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 旅紀行日本の祭り

2018年10月20日改訂

今 日

昨 日

♪山伏/邦楽囃子

深川の水迸る夏祭  北舟

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Downtown Fukagawa, Water splashing at the summer festival.

2010年7月21日制作

成田山・深川不動前の神輿差し / 駒番八:東陽二

わっしょい!深川祭

成田山・深川不動前の神輿差し / 駒番八:東陽二(東京都台東区)

- 日本の伝統文化が息づく祭 -

 

日本祭百景【中巻】

葉月

徳島阿波踊り
市役所前演舞場
徳島県徳島市
平成14年(2002)8月12日(月)
撮影・制作:和田義男
踊り 女性の男踊り

  編笠の笑顔こぼれし踊唄  北舟 

あみがさの えがおこぼれし おどりうた

A smiling face under the braided hat of straw, singing a dance song.

 平成14年(2002)8月12日(月)、夏休みに家内と二人で400年の歴史を誇る徳島の阿波踊りを見に行った。神戸・三ノ宮駅のバスターミナルから高速バスに乗り、淡路島を通ってJR徳島駅まで1時間50分。徳島は予想外に近かった。

 阿波踊りは徳島市を中心に徳島県下一円で踊られている盆踊りをいう。兵庫県の淡路島でも踊る。阿波踊りの名称は、昭和初年に徳島出身の絵師・郷土芸能研究家の林鼓浪(はやしころう 1887〜1965)が旧国名によって命名したものという。
 伴奏は三味線・笛・太鼓・鉦(かね)などで急調子にはやしたてるが、唄は落ち着きのある「よしこの節」である。7・7・7・5調の囃子唄で、有名な「♪踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々・・」はこの唄の中の1節。明治の流行歌の1つで、藍商人が歌っていたものが阿波踊りに歌う「阿波よしこの」となって定着したという。
 男は尻ぱしょりの浴衣がけに手ぬぐい頬かぶり、足袋はだし、女は片肩脱ぎの浴衣を裾からげに着て赤い蹴出しを見せ編笠をかぶり、白手甲、白脚絆、白足袋、黒の利休下駄をはき、数十人単位の連(れん)を作り街道を流し踊り歩く。これを騒(ぞめき)という。
岡田組の練習風景/城山公園
腹ごしらえ/城山公園
岡田組の練習風景/城山公園 腹ごしらえ/城山公園

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   阿波踊りは天正13年1(585)阿波徳島藩祖蜂須賀家政の徳島築城祝いに町民が踊ったのに始まるという説がある。「阿波の殿様蜂須賀公が今に残せし阿波踊り」と、よしこの節の歌い出しにあるものの、当時まだ土地の土豪が反抗して治安が悪く、そんな状況ではなかったという。
 通説によれば、その土地で踊られた盆踊りに端を発し、その時代の社会状勢やその時々に盛んだった芸能の影響を受けて変化を遂げ、現在の姿になったといわれる。

満員の市役所前演舞場

満員の市役所前演舞場

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  ▲▼ 阿波踊りを構成するグループを連(れん)という。連は同好の人たちの集まりや、企業・大学などの人たちで結成され、踊り子と鳴り物 (三味線・鉦・太鼓・横笛等) で構成される。連の規模は様々で30人程の小グループから何百人という大グループまであり、なかでも技量練達した同好の連は有名連と呼ばれる。
 有名連は、阿波おどり振興協会・徳島県阿波踊り協会・阿波おどり保存協会の何れかに所属している。徳島市観光協会の広報誌では41連、徳島出版の有名連紹介サイトでは44連が紹介されている。
 阿波踊りのもう一つの柱が企業連。著名な企業が有名人を仕立てて煌びやかな踊りを見せる。金をかけているため、派手なPRがあるのはやむを得ない。
  踊笠波打つ如く寄せ来る  北舟 

おどりがさ なみうつごとく よせきたる

Dancing braided hats of straw, rushing to us like waves.

