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 旅紀行日本の裸祭り

2014年7月10日改訂

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拡大写真(1400x800)244KB

山茶花の垣根に白き櫓かな  北舟

2007年1月13日制作

橋爪門続櫓・橋爪橋・五十間長屋・菱櫓

橋爪門続櫓・橋爪橋・五十間長屋・菱櫓(金沢城公園/石川県金沢市)

 
金沢市章1   金沢市消防出初式   金沢市章2

加賀鳶はだか放水

 

金沢城

  加賀鳶かがとび はだか放水
石川県 金沢市かなざわし   金沢城公園 新丸広場しんまるひろば   平成19年(2007)1月7日(日)

 平成19年(2007)1月7日(日)午前10時から石川県金沢市金沢城公園新丸(しんまる)広場で石川県知事や金沢市長らと共に消防署員や消防団員たちが参加した大規模な金沢市消防出初式が行われました。式典の最後に恒例の加賀鳶はしご登りと加賀鳶はだか放水が披露され、多くの観客を魅了しました。
 江戸で活躍した加賀鳶の伝統文化が今なお金沢市の出初式で見られ、しかも厳寒の中で全員褌一丁の裸形になって放水するという光景は、お江戸・東京でも見られず、金沢っ子の面目躍如たるものがあります。
  強風で雨着が煽られて2台のカメラもずぶ濡れになるなど、未経験の厳しい取材でしたが、タオルでカメラやレンズを拭きながらも感動の光景を多数切り取ることができました。これほど過酷な取材は初めてで、二度と撮れない映像だと自負しています。

 
スライドショーCD写真集「加賀鳶はだか放水」

スライドショーCD写真集「加賀鳶はだか放水」
▲ スライドショーCD写真集「加賀鳶はだか放水」は、収録画数218枚、上映時間19分。今回、CD化するにあたり
internetに発表した画像51枚に原画から再収録した150枚を加え解説画像を加えましたので、男のロマン溢れる
感動大作となりました。(1枚2000円 リピーター価格:1枚1500円)
 日本の祭りCD・DVD写真集
 
  
YouTube 加賀鳶はだか放水
(抜粋縮小版)
↓画像をクリックするとスライドショー動画が始まります。
 

はじめに

 平成19年(2007)1月7日(日)午前10時から石川県金沢市金沢城公園新丸(しんまる)広場で「平成19年金沢市消防出初式」が行われたので、新年の初取材に出かけた。前日朝10時の便で羽田から約1時間で小松空港に入り、シャトルバスに乗ってJR金沢駅前まで40分ほどで到着した。

 昼頃到着したので、駅前の金沢マンテンホテルに荷物を預け、15分置きに名所旧跡を巡回している金沢周遊バスを利用して、午後の半日、金沢市内を巡った。小型のボンネットバスなので乗降に時間がかかるが、1日乗車券が500円と、とても良心的である。
江戸時代の街並みがそっくり残る「ひがし茶屋街(ひがし郭)」

江戸時代の街並みがそっくり残る「ひがし茶屋街(ひがし郭)」

パノラマ写真(1666x800)270KB

 
加賀百万石の城下町
 平成14年(2002)放映のNHK大河ドラマ「利家とマツ」で全国的に有名になった前田家・加賀百万石の城下町である金沢市(かなざわし)は、北陸地方の西部、石川県のほぼ中央に位置する人口45万人余りの県庁所在地。戦災を免れたお陰で、江戸時代の町並みや情緒豊かな伝統文化が旅人を魅了する。
 国の重要文化財に指定されている「志摩」という江戸時代の茶屋が唯一現存する東茶屋街(ひがしちゃやがい)はひがし郭(くるわ)と呼ばれていたかつての郭街*(くるわがい)。長町(ながまち)には武家屋敷跡があり、ともにゆっくりと散策してみたいスポットである。
*郭街:春をひさぐ遊女屋(遊郭)の集まっている所。特に江戸の吉原(よしわら)が有名。

狭い路地の長町武家屋敷跡

狭い路地の長町武家屋敷跡

パノラマ写真(1300x700)206KB

 
雪の 兼六園けんろくえん
 金沢の名を全国に知らしめているのは、江戸時代に金沢城の庭園として作られた兼六園で、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本三名園といわれている。
 兼六園という名の由来は、宋代の洛陽名園記から採ったもので、宏大と幽邃(ゆうすい)、人力(じんりょく)と蒼古、水泉と眺望という庭園にとって両立しがたい六つの特性を兼ね備えているからだという。
兼六園・雪の 徽軫ことじ 燈籠
兼六園・雪のことじ燈籠

パノラマ写真(1300x700)206KB

 
金沢城かなざわじょう 公園
 この兼六園から百間堀(ひゃっけんぼり)を隔てた金沢城跡には、当時の建造物の一部である石川門や三十間長屋などが現存している。この跡地には長らく金沢大学のキャンパスがあり、世界的に珍しい城の中の大学とされてきたが、最近、郊外に移転し、それを機に櫓(やぐら)の一部が当時の技術で復元され、一般公開されている。
兼六園を背に石川櫓と石川門を臨む

