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■ 三日目6月18日(火): ハワイ島 島内一周観光 ■ |
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▼ ハワイ島三日目は、唯一のオプショナル・ツアーの日。晴天に恵まれ、Jack's Tours の観光バスによる日本人向けハワイ島周遊ツアーに参加した。ガイドは日本からハワイ島に移住してきたベテランの日本人女性で、ハワイ島のことは何から何まで知悉している。朝6時半に朝食を取り、7時にバスが迎えに来た。 Jack's Hawaii
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地球の歩き方 |
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▲▼
ホテルを出発してから北上し、約11時間かけて時計回りにハワイ島一周500kmを走破してホテルに戻ってくるという、とんでもない欲張りツアーである。ハワイ島の面積10,432.5km2
は、四国の半分、岐阜県ほどの大きさなので、走り続けないと日帰りできない距離である。(笑) |
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コナ国際空港を左に見て通過 2013.06.18 07:40
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▲▼ ハワイ島には高速道路があるので、それを利用するとかなりの距離を稼げる。カイルア・コナから高速道路19号線に乗り、コナ国際空港を左に見て通過した後、溶岩砂漠を北上した。
高速道路とはいっても自転車も走行可能で、日本のような厳格な規格と規制があるわけではなさそうで、普通の道路よりも早く走れる道路という意味なのだろう。 |
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高速道路19号線コハラ・コーストを北上 07:49
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▲▼ ホテルを出たときは快晴だったが、天候はめまぐるしく変わる。空港を過ぎたあたりから曇りがちとなり、マウナ・ケアの裾野しかみえなかったが、午前8時前になると、幸運にも急に視界が晴れて、右手(東)にマウナ・ケアの山頂(4,205m)が見えた。 |
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車窓右(東)に姿を見せたマウナ・ケア(4,205m) 07:50
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▲▼
オアフ島は緑の島だが、ハワイ島は溶岩台地の島で、緑は沿岸部に見られるが、少し陸地に入ると、不毛の火山台地が延々と続いている。ガイドが溶岩砂漠だというのも頷ける。 |
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車窓左(西)には延々と続く不毛の溶岩台地 07:51
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しばらくすると、道端の溶岩に高速道路に向けて書かれた白い英語の文字が並んでいた。ガイドによると、いつの頃からか誰かが始めたらしく、恋人へのメッセージなどが書かれるようになったのだという。この程度の落書きならまだ許せるが、これ以上ひどくなると、大自然の景観を損なうので、日本では絶対に許されない行為だ。 |
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道路脇の愛のメッセージ
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▼ ハワイ島には、5つの溶岩台地があり、コハラ・マウンティン
Kohara Mountains
の溶岩台地が西海岸に接するコハラ・コーストは、リゾート開発が進み、高級ホテルや高級マンションが建ち並んでいる。特に、サウス・コハラ・リゾートエリアは、東にマウナ・ケア(4,205m)の絶景を楽しむことができる絶好の場所だ。 |
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しかし、カイルア・コナからかなり遠いのが難点と云える。ケアウホウ・リゾートエリアは、カイルア・コナに15分で行けるので、マウナ・ケアは見えなくても便利な方が良い。HIS
の担当者がケアウホウを勧めてくれた理由がよく分かった。 |
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ホテルを出て既に2時間近くになるが、未だにホテルに寄ってツアー参加者を拾い集めている。この地から参加する人たちは、出発が2時間遅い代わりに帰りも2時間遅くなる。 |
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高級住宅街とマウナ・ケア(4205m)/サウス・コハラ・リゾートエリア 08:50
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ハワイでは、年中道端に咲いているハイビスカス。あるホテルでツアー参加者を待つ間、庭に咲いていたハイビスカスを激写した。様々な色や模様があり、品種毎に名称があるが、黄色に赤が中心にあるこの花は、Hula Girl
といい、ハワイ州の州花となっている。同じハイビスカスでも赤いものなど色違いは多々あるが、ハワイ州の花は、この花だけだとのこと。 |
