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▼ 1989年6月4日(日曜日)人民解放軍が学生のデモ隊に対して発砲し、無関係な市民を含めた数百人〜約1万人もの犠牲者が出たとされる天安門事件で知られる天安門広場は、中華人民共和国北京市の故宮天安門に隣接し、南北880m・東西500mにわたる世界最大の広場といわれている。敷石は花崗岩。北は北京随一の大通りである長安街が位置し、その反対側に紫禁城(故宮)の入口である天安門がある。
広場の中は、北から人民英雄紀念碑、毛主席紀念堂、正陽門(前門)が設けられ、広場の西側には人民大会堂(全国人民代表大会議事堂)、東には中国国家博物館(旧・中国歴史博物館および中国革命博物館)がある。これは太陽の昇る方角を過去、沈む方角を未来に比喩したものといわれる。
周囲の歩道の敷石にまじって長方形の鉄板が敷かれている部分があり、下に水を流せる架渠構造になっている。大規模な集会に際し鉄板を外して周囲を天幕で覆い、臨時の御手洗として使用される。1969年に、中ソ関係の悪化に伴い、北京地下城という避難壕が作られた。 |
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観光客で賑わう天安門広場 2012.06.30
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巨大な中国国旗が翻る広場 |
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▼ 中華人民共和国の国会にあたる全国人民代表大会が開かれる「人民大会堂」の命名者は、中国建国の父・毛沢東。碑文はケ小平が揮毫している。着工は1958年11月、30,000人の労働者を動員し、翌年9月までのわずか10箇月で完成したという。 |
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天安門広場から人民大会堂を望む |
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記念撮影 |
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▼ 毛主席紀念堂は、天安門広場にある毛沢東の廟で、中では防腐処理された毛沢東共産党初代主席の遺体を観覧できるようになっている。入口の「毛主席紀念堂」の金文字の彫刻は華国鋒次代主席の揮毫という。 |
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毛主席紀念堂 |
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正陽門は、天安門広場の南に位置する北京の城門で、前門とも呼ばれることもある。500年以上の歴史があり、中華人民共和国全国重点文物保護単位のひとつ。 |
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天安門広場から正陽門を望む |
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中華人民共和国の北京市東城区に位置する天安門は、世界文化遺産の紫禁城(故宮)の正門。楼上で毛沢東が中華人民共和国の建国宣言を行い、中華人民共和国の国章にもその姿が描かれるなど、中華人民共和国の象徴のひとつとされる。
最初の城門は、紫禁城を建設した明の永楽帝時代の1417年に建設された「承天門」だったが、1457年に落雷で焼失し、1465年に再建されたものの1644年の李自成の北京攻撃によって明王朝が滅亡した際に再度焼失。現在の門は清の順治帝時代の1651年に再建されたもので、このときに現在の天安門という名に改名されたという。 |
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巨大な初代中華人民共和国主席・毛沢東の肖像画が掲げられている天安門 |
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巨大な楼門 12:54 |
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天安門の裏側 |
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天安門をくぐり、端門を通ると紫禁城の正門に相当する南門「午門」に至る。ここまでは無料で入れるが、午門を通って故宮博物館に入るには、60元の入場料が必要。
この門の名称は、紫禁城からして午(うま)の方角、つまり南の方角にある事から名付けられた。この門は、コの字型に両翼がせり出した独特の形をしている。
かつてこの午門に囲まれた広場では、官吏が午前4時に皇帝を遥拝することになっていた。百叩きの刑などの刑の執行も行われた。映画「ラストエンペラー」で生母の死を知った溥儀が外に出ようとして陳凱歌の演じる門番に止められたり、溥儀に紫禁城から追放された宦官(かんがん)達が泣き叫んでいたのもこの場所である。
当時、既に清朝は滅び、中華民国の時代となっていたが、形式的上この門の内側は清朝のままであった(正確には太和殿等のある外朝部が中華民国の領域で、内朝部が清朝のままであった)。 |
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紫禁城(故宮)の正門に相当する午門 |
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ここから入場料をはらって紫禁城(故宮)に入る |
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▼ 紫禁城(しきんじょう)は、故宮(こきゅう)とも呼ばれ、中華人民共和国北京市に所在する明清朝の旧王宮である歴史的建造物。「北京と瀋陽の明・清王朝皇宮」の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されている。面積は
725,000u
あり、世界最大の木造建築群である。別称の故宮とは「古い宮殿、昔の宮殿」という意味で、現在は故宮博物院という博物館になっており、一般公開されている。 |
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紫禁城(故宮)の鳥瞰図 / 資料 |
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紫禁城(故宮)配置図 / 資料 |
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元がつくったものを明の成祖永楽帝が1406年から改築し、1421年に南京から北京へ都を遷してから、清朝滅亡まで宮殿として使われた。
1644年の李自成の乱で明代の紫禁城は焼失したが、李自成の立てた順朝を滅ぼし北京に入城した清朝により再建され、清朝の皇宮として皇帝とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。 |
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午門を通り太和門に向かう |
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1908年12月に、西太后が光緒帝の後継者として愛新覚羅溥儀を指名したことにより、溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝かつ紫禁城に居を構える最後の皇帝となった。
