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▼ 約2kmに及ぶ富士みちに並ぶ大松明と戸別毎に井桁(いげた)に組んだ薪(たきぎ)が燃え上がるにつれて、富士みちに紅蓮(ぐれん)の炎が広がり、街路灯が消されると、暗闇の道路の中央に浮かぶ一筋の炎がメラメラと川のように流れる幻想的な光景が現れた。夏の終わりを告げる炎の祭典にふさわしい壮大なページェント(野外劇)であり、吉田の火祭りの最大の見どころである。 |
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▲▼ 吉田の火祭りは、富士山の山じまいを告げるイベントでもあり、今年、山梨(富士北口)からの登山者は、7月1日から8月25日までに約22万人を数え、過去最多だった昨年に次ぐ賑わいだったという。 |
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▼ 富士みちに面する広場で、女性による富士山火焔太鼓の演奏が披露され、大勢の見物客を魅了していた。 |
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ひばなちる よしだひまつり やまじまい |
The closing of the mountaineering season, the fire sparking in the Yoshida fire ritual. |
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▲▼ 俳句では 「火祭」は秋の季語で、単に火祭といえば10月下旬に行われる京都鞍馬・由岐神社(ゆきじんじゃ)の「鞍馬の火祭」を指すが、冨士浅間神社の火祭に因む「吉田火祭」「吉田浅間祭」「火伏祭」「芒祭」も秋の季語となっている。 |
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▲▼ 世話人たちは、大松明の根元に水を掛け、崩落を防いでいたが、松明の全体に火が回って巻き締めていた荒縄が燃えると、束縛から解放された松明は一瞬にして崩落し、写真下のように火が周辺に飛び散る。そばにいると巻きこまれる恐れがあるので、注意が必要である。 |
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たいまつの にわかにくずる ひのまつり |
The fire ritual, the torch collapsed in a flash. |
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▼ 松明の崩落により火の海と化した場所は、輻射熱でとても熱く、手で顔を覆いながら足早に通りすぎる光景が見られた。富士みちの両側には、沢山の露店が並び、夜店巡りを楽しむ子供たちの喜々とした姿が印象的だった。 |
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▼ 金鳥居(かなどりい)のそばの松明は、点火時期が最も遅かったので、午後8時半になっても、まだ、立て札が燃えずに残っている状況だった。金鳥居南方の松明は、殆ど崩落してしまった様子を見通すことができる。今宵の取材は、この辺で切り上げることにした。 |
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やましまう ふじのきたざと ひのまつり |
The fire ritual, the northern village of Mt. Fuji closing the mountaineering season. |
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▼ 遅い夕食を取ってホテルに向かう途中、祭の現場では消防団員たちによる消火と後かたづけが行われていた。翌朝までに燃えかすの処理や清掃を終え、車を走らせるようにするには、大変な深夜労働であり、陰で火祭を支える人たちのご苦労に頭が下がる思いだった。 |
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撮 影
2009年9月26・27日
E-30 E-510
9-18mm 12-60mm
1230万画素 2,250枚 5.59GB
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日中の神輿2台による氏子中(うじこちゅう)の渡御が動であるとすれば、夜の火炎のページェントは静のイベントである。氏子たちが松明を持って走ったり、振り回したりすることはなく、夜は静かに松明の紅蓮の炎を見守るだけである。その間、御旅所では、2基の神輿の参拝が延々と続けられていた。 |
翌日の8月27日(木)は、2基の神輿が神社に還御(かんぎょ)する「すすき祭り」が行われる。しかし、殆どの見物客は26日の夜祭りに満足して帰るため、27日の祭礼は、完全に地元の祭りとなる。 |
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日本の祭り第126集 「吉田の火祭り」 |
撮影・制作 : 和田義男 |
平成21年(2009)9月8日 作品:第25作 画像:(大78+小19) 頁数:6 ファイル数:201 ファイル容量:48.1MB
平成12年(2000)〜平成21年(2009) 作品数:334 頁数:1,253 ファイル数:51,797 ファイル容量:7,053MB |
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しゅうかいの たかまがはらに こしむかう |
The portable shrine going to Takamagahara of autumnal atmosphere. |
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編集子の選ぶ傑作 |
高天原に向かう明神神輿
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食行身禄(じきぎょう・みろく)【寛文11年(1671)- 享保18年(1733)】は、日本の宗教家で富士講の指導者である。本名を伊藤伊兵衛(いとう・いへい)といい、伊勢国(現三重県津市)に生まれた。 |
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元禄元年(1688)に江戸で富士行者に弟子入りし、油売りを営みながら修行を積んだ後、享保18年(1733)富士山8合目付近にある烏帽子岩(えぼしいわ)で断食行を行い、そのまま入定(にゅうじょう)し、生き仏となった。 |
これがきっかけとなり、開祖長谷川角行(はせがわ・かくぎょう)とともに、富士講の信者の崇敬を集め、江戸八百八講といわれるほど江戸庶民の間で富士講が大流行した。富士講は、武士ではなく、庶民の信仰であり、娯楽であった。 |
このブームに乗って繁栄したのが上吉田宿の御師たちで、御師坊は最盛期には100軒を数えた。富士講は、三国一の富士山に登ることが大きな魅力だったが、積雪のため、シーズンは旧暦6月・7月の僅か2ヵ月に過ぎず、上吉田宿の人々は、その間に1年間暮らせるだけの収入を稼ぐ必要があった。日本最高峰故の厳しさである。 |
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昨年秋、東京都青梅市にある標高929mの武州御嶽山(ぶしゅうみたけさん)山頂に鎮座する武蔵御嶽神社(むさしみたけ・じんじゃ)の滝行を取材したが、こちらは現在も江戸時代と同様に御嶽講が存続しており、御師の宿坊が利用されている。現在、山上に26軒、山麓に6軒あり、登録神職は約60名、実質的に活動している御師は約40名いる。宮司も御師の中から選ばれるのは冨士浅間神社と同じである。 |
御嶽宿に比べると、上吉田宿は営業している宿坊は僅かに2軒だけで、御嶽山の御師のように冬場に檀家廻りをすることもなく、今は、江戸・明治期に栄えた栄光を偲ぶだけである。富士山は、首都圏から遠く、シーズンも2ヵ月しかない。また、吉田口から歩く人は殆どなく、車で富士スバルラインを利用して5合目まで上がり、そこから登山するルートが定着している。 |
武州御嶽神社は、JRやケーブルカーを利用すれば、年間を通じて老人や子供でも手軽に山頂まで登ることが出来、そのゴール地点に神社が鎮座しているという立地条件が今も繁栄している理由ではないだろうか。富士登山という素晴らしい観光資源を持つ富士吉田市だが、昭和39年(1964)4月に富士スバルラインが開通してからは、多くの登山客を車に奪われてしまったのは、大きな痛手だったといえよう。 〈 完 〉 2009.9.8 和田義男 |
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しゅうきみつ ゆいたいまつの ひいれかな |
Full of autumn atmosphere, lighting a big torch. |
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編集子の選ぶ傑作 |
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