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ハイビスカスの和名を仏桑華(ぶっそうげ)というのは、今調べて初めて知ったが、いかにも仏教のお坊さんが命名したような面白味のない名称で、死語になっているのも頷ける。
(笑) |
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ハワイ州花 黄色と赤のハイビスカス
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コハラ・マウンティン(1,637m)山腹(南斜面)を走る 09:08
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コハラ・マウンティン Kohara
Mountains
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▲▼ コハラ・マウンティン(1,637m)は、ハワイ島ではかなり古い火山らしく、岩肌が風化して牧草に被われており、パーカー牧場では乗馬などが楽しめる。19号線は、コハラ・マウンティンの南の裾野を東に向かって走り、間もなく、最初の休憩兼観光地であるパーカー・ランチ
Parker Ranch (パーカー牧場)に着いた。 |
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ハワイ島北部に広大な土地を保有するパーカー牧場の店 09:33
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▲▼ ハワイ島北部に大きく広がるパーカー牧場は、全米でも屈指の最大級牧場。その歴史は200年以上で、全米で最も歴史ある牧場の一つだという。マサチューセッツの船員ジョン・パーマー・パーカー
John Palmer Parker (当時19歳)は、1809年にハワイ島に牧場を作って肉牛を生産しようとした奇抜な発想
が功を奏し、1
acre エーカー(
4047m2)単位で広大な土地を二束三文で手に入れ、牧場経営に成功した。
パーカー牧場の公式サイト |
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▼ コハラ・マウンティンという溶岩台地を牧草地に変え、ハワイ人の雇用機会を作って地域に貢献しながら一大産業を生み出した。現在はハワイ島の観光化にあわせて乗馬経験ができる観光牧場としても事業を広げ、パーカーランチ・ブランドの100%コナ・コーヒーを売り出すなど、多くの観光客に喜ばれている。 |
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しかし、パーカー牧場は、私には、アメリカ大陸を感じてもハワイ文化がひとつもないことが気になった。ハワイ人が土地を奪われ、白人が支配者
となっている現実に悲しみを覚えざるを得ない。私の泊まった高級リゾート・ホテルのシェラトン・コナもアメリカ資本なのだ。 |
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カメハメハ大王が創始したハワイ人による王朝は、アメリカ人のクーデーターによって8代で滅亡し、アメリカ合衆国のものとなった。アメリカン・インディアンはイギリス移民によって滅ぼされ、
アメリカ合衆国の居留地に保護されている。アオテアロアのマオリ王朝は、イギリス移民により滅亡し、ニュージーランドとなった。タヒチは、フランス人に滅ぼされ、フランス領ポリネシアとなった。オーストラリアのアボリジニーもイギリス移民の餌食になり、今はアウトバックと呼ばれる砂漠地帯に押し込められている。 |
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明治維新で白人の東洋侵略から難を遁れた日本人は、白人の真似をして帝国主義時代を走り続け、第二次世界大戦で敗戦国となったが、北方領土以外は白人による略奪や土地の収奪もなく、民主国家として存続することができたのは、奇跡としか云いようがない幸運だった。 |
現在、アフリカ大陸と共に環太平洋諸国のネイチヴ(原住民)たちが西欧列強国の白人の侵略を受けた帝国主義時代が終わり、日本以外の島々では、白人支配による平和な国々となっているが、ネイチヴたちの子孫は、どれほど悔しく思っていることだろう。この現実を直視すると、日本の平和は、日本人が守らなければならないことを強く感じると共に、平和呆けの日本人が沢山いることを憂える。閑話休題。 |
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マウナ・ケア山頂(4,205m)の
天文台群(北面) 09:42
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日本のすばる望遠鏡↓ |
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▲▼ マウナ・ケア山(マウナ・ケアさん)は、ハワイ島を形成する5つの火山のうちのひとつ。ハワイ語でマウナ・ケアとは「白い山」の意で、冬になると山頂が雪に覆われることから名づけられた。 |
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マウナ・ケアからの溶岩流は北西にあるコハラ山の南斜面を埋め、自身の西と南斜面は隣の活火山マウナ・ロアからの溶岩に覆われる。マウナ・ケアの標高は4,205mに達し、マウナ・ロアよりも35m高く、ハワイ諸島で最も高い火山である。 |
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隣のマウナ・ロアとは違い、山頂にはカルデラがなく、多数の噴石丘と火山砕屑物(かざんさいせつぶつ)や堆積物が乗っており、マウナ・ケアの山麓上部はマウナ・ロアより2倍ほど急な斜面となっている。 |