トップを飾って入場してきた阿呆連/市役所前演舞場
トップを飾って入場してきた阿呆連/市役所前演舞場

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  ▲▼ 徳島市内には有料5ヵ所・無料3ヵ所の演舞場があり、8月12日から4日間、午後6時から10時半まで40〜60連の踊り込みが披露される。このほか5ヵ所のおどり広場やあちこちの街角で踊りが繰り広げられる。
 JR徳島駅から徒歩10分・全長110mの市役所前演舞場では12日の初日午後5時半から開幕式が開かれ6000人の観客が見守った。冒頭、徳島佐苗会の50人が三味線を弾きながら入場。阿波おどり実行委員会常任委員長や来賓の挨拶、テープカットのあと、徳島市観光協会・徳島新聞社主催の「2002徳島市の阿波踊り」が華やかに幕を開けた。
  一晩に二度踊り込む阿呆連  北舟 

ひとばんに にどおどりこむ あほうれん

Ahoh-ren, dancing into the promenade twice a night.

美人の踊り子 暴れ踊り 娯茶平
増田明美さん 五十嵐めぐみさん 高橋英樹さん
娯座留 殿様連 阿呆連のやっこ踊り
  阿波踊泥棒のよな頬被  北舟 

あわおどり どろぼうのよな ほおかむり

Awa-odori dance, the cover of a head and cheeks with a towel looks like a thief.

  ▲▼ トップを切って踊り込んできたのが阿波おどり振興協会所属・連員数145人の阿呆連(あほうれん)。 阿波の阿の字は阿呆の阿。おなじみの掛け声で踊り込む。トレードマークの破れ傘は結成当初の昭和23年からで、浴衣の右肩に大きく描かれている。
 男性は頬被りをして提灯を持ち、豪快かつ奔放に暴れ踊り、正調武士の踊りを守り続ける。女性は独特の技法で躍動的かつ華麗な踊りで歓喜を表現する。阿呆調を追求するトップ集団である。
 会場は、踊りの熱狂が渦巻き、続々と踊り込む有名連や職域連に混じってテレビなどでお馴染みの有名人が登場するたびに拍手喝采がわき起こり、真夏のホットな夜は、夢の如く、あっという間に過ぎていった。
大村昆さん御夫妻
中村晃子さん
大村昆さん御夫妻 中村晃子さん

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藤田弓子さん
山崎裕太さん
藤田弓子さん 山崎裕太さん

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初日だけで35万人の人出があった阿波踊り。踊る阿呆(あほう)に見るあほう同じ阿呆(あほ)なら踊らにゃ損々!

  踊り女の赤い鼻緒の利休下駄  北舟 

おどりめの あかいはなおの りきゅうげた

Aikyu-getas of women dancers, with a red clog thong.

殿様連の男踊り
本家大名連の女踊り
殿様連の男踊り 本家大名連の女踊り

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徳島新聞のトップを飾った悠久連の男踊り

娯茶平のちびっ子たち

悠久連 娯茶平のちびっ子たち

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日本髪の踊り子
やよい連のちびっ子
日本髪の踊り子 やよい連のちびっ子

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  夜更けまで老若男女の踊りの輪  北舟 

よふけまで ろうにゃくなんにょの おどりのわ

Dancing circles young and old until late-night.

わっしょい!深川祭
富岡八幡宮
東京都江東区富岡
平成17年(2005)8月12日(金)〜15日(日)
撮影・制作:和田義男

  夏祭翳す花笠木遣唄  北舟 

なつまつり かざすはながさ きやりうた

Summer festival, Kiyari song shading his face with flower bamboo hat.

 平成17年(2005)8月12日(金)から15日(日)の間東京都江東区富岡一丁目に鎮座する富岡八幡宮の3年に一度の本祭りである例大祭が開催され14日(土)の神輿連合渡御を取材した。古くから深川八幡祭(深川祭)と呼ばれ、江戸三大祭りの一つに数えられている。江戸時代から「神輿(みこし)深川、山車(だし)神田、だだっぴろいは山王様」といわれ、神輿祭(みこしまつり)として名を馳せてきた。

