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金沢城公園 |
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2007年1月7日(日)、午前9時過ぎに追手門から金沢城公園新丸広場に入った。会場は30m/sを超える暴風雨に見舞われ、時折霰(あられ)が降る悪天候で、傘は役に立たず、持参したポンチョ式防水衣とスキーズボンにゴム長靴が唯一の装備。ポンチョの下にオリンパスの二台の愛機を抱えて臨んだ。 |
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出初式の放水準備
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昨日訪れた菱櫓の下には既に52台の消防車輌が並んでおり、やがて広い芝生の会場に消防ホースが引き込まれ、纏(まとい)や梯子(はしご)、鳶口(とびぐち)などの江戸時代の消防用具と筒先(つつさき)(ノズル)が並べられた。 |
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纏や梯子、放水銃など消防用具の準備 |
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写真下は長田分団の消防用具一式。長さ6mの梯子は手作りという。芝生の白い粒子は霰(あられ)である。 |
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江戸時代の消防組織・ |
火消 |
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加賀鳶はだか纏 |
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明暦3年(1657)の江戸の大火事「明暦の大火」は、死者10万人を超えるといわれ、江戸城本丸まで焼失したが、江戸時代を通じて幾度となく大火事が発生しており、消防は幕府にとって大きな課題だった。 |
一旦、火事が発生してしまうと、木造家屋が中心の江戸の町は延焼が早く、現代のような消防設備のない時代であったため、破壊消防という手法をとり、延焼を食い止めるために防火線上にある家屋を取り壊して鎮火を待つという消極的なものだった。この破壊工作に鳶口(とびぐち)を持った火消(ひけし)が活躍した。 |
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江戸の消防組織は大きく分けて「大名火消」「定火消(じょうびけし)」「町火消(まちびけし)」の3グループがあった。このうち「大名火消」は、江戸詰の大名が自藩邸の消火のために専属に抱えた火消(ひけし)のことで、守備範囲は藩の屋敷と江戸城付近であった。 |
「大名火消」で最も有名なのが、加賀百万石の「加賀鳶」で、今の東京大学のある本郷に本拠を構え、華麗で鯔背(いなせ)な装束で知られ、歌舞伎の「盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)(加賀鳶と町火消の喧嘩)」にも登場する。 |
ちなみに「定火消」は、旗本お抱えの火消のことで、火消役の下に与力(よりき)6人、同心30人、臥煙(がえん)(火消人足)100人を1組として組織されていた。全部で10組あって火消役が10人いたことから「十人火消」ともいわれる。 |
「町火消」は、町奉行大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の命令で享保年間(1720頃)に設置された町民たちの消防組織で、全部で48組あった。「い組」「ろ組」などいろは44組(いろは47文字のうち「へ」「ひ」「ら」以外の組)に「本組」「百組」「千組」「万組」の4組を加えて48組とした。 |
この48組をさらに1番から10番までの10グループの大組に分けて江戸町内の分担を決めていた。「町火消」で最も有名なのが「め組」。「め組」は大組では2番組に所属し、芝増上寺、神明町、芝浜松町付近が担当で、歌舞伎では「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)(め組と角力取(すもうとり)の喧嘩)」で「め組」が登場する。 |
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出初式の会場では、式典が始まるまでの間、「加賀鳶木遣りくずし」が会場に流れていた。 |
1)ハアーアーエーエー
加賀の鳶だよ百万石の
纏(まとい)振るにも火柱越えて
男伊達(おとこだて)なら命をかけて
※エンヤラヤ サノヨイサヨイナ
エンヤラヤレコノセー
アレワエンヤーヤラヤー
2)ハアーエー
衿(えり)にぁ加賀の鳶出初(でぞ)あと 出初の時は
勇み裸に梯子を立てて
夢の枕にゃあら吹流し
※(繰り返し) |
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3)ハアーエー
加賀の華だよ 知らせの半鐘
ジャン、ジャン、ジャンと鳴りゃ纏を持ちて
梯子鳶口気合を入れて
※(繰り返し)
4)ハアーエー
木遣り音頭に三団揃え
祝い祭や百万石の
心合わせて火事場の守り
※(繰り返し) |
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★☆★彡 |
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加賀藩では、五代藩主綱紀(つなのり)のときに江戸の防火組織が強化され、藩士の火消役のほかに92人の鳶職を雇って消防隊を編成した。加賀藩が有名になったのは、享保3年(1718)12月3日江戸本郷弓町の大火の際、幕府の定火消役の仙台兵庫の鳶と、火口(ひぐち)の先陣争いで大喧嘩になり、江戸町奉行大岡越前守らの裁きで加賀鳶が勝った事件である。 |
江戸の火事場を守っていた加賀藩では、江戸屋敷に詰めていた鳶たちが江戸末期から明治初期に流行した「江戸木遣り」を覚え、故郷の金沢に持ち帰って唄ったのが、この唄のはじまりであるという。 |
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消防式典
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金沢市内の全49分団の消防団員1300人が菱櫓を背景に整列。各分団の先頭には、纏と分団旗が掲げられている。全員制服制帽にゴム長靴と防寒衣を着用しているが、防水衣は身につけていない。 |
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菱櫓前に整列した消防団員たち
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中央の演台には紅白の幕が張られ、その後ろには消防関係者や一般見学者用のテントが張られている。テントの外にも見学者が並び、かなりの人出があったが、悪天候のため、観客は例年よりもかなり少ないという。 |
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平成19年金沢市消防出初式「消防式典」 |
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「子ども加賀鳶」と書かれた法被に豆絞りの捻り鉢巻をした少年たちが出初式の見学に来ており、寒いのでテントの中で式典を見守っていた。未来の「加賀鳶はしご登り」の後継者たちで、基本技から順に練習しているという。 |
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テントに避難した子供加賀鳶
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強風と雨霰(あめあられ)に晒されながら、午前10時前、予定時刻を待たずに出初式が始まった。国旗掲揚に始まる消防式典では、山出保(やまで・たもつ)金沢市長の観閲・訓辞・表彰、谷本正憲(たにもと・まさのり)石川県知事の祝辞と表彰、来賓の祝辞、干場謹二(ほしば・きんじ)石川県警本部長の万歳三唱などが行われた。 |
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分団旗と纏を持って整列
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地元では「日本一の出初式」と豪語するこの祭典は、今から340年ほど前の万治2年(1659)1月4日、第四代将軍徳川家綱(いえつな)が幕府の火消役(ひけしやく)の士気を高めるため、上野東照宮前で行ったことに始まる。 |
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明治3年(1870)金沢で初めて消防式典が開催されたときは、「押出」と呼ばれていたが、明治40年(1907)から「出初式」と呼ばれるようになったという。奇遇にも出初式となってから今年は100年の節目に当たる。 |
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山出保(やまで・たもつ)金沢市長が訓辞の中で、「郷土を愛する皆さんの心意気で、加賀鳶の伝統を守って欲しい。」と話していたのが印象的だった。 |
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功労者の表彰状を読み上げる |
谷本正憲 |
石川県知事 |
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式典の途中で風雨が強まり、私のポンチョも強風に煽られてボタンが外れ、カメラが濡れるなど大変だったが、誰も天候を気にすることなく、雨に濡れながら粛々と式典が進められた。しかし、来賓の挨拶などは、短く切り上げる配慮が伺えた。 |
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