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マウナ・ケアの最高点であるプウ・ヴェキウは、多数の噴石丘のうちの1つであり、ハワイ諸島の最高点でもある。マウナ・ケアは、裾野にあたる太平洋の海洋底から測ると10,203mの高さがあり、エヴェレスト(8,848m)を抜いて世界で最も高い山である(海面からの高さはエヴェレストが世界一)。山全体の体積が非常に大きく、自重によって海底が押しつぶされ、徐々に低くなっているという。 |
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▼ マウナケア山頂付近は天候が安定し、空気が澄んでいることもあり、世界11ヵ国の研究機関が合計13基の天文台(マウナケア天文台群)を設置している。日本の国立天文台が設置した「すばる望遠鏡」もここにある。 |
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近年、マウナ・ケアへの望遠鏡の建設は、法的政治的論争の種となっている。地元の先住民と環境活動グループは、これ以上の望遠鏡の建設は、かなりの環境ダメージを引き起こし、偉大な文化的重要性を持つ地を汚すことになると抗議している。 |
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なつのそら てんもんだいの さんちょうに |
Summer sky,
astronomical observatories on the mountain top. |
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日本のすばる望遠鏡↓
マウナ・ケア天文台群 |
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▲▼
神話によると、マウナ・ケアの山頂は雪の女神ポリアフや多くの神々の住まう地である。ここは祈り、埋葬、子供の清め、そして伝統的天体観測にも重要な場所であるという。 |
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それに加えて、山頂地域は固有種の昆虫、ウェキウ・バグ
Nysius wekiuicola
の棲息地であり、開発による影響が懸念されている。この虫は、上昇気流によって山頂へと飛ばされてきた昆虫を食べる。 |
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不幸なことに、1995年以前に設置された望遠鏡で水銀がこぼれ、汚水の投棄が行われる事件が起こった。ハワイの法廷で10年以上にわたって審議され、2007年、第三巡回裁判所は適切な管理計画が承認されるまでマウナ・ケアでの追加開発を停止する判決を下した。しかし、現在もいくつもの望遠鏡の建設計画が進行中であるという。 |
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宇宙の神秘を解明する学術活動と自然保護の双方ともに重要であり、両立できる方法を見いだして欲しいと思うが、汚染事故の対応のまずさが学術グループの無知と傲慢さを示すものであり、残念に思う。 |
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♪ アカカの滝
Akaka
Falls |
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▼ アカカ滝州立公園にあるハワイ最大のアカカの滝は、ヒロの北方18kmを流れるコレコレ川 Kolekole
River
(赤い川)の落差129mの滝で、Akaka とは、割れ目という意味。
この滝を見るには、駐車場から1周600mのトレイルを歩かねばならず、時間がないので行けなかったのが残念。 |
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● この頁に流れるBGM
は、Me Ke Aloha Nona - Hawaiian
Wedding Song - Drums Of The Islands - Akaka Falls - Akaka Falls by Genoa
Keawe の5曲。知る人ぞ知るハワイアンの名曲 Akaka
Falls は、BGM
の4曲目(演奏)と5曲目(歌)に収録している。 |
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Malihini ku`u `ike `ana |
よそから来た人がいました |
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Kau nui aku kahi
mana`o |
大切なことに気付きます
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Kahi wailele `o `Akaka |
アカカの滝 |
A e `iki uhi aku i ka nani |
美しさは圧倒するのです |
Kau mai lâ i luna |
滝のてっぺんから |
I `uka i puîa |
甘い匂いのする大きな滝 |
Lele hunehune mai lâ i nâ pali |
優しく水が流れていきます |
I ke `ala me ke onaona |
素敵な香りです |
Lele hunehune mai lâ i nâ pali |
優しく水が流れていきます |