 東京都江東区富岡一丁目に鎮座する富岡八幡宮は、寛永4年(1627)永代島(えいたいじま)周辺の砂州一帯を埋め立て、約六万五百坪(20万m2)の社有地を得て創建された江戸最大の八幡神社で、「深川の八幡様」と親しまれてきた。祭神は応神天皇(誉田別命 ほんだわけのみこと ) 外八柱である。
 江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神(はちまんしん、やはたのかみ)を尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては准勅祭社になるなど今日まで繁栄してきたが、特に、庶民の信仰は、江戸時代から現代に至るまで変わることなく受け継がれ、毎月1日、15日、28日の月次祭は縁日として賑わいを見せている。

深川八幡宮を目指す神輿 / 駒番八:東陽二

深川八幡宮を目指す神輿 / 駒番八:東陽二

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江戸時代深川に屋敷があった豪商・紀伊国屋文左衛門(きのくにや・ぶんざえもん)から八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され日本一の大きさを誇る絢爛豪華な神輿が評判となって「みこし深川」と云われるようになった。
 斎藤月岑(さいとうげっしん)の「東都歳時記」によれば、江戸期の深川祭には12〜13台の山車や練り物が曳き出されていたようで、「八月十五日富賀岡(富岡)八幡宮祭禮」の絵図には、紀文の三基の神輿が描かれている。
 紀文の三基の神輿は、惜しくも大正12年(1923)の関東大震災で全て灰燼(かいじん)となり、以来、御本社神輿の復活は深川っ子の悲願であったが、平成3年(1991)と平成9年(1997)に、それぞれ一の宮と二の宮の神輿が奉納され、日本最大の黄金神輿が出現した。

御本社一の宮神輿

御本社二の宮神輿

高さ:14尺5寸(4m39cm) 屋根幅:9尺5寸(2m89cm) 重量:約4.5ton

 

高さ:10尺8寸(3m27cm) 屋根幅:7尺5寸(2m27cm) 重量:約2.0ton

鳳凰の胸  ダイヤ7カラット 
鳳凰の目  ダイヤ4カラット 1対
鳳凰の鶏冠 ルビー2,010個
狛犬の目  ダイヤ3カラット 2対
隅木の目  ダイヤ1カラット 4対
小鳥の目  ダイヤ1カラット 4対
屋  
 根  純金24kg
その他プラチナ、銀、宝石多数使用

鳳凰の目 ダイヤ2.5カラット 1対

御本社一の宮神輿 御本社二の宮神輿

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 本殿に向かって右奥に明治33年(1900)に建立された横綱力士碑がある。富岡八幡宮では、貞享元年(じょうきょう・がんねん)(1684)幕府の公許を受けて、初めて勧進相撲が行われ、以後年二場所の相撲興業が行われ、江戸勧進相撲発祥の地として知られるようになった。

横綱土俵入之圖 / 第十二代横綱 陣幕久五郎

横綱土俵入之圖 / 第十二代横綱 陣幕久五郎

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  ▲▼ 初代明石志賀之助(あかし・しがのすけ) 以来の歴代横綱の名が刻まれた横綱力士碑は、第十二代横綱陣幕久五郎(じんまく・きゅうごろう) が発起人となり各界の協賛を得て奉納されたもの。横綱朝青龍(あさしょうりゅう)も、既に「平成十五年三月 六十八代 モンゴル 朝青龍明徳」と彫り込まれている。なお大鳥居を入って正面参道の右側には「大関力士碑」が建立されている。
   新横綱が誕生すると、日本相撲協会の立会いのもとに刻名式が行われ、本殿前の石畳の上で新横綱の土俵入りが奉納されるという。

総重量20tonに及ぶ横綱力士碑

総重量20tonに及ぶ横綱力士碑

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▼ 神輿は御神酒所前など要所要所でストップし、神輿を練り上げる。深川不動前も重要なスポットであるらしく、容赦なく水が浴びせかけられる中で、濡れ鼠になりながらも神輿が差し上げられた。

成田山・深川不動前で水の集中攻撃 / 駒番七:東陽一

成田山・深川不動前で水の集中攻撃 / 駒番七:東陽一

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  深川の水迸る夏祭  北舟 

ふかがわの みずほとばしる なつまつり

Downtown Fukagawa, Water splashing at the summer festival.