     石川櫓↓

  ↓石川門
兼六園を背に金沢城石川門を臨む

パノラマ写真(2100x800)343KB

 
威風堂々の 石川門いしかわもん
 兼六園下(9)でバスを降りて石川門から金沢城に入り、城内を探索した。重要文化財に指定されている現在の石川門は、天明八年(1788)に再建されたもの。金沢城の搦手(裏口)でありながら、特に堅固に造ってあるのは小立野(こだつの)方面からの攻撃に備えたもので、ここが金沢城の一番の弱点で、攻撃されやすいと考えられていたからという。石川門の最大の櫓「石川櫓(いしかわやぐら)」は菱形になっており、石落しも設けられている。
石垣が左右で異なる石川門(内側)
石垣が左右で異なる石川門(内側)

パノラマ写真(1600x880)201KB

   金沢城は、現在の金沢市丸の内にあった戦国時代から江戸時代に至る城郭で、加賀藩主前田家の居城である。金沢平野のほぼ中央を流れる犀川(さいがわ)と浅野川(あさのがわ)とに挟まれ、小立野(こだつの)台地の先端に位置している。
手前から

菱櫓ひしやぐら

・五十間長屋・ 橋爪門続櫓はしづめもんつづきやぐら ・橋爪門
手前から菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門

パノラマ写真(1700x900)263KB

   典型的な平山城で、櫓(やぐら)を多用した構造になっている。また、瓦には冬の積雪に耐えられるように軽量で、有事には鉄砲弾にもなる鉛瓦(なまりがわら)が用いられた。本丸・二の丸・三の丸があったが、天守や三階櫓の焼失後は二の丸を藩主の居所とし、天守は再建されなかった。
橋爪橋・橋爪門・ 橋爪門続櫓はしづめもんつづきやぐら
橋爪橋・橋爪門・橋爪門続櫓

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   あまり堅固な城とはいえないため、有事の際は城下町にて敵(越前松平家)を迎え撃つ軍事拠点として多くの寺が建立された。そのうちの一つ妙立寺(みょうりゅうじ)(通称忍者寺)の井戸には金沢城に通じる抜け穴があるとか。
精巧な石垣の 橋爪門続櫓はしづめもんつづきやぐら
精巧な石垣の橋爪門続櫓

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  山茶花の垣根に白き櫓かな  北舟 

さざんかの かきねにしろき やぐらかな

   城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀(ひゃっけんぼり)、白鳥堀(はくちょうぼり)があった。現存するのは大手堀のみで、他の三つの堀は明治の末期から大正時代にかけて埋め立てられて道路などになった。
橋爪門続櫓はしづめもんつづきやぐら から石川門を望む
橋爪門続櫓から石川門を望む

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橋爪門続櫓はしづめもんつづきやぐら

・橋爪橋・五十間長屋・ 菱櫓ひしやぐら
 これらの建物は、当時の技法を使って平成13年(2001)7月に完成した延べ床面積1,894.2m2の復元建物で、石川門や三十間長屋と同様、銀白色に鈍く輝く鉛瓦や海鼠塀(なまこべい)が外観の特徴となっている。
   橋爪門続櫓↓       ↓橋爪橋    ↓五十間長屋

   菱櫓↓

橋爪門続櫓・橋爪橋・五十間長屋・菱櫓

拡大写真(1400x800)244KB

   3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓を2層2階の五十間長屋でつないでいる。これらの建物は、戦(いくさ)の際に二ノ丸を守るための施設で、石落しや鉄砲狭間となる格子窓、白塗漆喰壁や海鼠壁で防火構造となっている外壁が堅牢さを誇っている。
五十間長屋と 菱櫓ひしやぐら
       菱櫓↓      ↓入口             五十間長屋↓                     
五十間長屋と菱櫓

パノラマ写真(2000x780)242KB

   上から見ると菱形◆につくられているのが良く分かる菱櫓は大手*(おおて)と搦手**(からめて)を見張る物見櫓、橋爪門続櫓は二ノ丸大手の橋爪門枡形を見張る物見櫓、五十間長屋は武器等の倉庫であった。
 *大手:城の正面に攻めかかる軍勢。 **搦手:城の裏門を攻める軍勢。
五十間長屋の内部
五十間長屋の内部

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三十間さんじっけん

長屋

 三十間長屋は、石川門と共に国の重要文化財に指定されており、幅3間(5.4m)、長さ36.5間(65.7m)余の二階建の土蔵である。屋根は南面入母屋(いりもや)造り、鉛瓦葺(なまりがわらぶき)、白壁の腰に海鼠(なまこ)瓦を貼って石垣の上に建つのは石川門と同様であり、二階の腰にも鉛瓦葺の庇(ひさし)を付けている。
 安政5年(1858)に再建されたもので、金沢城にはこの他に全部で14の長屋があったと伝えられている。もとは軍備倉の堅固な造りで、干飯*(ほしいい)が貯えられていたというが、後に鉄砲蔵とも呼ばれたという。
*干飯:乾燥して貯えておく飯。水に浸せば、すぐに食べられる。
江戸時代に建てられた三十間長屋

江戸時代に建てられた三十間長屋

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