I ke `ala me ke onaona |
素敵な香りです |
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古い町並みの残るヒロ ・ダウンタウン/ ハワイ島東岸 10:48
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▲▼
午前11時前にヒロに着いたが、昼食には早いので、町中を通過した後、レインボー・フォールズに向かった。
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約4万人が暮らすヒロは、ハワイ島東岸のヒロ湾に広がるハワイ郡の郡庁所在地で、ハワイ島最大の地方自治体地域である。ホノルルに次ぐハワイ諸島第二の港湾都市であり、リゾート地としても知られている。 |
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明治元年以降、日系人が早くから移住した町で、現在でも日系人が多く居住し、市内には日本庭園で知られるリリウオカラニ公園やホノルル公園がある。 |
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芝生の校庭に巨大なバニアン・ツリーのあるヒロ小学校 10:50
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レインボー・フォールズ Rainbow
Falls
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レインボー・フォールズは、ハワイ島東岸のヒロの西端を流れるワイルク川
Wailuku River
が崩落してできた滝で、太陽光線の関係から早朝によく虹が出ることが名称の由来となった。落差24mとそれほど大きな滝ではないが、大量に流れ落ちる水は二つの流れとなって、直径約30mの滝壺に落下する。 |
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レインボー・フォールズ展望台/ハワイ州立公園 10:55
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ハワイ列島は、亜熱帯高圧帯から赤道低圧帯へ恒常的に吹く北東の貿易風
Trade Wind
を受け、ヒロは、1年の6割が雨の日となるため、水量が豊富で、農産物が良く育つところである。そのため、マウナ・ケアやマウナ・ロアの西に位置するコナなどのハワイ島西岸は、雨が少なく、偏西風の卓越する日本の日本海側と太平洋側との関係によく似てる。 |
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やや水量の少ないワイルク川のレインボー
・フォールズ(ワイアヌエヌエ滝)
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▲▼
ハワイ島東岸は、雨が良く降ることから、アカカ・フォールズやレインボー・フォールズはじめ、緑の木々に囲まれた水量豊かな滝が随所に見られるという。 |
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レインボー・フォールズの見学を終えると再びヒロの街に入り、車窓から街並みを見学した。ヒロは、度々津波の被害に遭っている。民間伝承として、津波が山の上を越したという話しが残っているという。 |
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1960年のチリ地震では、本震15時間後に10.5mの津波を観測し、61名が死亡した。警報は出されていたが、津波は南東方向だけに来るため自らの場所は安全だと思い込んだ見物人に多くの犠牲者が出たという。チリ地震では津波の波長が極めて長かったため、津波は後ろからも回り込んで人々を飲み込んだという。 |
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ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年(明治9年)以降にその数が増え始めた。中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かったという。 |
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日本からの移民は1868年(明治元年)の元年移民から開始され、1902年(明治35年)にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年(大正14年)の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡っている。移民の多くは契約期間満了後もハワイに定着し、日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げていった。 |
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ハワイのサトウキビ畑で過酷な労働を強いられた日本人移民を描いた絵
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▲ 1885年(明治18年)に日布移民条約が結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになると、政府の斡旋した移民は官約移民として、1894年(明治27年)に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った。
