時代には、尾張徳川家の庇護の下で名古屋城三之丸天王祭として名古屋三大祭のひとつに数えられる山車を主体にした華やかな祭でした。現在は、名古屋市の中心街を赤褌の氏子たちが神輿を担いで練り歩く勇壮な裸祭となっています。 |
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スライドショーCD写真集「赤褌神輿」は、135枚、上映時間13分。(1枚2000円
リピーター価格:1枚1500円)
日本の祭りCD・DVD写真集 |
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YouTube 赤褌神輿(抜粋縮小版) |
↓画像をクリックするとスライドショー動画が始まります。 |
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はじめに |
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平成24年(2012)7月16日(月)海の日、愛知県名古屋市に鎮座する那古野(なごや)神社(宮地俊彦宮司)で例大祭(天王祭)が開催されたので、その一部始終を取材した。那古野神社へは、名古屋駅から地下鉄に乗り丸ノ内駅で下車し、徒歩約10分で着く。 |
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【凡例】 ▲:上の画像の説明文 ▼:下の画像の説明文 〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示 |
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▲▼ 326km2の市域に人口226万人を擁する名古屋市は、愛知県西部(尾張地方)の政令指定都市で、愛知県庁所在地である。全16区から構成される。 |
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横浜市・大阪市に次ぐ全国第三位の人口を有し、東京と京都の間に位置することから、中京とも呼ばれ、三大都市圏の一つである中京圏(名古屋圏)の中枢都市で、政治・経済・文化の中心地である。 |
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名古屋市中心部に鎮座する |
那古野 |
神社と御旅所の若宮八幡社 |
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▲ 地元では名駅(めいえき)と呼ぶ名古屋駅周辺と栄(さかえ)が広域集客可能な繁華街となっており、地下街が発達し、地下鉄網が充実している。 |
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かつて、「尾張名古屋は城で持つ」と詠われた金の鯱(しゃちほこ)で知られる名古屋城は、JR名古屋駅の北東約2.4kmに位置する。大坂城と熊本城と共に日本三名城と並び称され、17世紀初め、関ヶ原の合戦ののち、江戸幕府を開いた徳川家康によって築城された。 |
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カーソルで画面のどこかをポイントすると説明が現れます。 |
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▲▼ 名古屋城天守閣の南方約1.2kmの名古屋市中区丸の内に鎮座する那古野(なごや)神社は、醍醐天皇の御代、延喜11年(911)に那古野庄(なごのしょう)(名古屋城三の丸付近)に創建され、平成23年(2011)に御鎮座1100年祭を祝った。津島牛頭天王社(つしま・ごずてんのうしゃ 現在の津島神社)を総本社とする天王社の一つで、当初は亀尾天王社(かめのお・てんのうしゃ)と呼ばれていた。 |
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大幟が立つ参道入口/那古野神社(名古屋市) 2012.7.16 10:45
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▲▼ 天文元年(1532)の合戦で社殿を焼失したが、天文8年(1540)織田信秀により再建された。創建時より若宮八幡社と隣接していたが、慶長15年(1610年)徳川家康による名古屋城築城の際、障害となるため、那古野神社と若宮八幡社のどちらかを移すこととなり、家康が御神籤(おみくじ)で神意を伺ったところ、那古野神社が遷座不可と出たため、そのまま城内に留まり、若宮八幡社は、城外の現在地に遷座した。 |
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このときから三之丸天王社と呼ばれるようになり、城の総鎮守、城下町の氏神とされた。また、新たに三之丸東照宮(現・名古屋東照宮)と隣接した。 |
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▲▼ 明治維新の際、須佐之男神社(すさのおじんじゃ)と改称し、明治9年(1876)名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に、東照宮とともに旧藩校明倫堂跡地である現在地に遷座し、明治32年(1899)に那古野神社と改称した。 |
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先の大戦中には空襲により社殿が全焼。昭和29年(1954)から復興にとりかかり、昭和34年(1959)に現在の社殿が完成した。 |
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那古野神社例大祭
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那古野神社の祭神は、「須佐之男神」(すさのおのかみ)と「櫛稲田姫神」(くしいなだひめのかみ)である。京都の八坂神社や津島神社と同じく、疫病退散を祈願する神社として盛んに信仰されてきた。主祭神の別名が牛頭天王(ごずてんのう)で
あることから、例大祭は祭神の名を冠して天王祭とも呼ばれる。 |
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160年前に制作された |
山車飾 |
人形の展示 |
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かつては旧暦の6月15・16日が祭礼日(現在は新暦7月15・16日)で、江戸時代には「三之丸天王祭」と呼ばれ、東照宮祭、若宮祭と共に名古屋三大祭のひとつとして、二輛の車楽(だんじり)と多くの見舞車が巡行して大いに賑わったという。車楽(だんじり)の一輛は名古屋村と広井村、もう一輛は車ノ町と益屋町が交替で当番に当たった。宵祭には提灯を飾り、翌日の朝祭では屋形を組み、能人形を乗せて巡行したという。 |
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当時は、この車楽(だんじり)に対するお見舞いの献灯車として多くの山車(だし)が造られた。祭り好きな殿様として有名な尾張第10代藩主徳川斎朝(なりとも)(1793-1850)が車之町に胡蝶の舞の人形を据えた小車を与えたのが起源で、最盛期には天王社氏子の車之町、益屋町、名古屋村、広井村、戸田道から16輌もの見舞車が曳き出されたと記録されている。 |
かつての車楽(だんじり)は戦災で焼失し、残念ながら残っていない。現在では、消失を免れた旧茶屋町の尾張古式車楽(だんじり)型献灯車「天王車」1輌
が15日の宵祭に飾られる。山車飾人形は、宵祭の山車奉曳(だしほうびき)で飾られる。 |