成田山・深川不動前の神輿差し / 駒番八:東陽二

成田山・深川不動前の神輿差し / 駒番八:東陽二

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駒番十九の枝川(えだがわ)の神輿では堂々と尻からげして赤褌を見せている棒端(ぼうばな)がいた。棒端は担ぎ棒の先端に居る舵取り役で、担ぎ手の兄貴分が担当する。深川にもまだ粋な江戸っ子が健在である。
  棒端の祭褌朱一本  北舟 

ぼうばなの まつりふんどし しゅいっぽん

The mikoshi chief porter, wearing a festival loincloth of red sash.

赤褌の棒端 / 駒番十九:枝川

赤褌の棒端 / 駒番十九:枝川

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▲▼ 深川祭の神輿舁(みこしかき)の掛け声は嬉しいことに「ワッショイ!」で、江戸で唯一伝統が守られているところで、とても嬉しい。鐵砲洲大祭では、弥生会が「ワッショイ!」を取り戻そうとやっきになっている。
 しかしその反面深川祭には「褌禁止」という信じられない掟がある。赤褌の兄貴はこの掟にまっこうから挑戦し、江戸時代の先祖から続く褌を締める勇気ある江戸っ子であり、声援を送りたい。

八幡宮前で宙に舞う神輿 / 駒番十三:新川一南

八幡宮前で宙に舞う神輿 / 駒番十三:新川一南

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 八幡宮前では、各町会の担ぎ手たちが力を振り絞って神輿を練り上げる。神輿練には、揉み(上下に動かす)・差し(頭上に掲げる)・放り(上に放り投げる)があり、神輿が波のように動くのは見事である。中でも「放り」は重量物を投げ上げる大変危険な技だが、日頃の練習の成果を見せようと、「放り」を披露する神輿がかなりあった。

宮前で「放り」を見せる神輿 / 駒番二十一:清澄三北

宮前で「放り」を見せる神輿 / 駒番二十一:清澄三北

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  宮前の波打つ神輿練り比べ  北舟 

みやまえの なみうつみこし ねりくらべ

Lifting competition of portable shrines, waving it in front of the shrine.

波打つ神輿 / 駒番三十:平野二

波打つ神輿 / 駒番三十:平野二

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深川祭/鳳輦渡御
富岡八幡宮
東京都江東区富岡
平成18年(2006)8月13日(日)
撮影・原作:志村清貴 監修:和田義男

 平成17年(2005)は、3年に1度、大小あわせて120数基の町神輿が担がれ、その内大神輿ばかり54基が勢揃いして連合渡御が行われた本祭り(ほんまつり)の年だったが、陰祭り(かげまつり)の年にあたる平成18年(2006)の8月13日(日)に、二の宮鳳輦の宮出しと町内渡御が行われた。
  富岡八幡宮には元禄時代に豪商として名を馳せた紀伊国屋文左衛門が奉納したといわれる総金張りの宮神輿が三基あったが、惜しくも関東大震災で焼失した。それから68年の時を経て平成3年(1991)に日本―の黄金神輿「一の宮鳳輦」が奉納され、宮神輿が復活した。

一の宮と二の宮の御本社神輿

一の宮と二の宮の御本社神輿

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▲▼ しかし4.5tonもある一の宮鳳輦は、その巨大さゆえに道路通行上さまざまな問題が生じ、奉納のときに一度担がれただけで、その後は展示専用となり、今後も宮出しはあり得ないという。そのため、新たに重量約2tonの宮神輿が製作され、二の宮鳳輦として平成9年(1997)の例祭で披露された。
 その後、二度目の宮出しがあったものの、例大祭に担がれることもなく、二の宮鳳輦は一の宮と並んで展示される運命となったが、突然、陰祭りの平成18年(2006)の例祭に三度目の宮出しと町内渡御が行われた。
 二の宮鳳輦の宮出しは、定期的なものではなく、その年々の氏子連合会で決められるので、次回はいつになるかまったく分からない。そのため、今回の宮出し・町内渡御は、神輿フアン垂涎のとても貴重な催しとなった。

大鳥居を出る二の宮

大鳥居を出る二の宮

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