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トレッキングを終えた後、リッフェルベルク駅から登山電車に乗ってツェルマットに戻り、昼食後、村の中を散策した。マッターホルンの登山基地として発展してきたツェルマット は、スイス・アルプスの谷間を北流するマッターフィスパ川 Matter Vispa に沿って開けた標高1,620m、人口3,700人ほどの細長い村である。 |
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18世紀頃からスイスのリゾート地として名が知られ、小さな村に120ものホテルが軒を連ねる。環境保護のため、排ガスをまき散らすガソリン車に代わって、電気自動車が主な交通手段となっている。 |
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メインストリートを行く観光馬車 |
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ツェルマットの目抜き通りは、駅前を南北に走るバーンホフ通り Bahnhof strasse 一本だけなので、2時間もあればゆっくり歩いて回れる。駅前から観光馬車が出ている。 |
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バーンホフ通りの途中、アイベックス* Ibex の一種でシュヴァルツハルスと呼ばれる山羊(やぎ)を追う牧童たちに遭遇した。体毛が胴体の真ん中で白と黒に分かれているこの山羊は、ヴァリアス州でしか見られないという。 |
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*アイベックス:後ろに曲がった大きな角を特徴とする山羊の総称。 |
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山羊を追う牧童たち |
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山羊の集団移動は、ガイドブックにも紹介されているが、ツェルマットで実際に出会ったのは幸運である。これは本物の山羊追いであり、観光のアトラクションではない。 |
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道草を喰っている山羊 |
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山羊に道を譲る人 |
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なつまひる そんどうわたる やぎのむれ |
Midday summer,
a pack of goats
crossing
the village road. |
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駅前からバーンホフ通りを北に歩いて行くと、10分ほどで教会と市庁舎のある小さな広場 Dolf Platz に至る。 |
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教会の内部 |
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撮影:沖本陽子 |
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広場西側(川と反対方向)のホテル・モンテ・ローザ Monte Rosa の通りに面した壁に、マッターホルン初登頂を果たしたウィンパーのレリーフがある。レリーフには、ドイツ語と英語で次のように書かれている。 |
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エドワード ウィンパー 1840 - 1911(天保11年 - 明治44年)
1865年(慶応元年)7月14日、彼は仲間とガイドと共にこのホテルを出発し、マッターホルンの初登頂に成功した。 |
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ウィンパーのレリーフ |
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教会北側の道路を川の方に下ると、裏手の墓地にマッターホルンなどスイス・アルプスで命を失ったクライマーたちの墓や慰霊碑がある。これまでにマッターホルンを目指した500人もの命が失われており、ピッケルなどをあしらった登山愛好者らしい墓が残されている。 |
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写真上の赤い花とピッケルの墓は、1958年(昭和33年)5月19日ニュー・ヨーク・シティで生まれたドナルド・ステファン・ウィリアムスさんのもので、1975年(昭和50年)7月23日ブライトホルン BREITHORN において登ることを選択し、落命したことが英語で記されている。 |
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その左の墓は、ノース・ウェールズ州のデビッド・ロビンソンさんの記念碑で、「25歳という若死は、1976年(昭和51年)12月28日マッターホルン北壁の登頂に成功したのち、ヘルンリ稜を下りているときに起こった」と英語で記されている。 |
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二人の遭難 |
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ピッケルを背負ったキリストとエーデルワイス |
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ぴっけるや はかよりみあぐ なつのやま |
An ice ax, looking up
the summer mountains
from the grave. |
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教会の北側に地元の人々が眠る墓地があった。綺麗に手入れされた墓には色とりどりの美しい花が植えられており、教会を中心に先祖を敬う人々の敬虔な暮らしぶりが想像される。 |
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教会裏手のクライマーたちの墓のすぐ東を流れるマッターフィスパ川に架かる橋が、ツェルマットで最高のビューポイントである。川の上流、村の南方に聳える孤高の秀峰を仰ぎ見ると、日が西に傾き、逆光気味の山容の東壁に定番の旗雲が発生していた。川端には手をつないで歩くカップルの姿があった。 |
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マッターフィスパ川とマッターホルン |
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秀峰を仰ぎ見た後、川の西岸を下ると、墓地の北方に古い穀物小屋が残っている路地がある。小屋の床下に鼠が上がれないように石の円盤でできた鼠返しが取り付けられている。 |
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ねずみ返しの穀物小屋 |
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かぜすずし ねずみがえしの こやのみち |