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一部資料画像 |
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拝殿に向かって左奥に神輿庫があり、大中2基の宮神輿が引き出され、大神輿(だいみこし)の両側に赤褌(あかふん)と呼ばれる赤い前垂式六尺褌(まえだれしき・ろくしゃくふんどし)を締めた舁手(かきて)を示す2体の人形が展示されていた。 |
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例大祭(天王祭)に神輿(みこし)が参加するようになったのは、明治25年(1892)からで、当時は大神輿2トン(1基60人)、中神輿(ちゅうみこし)1.5トン(2基各50人)の3基の宮神輿があった。乱暴に練り歩いたため、暴れ神輿と呼ばれ、名を馳せていたという。 |
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那古野神社から若宮八幡社へ渡御するのは、昔は名古屋城の中で一緒にあったものが、現在位置に離れ離れになったため、渡御が行われることになった。 |
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先の戦災で焼けたため、現在の大神輿1.5トン(90人)は昭和33年(1958)に建造され、社殿の復興と共に神輿渡御が再開された。中神輿0.8トン(40人)は、そのとき総本社の津島神社(愛知県津島市)から移管したもので、現在、大中2基の宮神輿により御旅所の若宮八幡社まで片道約2kmの道を日帰りで渡御と還御を行っている。 |
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▲▼ 大中2基の宮神輿は、寄棟造の江戸型神輿と違って、いづれも神明造(しんめいづくり)の神殿(本殿)を模した神明造神輿で、神紋の金の木瓜紋(ぼけもん)が描かれた赤い布で覆われている。Wa☆Daフォトギャラリーに初めて登場する珍しい形の神輿で、以後、那古野神輿(なごやみこし)と呼ぶことにする。 |
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拝殿奥に建てられた |
神明造 |
の神殿(本殿) |
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▼ 斎館(さいかん)のそばに寄棟造(よせむねづくり)の小さな江戸型神輿4基が置かれている。手前と右端の2基が女性神輿で、残る2基が子供神輿である。昭和33年(1958)、神輿渡御が復活したときに初めて導入されたもので、例大祭(天王祭)には、合計6基の神輿が出動する。 |
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拝殿に向かって右側に、車寄せのある斎館(さいかん)がある。鉄筋コンクリート造りのモダンな二階建である。 |
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▲▼ 斎館の玄関右側に獅子頭(ししがしら)が飾られていた。例大祭で獅子舞が奉納されるわけではないが、お目出度い祭の雰囲気を高めるのに役立っている。 |
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▼ 拝殿の入口に「みこしかつぎ募集 男・女 那古野神社 大祭」と書かれたポスターが掲示されていた。大都市の空洞化現象は東京だけでなく名古屋も例外ではなく、宮地俊彦宮司によると、地元の氏子だけでは神輿があがらず、部外者の力を借りているという。 |
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神輿渡御を取り仕切るのは、専門のノウハウが必要で、那古野神社では、東区の永田組の力を借りているという。斎館の車寄せでは、御神酒をいただく永田組の姿が見られた。 |
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斎館 |
の車寄せで御神酒をいただいて入場する永田組 |
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▼ 部外から参加する場合は、準備の都合上事前予約制となっている。斎館に入ると、斎館のフロントロビーに受付があり、行列ができていた。 |
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▼ 担ぎ手の参加料は無料で、緑の法被を着た婦人会の受付係に名簿確認を受けると、茶法被・赤褌・鉢巻・白地下足袋・団扇が入ったビニール袋が手渡される。
袋には参加者の名前が書かれていた。 |
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担ぎ手の予約名簿をチェックして祭装束を交付する受付係
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▼ ビニール袋をもらったあと、ガーゼに朱印を押した参加章(写真上)を手首に巻いてくれる。これはもぐりで参加する人がいるためで、保安管理上必要なことであろう。祭が終わったあと、参加章と引き替えに絵馬がもらえる。 |
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斎館の控室で祭装束に着替えて出て来た担ぎ手たちは、全員赤褌(あかふん)を締めている。祭事の衣装は白が原則なので、宮地宮司に尋ねたところ、赤い褌は、魔除(まよけ)の意味で締めているとのこと。 |
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赤褌 |
を締めて現れた担ぎ手たち 12:22 |
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▲▼ 那古野神輿にも赤い布や綱が使われているのも同じ趣旨である。極めて珍しい祭装束なので、この作品の題名ともなっている赤褌神輿(あかふんみこし)と呼ぶことにした。なお、担ぎ手たちが羽織る帯無し法被の茶色は、舁手(かきて)であることを識別するためのもので、特別ないわれはないという。 |
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あかふんを しめてなごやの みこしかき |
Mikoshi carriers, wearing
red fundoshi loincloth. |
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赤褌に那古野神社祭礼奉仕会の青法被を着ているのは、神輿の指揮に当たる役員たちで、実質的に采配するのは二番永田組である。一文字笠に裃姿は、渡御行列を先導する氏子役員である。 |
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神輿舁は魔除けの赤褌を締めているが、神輿を統括指揮するのは、白装束で身を固めた祭礼頭領である。かつて戦陣を指揮した武将が使っていた采配(さいはい)と拍子木を持っている。写真下は大神輿の頭領
の田中さんで地元氏子役員である。中神輿にも別の頭領が付く。江戸の神輿祭では、拍子木といわれる役職であるが、何とも勇ましい出で立ちである。 |
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女神輿は、ギャル神輿と呼ぶことにするが、緑法被にハンダコ・シャツ姿である。担ぐのは、中神輿ではなく、小型軽量の江戸型神輿2基である。 |
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