1911年10月に辛亥革命が起き、袁世凱の求めを受けて1912年2月に溥儀は退位したが、中華民国臨時政府の優待条件として溥儀とその一族は、紫禁城の内廷での居住を許された。
しかし、1924年10月の馮玉祥による北京政変の際、11月5日を以って溥儀を初めとする皇族への紫禁城退去が通告された。その後は故宮と呼ばれ、ルーヴル美術館などの例に倣い、1925年10月10日に博物館として一般公開された。1949年、中国共産党指導者の毛沢東は、天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。 |
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太和門から午門を振り返る |
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巨大な午門をくぐると広々とした空間に出る。内金水河(ないきんすいが)を渡り、その広い空間の先にある門が太和門(たいわもん)である。明・C帝国の最も格式高い式典場へと続く太和門は、紫禁城の門の中で最高の格式のものだった。現存するのは、C末の火災後、光飼N間の1889年に再建されたもの。 |
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最高の格式を持つ太和門 |
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▼ 太和殿は、明清代における王宮であった紫禁城の中心を構成し、皇帝の即位、皇后冊立などの重要な儀礼が実施される場である。皇帝権力を象徴するための意匠が各箇所に散見され、民間建築との差異が際立たされた設計となっている。俗称は金鑾殿。
太和殿は三層の漢白玉による石台の上に建築されている中和殿、保和殿と合わせて三大殿と称される。三大殿東側の文華殿、西側の武英殿を加えたものを外朝と称する。三大殿は紫禁城の中心線上に位置し、太和殿内部の玉座がその中心線上にある。 |
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太和門を通って太和殿へ向かう |
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なつのてん きいろがわらの こきゅうかな |
Summer sky, Kokyu the old palace of yellow roof tiles. |
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太和殿及び太和殿広場の全景 |
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風格のある太和殿 |
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煌びやかな装飾が印象的な太和殿 |
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皇帝の象徴であった黄色瑠璃瓦 |
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太和殿の玉座は、軒轅宝鏡という金属球がその真上に設置され、皇帝以外の者が座った瞬間に落下してその不埒者の頭蓋骨を粉砕するという
言い伝えがあったという。そのため、辛亥革命の後に皇帝を自称した袁世凱は、わざと位置をずらし、その名残は今も残っているという。
映画 The Last Emperor
のエンディングで、ガイドが玉座の目の前まで観光客を引率してくるシーンがあるが、
残念ながら実際は堂内の入場は許されず、見学は入口から中を覗くだけである。 |
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太和殿の玉座 / 資料 |
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太和殿の玉座 / 撮影:和田義男 1996.03.13 |
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▼ 中和殿は、太和殿の裏(北)にある四方が24mの正方形の建物で、太和殿で行われる大典の準備をする場所として建てられたもの。明代には当初華蓋殿(かがいでん)、後に中極殿(ちゅうぎょくでん)と称された。明代の落雷の後、1441年に再建されたものが現存しているという。 |
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祈年殿の内部 |
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▼ 保和殿は、中和殿の後に位置し、間口50m、奥行25mあり、皇帝が礼服を着替えるために造られた。除夜や元宵の際の宴会場としても使われ、1789年以降は、科挙の最難関試験会場・殿試の場所になっていた。 |
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二重屋根の保和殿 |
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保和殿の玉座 |
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▼ 乾清門は、内廷の正門として使用されていたもので、この門から奥は、皇帝のプライベートスペースになるので、皇帝や皇后、宮女、宦官しか入れなかった。門の左右に防火用水の水かめとして用いられていた大きな青銅の鉢が10個配置されている。 |
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内廷の正門として使用されていた乾清門 |
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▼ 北に行けば、神武門に至る。紫禁城の北の入口がこの神武門。1420年の創建で、初期は玄武門と呼称されていたが、清の時代に再建され、こう呼ばれるようになった。
巨大要塞の紫禁城を囲う人工壕は、
壕というより河川に等しい。これを渡り、道路を挟んで北に見えるのが景山公園。皇帝が故宮を一望するだけのために造られた人工の山だという。 |
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故宮博物院の扁額が目に付く神武門 |
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▼ 紫禁城の周囲を総延長3,557m、幅52m、深さ2mの筒子河(とうしが)(別称「金水河」(きんすいが))と呼ばれる濠が巡らされている。この濠の掘削で出た土を盛って景山公園ができたという。 |
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満々と水を湛える筒子河(金水河) |
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景山公園から見た紫禁城 / 撮影:和田義男 1996.03.13 |
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