Refreshing winds,
an alley of sheds
with rat guards. |
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円盤の上に小屋が建つ |
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調べてみると、日本でも熊本県八代市で発掘された鼠返しがある。高床式倉庫の床を支える柱の根元に石の円盤を取り付けたもので、ツェルマットのものとよく似ている。日本の方はやや楕円形で、円盤の中心に柱を通すための正方形のほぞ穴があけられている。 |
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バーンホフ通りを駅に向かって北進すると、左手(西側)のアルパイン・センター(山岳ガイド協会)の奥に山岳博物館がある。写真撮影が許されていることを確認して入館し、ほぼ全ての資料をカメラに収めることができた。 |
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山岳博物館 |
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博物館には、ウィンパーの娘エセルから寄贈された肖像画が掲げられ、その前に彼が愛用していたピッケルとザイルが無造作に置かれている。当時のピッケルは杖のように長い。日本であれば、ガラスケースに厳重に保管されているところだろうが、この博物館は受付の女性一人で誰も監視しておらず、治安の良さが伺われた。 |
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ウィンパーの肖像画と愛用のピッケルとザイル |
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イギリス人エドワード・ウィンパー(25歳)は、7人のパーティを組み、1865年(慶応元年)7月13日ツェルマットを出発、尾根に一泊後、翌14日ヘルンリ稜から登坂し、昼過ぎにマッターホルンの初登頂に成功した。不運にも下山途中の転落事故で4人の命が失われたが、ウィンパーと2名のガイドは無事に生還した。 |
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同行者3名:チャールス・ハドソン牧師(死亡)、フランシス・ダグラス卿(死亡)、ダグラス・ロバート・ハドウ(死亡)
ガイド3名:タウグヴァルダー父子(ツェルマット)(生還)、ミッシェル・クロ(シャモニー)(死亡) |
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7人のマッターホルン初登頂者たち |
マウスカーソルで画面のどこかをポイントすると説明が現れます。
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下山途中の事故は、登山経験の浅いイギリス人が足を滑らせて4人が滑落したもので、とっさに踏ん張った残り3人との間のザイルが切れ、4人はそのまま氷河に消え去った。 |
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ザイルで結ばれた遭難者4人とザイルで結ばれた生還者3人(ウィンパーとガイドのタウグヴァルダー父子)をつないでいたザイルは、旧式の細いザイルで、強度不足から切断したことが判明し、地元のベテラン・ガイドのタウグヴァルダーが何故細いザイルを使ったかが問題となり、フィスプ裁判所で審理されたが、無罪となった。しかし、非難の声は収まらず、タウグヴァルダーは、逃げるようにしてアメリカに渡ったという。 |
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ツェルマットの墓地には、初登頂で犠牲になった3人の墓がある(1名は遺体を回収できなかった)。 |
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マッターホルン初登頂で生還した3名と切れたザイル |
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山岳博物館には、偉業を成し遂げて生還した3人の写真の下に、4人の命をつなぎ止めることができなかった「切れたザイル」が展示されており、「ダグラスとタウグヴァルダー間で裂けたザイル」と日本語の説明がある。 |
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この事故は、「登頂以上に無事に下山する対策を立てることが大事である」という教訓を生んだが、その後も植村直巳さんのような悲劇が続いているのは残念なことである。 |
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ツェルマットの夕べ |
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夏のスイス・アルプスの夜は長い。日中、暑かった谷底の村も、日が落ちると急に涼しくなる。この夜は、生ビールで喉の渇きを癒し、ミート・フォンデュ(コンソメスープを使ったスイス風しゃぶしゃぶ)を楽しんだ。 〈 続く 〉 |
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スイス夏の旅〈後編〉 |
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パブでくつろぎのひととき |
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撮影 2006年7月8〜10日
★★★
《 OLYMPUS E-330 E-500 》
ZUIKO 11-22mm 14-54mm
SIGMA 55-200mm
800万画素
4,520枚 7,170MB
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編集後記 |
今回は、素晴らしい天候に恵まれた幸運な旅で、スイス三名山を全て激写することができ、満足度は過去最高だった。去年の秋に旅したカナディアン・ロッキーは、未開の原野がワイルドに広がる光景だったが、スイス・アルプスは狭い国土の隅々まで開発され尽くされた中での自然との調和が美しく、同じ山岳の景観でもその差は歴然としている。 |
スイス人はとても勤勉で、あの緑の草原は日々の手入れの積み重ねによるものである。牧場ではスプリンクラーによる散水も行われ、瑞々しい山野の景観が保たれている。塵一つ落ちていない風景は、コミュニティの連携が十分にとれている左証だろう。スイス観光にリピーターが多いのも分かる気がする。 |
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たった1日のツェルマットの観光に4頁を割いてしまった。長い人生の中でもこれほど中味の濃い一日はそんなに多くはないだろう。この日だけで800万画素1700枚2,650MBを撮影している。添乗員の小川さんによると、過去20回のスイスツアーで、今回ほど素晴らしい日はなかったという。 |
パノラマ写真を多用したので、スイス・アルプスの雄大な景観を十二分に表現でき、皆さんに満足していただける作品に仕上がったと思う。後編もスイス・アルプス・ツアーの決定版となるよう、夏休みを活用して、気合いを入れて仕上げたい。乞うご期待! 2006.8.9 〈 続く 〉 |
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