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「官約移民は3年間で400円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われたが、その実態は人身売買に類似し、半ば奴隷に近かった。労働は過酷で、現場監督(ルナ)の鞭で殴る等の酷使や虐待が行われ、1日10時間の労働で、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額であった。 |
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太平洋戦争の辛酸を経て、大変な苦労を重ねた日本人移民は、現在、日系アメリカ人として定着している。中国人は、チャイナ・タウンを設けて移民先でも交わることはないが、日本人は、ハワイで現地人と交流し、アメリカを祖国として社会的地位を得ている。ハワイは就職先が少なく、高等教育を受けた子弟は、アメリカ本土に就職することが多いという。 |
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▼ モンキーポッド(学名:
サマネア・サマン
Samanea saman
)は、熱帯アメリカ原産のマメ科ネムノキ亜科ネムノキ属の常緑高木で、別名、レインツリー、アメリカネムノキ(亜米利加合歓木)とも呼ばれる。 |
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マメ科の植物で、メキシコからペルー、ブラジルにかけて分布しているが、広く熱帯や亜熱帯の各地に移植されて帰化している。ハワイ州では侵略的外来種に指定されている。高さは約25m、枝張りは40mほど。 |
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外観は、枝を左右対称に大きく広げた形をしている。シダに似た形
の葉は、日の出とともに開き、午後になると閉じる(就眠運動)。降雨前にも葉が閉じることから、レインツリー
rain tree と呼ばれる由来となっている。 |
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ポッド
pod
とは豆のサヤのこと。猿の好物だからモンキー・ポッドと呼ばれるようになったという。 |
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至る所にあるモンキーポッド(アメリカネムの木) / ヒロの海岸 11:14
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▲▼
「この木なんの木気になる木」というコマーシャルソングで知られる日立の樹(ヒタチノキ)は、オアフ島モアナルア・ガーデンパークに生えているモンキー・ポッドである。ホノルル滞在の際に撮影しようかと検討したところ、定期バス路線が近くを通っているが、乗り換えが必要で、高速道路で下車しなければならず、例によってバス停の表示もない劣悪な環境にあり、タクシーで往復するには費用が掛かるので、断念した。 |
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日本人観光客の多くは、ヒタチノキを見に行くが、現地の人は、「何処にでもある木をわざわざ見に行く気がしれない」と、不可解な日本人観光客の行動を白眼視しているそうな。(笑) |
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ちなみに、当初、日立の担当者はハワイ島にやってきて、写真上のヒロのモンキー・ポッドを候補にしたらしいが、後ろに椰子の木が生えていて、邪魔だと云うことで採用されなかったという。そう言われてみれば、椰子の木が上に出ていて、美しくない。(笑) 日立の樹公式サイト
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オアフ島モアナルア・ガーデンパークにあるヒタチノキ(日立の樹)
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カメハメハ大王像 King
Kamehameha Statue
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カメハメハ大王像は、全部で4体あり、そのうちハワイには3体ある。オアフ島ホノルルのアリイオラニ・ハレ(ハワイ州最高裁判所)前に立つ銅像(中央)が有名だが、その像は2代目で、初代(左)は、カメハメハ大王の生誕地であるハワイ島北端の町ハヴィ
Hawi にある。 |
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「キャプテン・クックによるハワイ発見100周年」を記念して造られたオリジナルの大王像は、船で輸送中に海に沈んでしまい、急遽作り直され、1883年に奉納されたのがホノルルの像。その後、沈没船から引き揚げられた初代像は、1912年に大王の出身地ハヴィに飾られた。 |
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▲
1997年、ハワイ島ヒロに4代目の像(右)が建てられた。3体とも左手に槍を持ち、右手を大きく開いて前に差し出している
。槍は平和を象徴し、右手はハワイの繁栄を表現しているという。着用順にマロ Malo
(褌)・キヘイ Kihei(黄色い羽毛のケープ)・肩掛・帯
Sash ・マヒオレMahiole (黄色い羽毛の王冠)という装束は同じだが、ホノルルとヒロの像は、金一色となっている。初代のみ肩掛と帯に赤いストライプが入る。
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絶滅したハワイ・マモ |
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▲
ちなみに、黄色は王しか使えない色で、絶滅してしまったハワイ・マモ
Hawai'i Mamo
という小鳥の羽毛で作られたもの。当時の職人は、数本むしっただけで、放鳥したそうだが、白人による乱獲
や白人が持ち込んだ外来鳥類から広がった鳥マラリアの感染などにより絶滅してしまったという。 |
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マモは、別の解説書ではオオ
Hawai'i
'Ō'ō
/
Moho nobilis
ともいうらしく、ハニークリーパー
honeycreeper
と呼ばれるハワイミツスイ類(ハワイミツスイ亜科:Drepanidinae
)
に属する鳥で、近代まで生存が確認されていた41種のうち、17種がすでに絶滅し、13種が絶滅寸前にある状態だという。わずか3種だけが比較的安定して生息しているといわれている。 |
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1997年に設置された4代目のカメハメハ大王像 / ヒロ 2013.06.18 11:14
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3代目/ワシントンD.C.(資料) |
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大王像の建造の経緯を詳しく調べてみると、初代は1880年にカラカウア大王の命により、大王の友人でありハワイアンの血を受け継ぐイタリア在住アメリカ人彫刻家 Thomas Gould に約1万ドルで依頼したもの。 |
パリでひな型が作られ、ドイツで鋳型に流し込まれて完成したが、ヨーロッパからホノルルに送られる途中、フォクーランド諸島沖で船火事により沈没したが、幸い鋳型がまだ残されていたため、保険金が下りるとすぐに2代目が作られ、無事ホノルルに到着して奉納された。 |
2代目がホノルルに着いて数週間後、初代がホノルルに到着した。というのは海から引き上げられてフォークランドのくず置場に放置されていた像を英国の船長が見つけ、カラカウア大王に売却したからである。この像は予言師の意見を取り入れて1912年にハヴィに安置された。 |
3代目は、オリジナル像の鋳型を使ってローマで作成され、1969年、モロカイ島でらい病患者のために尽くしたデミアン神父像とともにワシントンD.C.の国会議事堂にある国立彫像ホールに飾られた。(写真左) |
4代目は、カウアイ島のプリンスビル(株)の寄贈で1963年に鋳造され、カウアイ島に置かれることになっていたが、地元民がカウアイ島だけはカメハメハ大王に征服されたのではなく、平和的に従ったとして、設置に猛反対し、長期にわたって紛糾したが、1997年に運送費と工事費に10万6千ドルをかけてハワイ島ヒロに設置して決着した。 |
これら4体の銅像は、同じ鋳型から造られたものと思われるが、表情など、細部にわたっては微妙に違っている。 |
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拡大写真(1800X1000)292KB |
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カメハメハ大王の肖像画がオアフ島ホノルルのイオラニ宮殿に残されているので、比べてみると、銅像は、本人に全く似ていない。作者は、側近にいた美男子をモデルにしたものといわれている。 |
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カメハメハ I 世(カメハメハ大王)の肖像画 /
イオラニ宮殿(オアフ島ホノルル)
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ビッグアイランド・キャンディーズ Big
Island Candies
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トイレ休憩兼ハワイ島のお土産購入のため、ビックアイランド・キャンディーズに寄った。ここのクッキーは秀逸で、日本まで手荷物で持って帰るのが大変だったが、その価値はある。また、ビッグアイランド・ブランドで、100%コナコーヒー
100% Kona Coffee が金色のパッケージで売られていたが、これもお薦め。ちなみに、ビッグ・アイランドとは、ハワイ島のこと。
ビッグアイランド・キャンディーズ |
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お土産のクッキーが秀逸のビッグアイランド・キャンディーズ / ヒロ 11:40
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ヒロの海辺のレストランで昼食を取った。道路のむこう側に広がる水辺は、ヒロ湾に通じる入江となっており、椰子の葉陰で憩いのひとときを過ごす家族連れや海に飛び込んで遊びに興ずる子供たちの姿があった。いかにもハワイの田舎らしい長閑な風景である。 |
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パノラマ写真(2400X1150)520KB |
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拡大写真(2600X1900)914KB |
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