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■ 5日目:イズミール 〜 エフェソス観光 〜 パムッカレ観光(パムッカレ泊) ■ |
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▼ 5日目の4月15日(木)は、朝8時にホテルを出発し、イズミール南東方75km(バスで1時間)のエフェソスで聖母マリアの家、エフェソス遺跡、アルテミス神殿跡を観光。シリンジェ村で昼食後、エフェソス東方215km(バスで3時間)のパムッカレでヒエラポリス遺跡と綿の城(石灰棚)の散策を楽しみ、夕刻パムッカレのホテルに一泊した。 |
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トルコ・ツアーのコース
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資料:クラブツーリズム |
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エフェソス Efes |
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▲ トルコの旅もはや半ばに入り、時差呆けも解消して、快適なバスの旅が続く。アナトリア(小アジア)の南西部に位置するエフェソス Ephesos は、トルコ語でエフェス Efes と呼ばれ、女神アルテミスの崇拝で知られるギリシャ古代都市である。世界文化遺産のエフェソス遺跡は、トルコでは世界最大の遺跡だと喧伝されている。かつてはエーゲ海の港湾都市だったが、土砂の堆積により、現在は海岸から離れた場所にある。 |
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聖母マリアの家に到着/エフェソス 2010.4.15 09:30
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聖母マリアの家 Meryem Ana Evi |
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▲▼ 最初に、エフェソス遺跡の南方7kmに位置するブルブル山の聖母マリアの家の行った。聖母マリアの死に関しては、聖書は何も伝えておらず、その最期の場所は謎とされていたが、18世紀末にアンナ・カテリーナという尼僧が訪れたこともないエフェソスの石造りの家にマリアが住んでいたと預言し、探索の結果、預言どおりマリアが晩年を過ごした家が見つかったという。 |
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▲▼ 駐車場のそばに郵便局と売店があり、その間を通って山道を奥に進むと、オリーブの木陰の聖母マリアの銅像が両手を広げて遠来の客を優しく迎えてくれる。その奥に質素な煉瓦造りの「聖母マリアの家」がある。3世紀頃、キリスト教徒たちが商取引していたバシリカを教会にしたもので、その後の調査で、家の土台は1世紀のものだということが判明した。 |
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
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▲▼ エフェソスは、キリストが処刑されて昇天したあと、聖母マリアが余生を過ごしたところとされている。1967年にローマ法王パウVI世がこの地でミサを行い、教団が公認したことから聖母マリアの家の存在が世に知られるようになった。1979年にはヨハネ・パウロII世もこの地を訪れている。 |
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
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資料 |
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▲▼ イエス・キリストは、迫害されて処刑を悟ったとき、母マリアを一番若い弟子ヨハネに託した。ヨハネはマリアと共にエフェソスに逃れ、小高い丘(ブルブル山)で隠遁生活を送り、マリアは64歳の生涯を全うしたという。 |
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▲▼ これが事実かどうか教団内部で永年議論されてきたが、近年になってローマ法王が公式に認めたため、キリスト教の聖地となった。入口から内部に入ると、奥の祭壇に小さな十字架とマリア像が飾られている。見学は一方通行になっており、撮影は禁止されている。世界各地から巡礼者が訪れており、観光施設ではあるが、生きた教会としての配慮がなされている。実在したマリアの家を見て、感涙にむせぶキリスト教徒も多いという。 |
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▼ マリアの家の近くの石段を下りると、「聖母マリアの泉」がある。アンナ・カテリーナは、この聖水の存在も預言したというからただ者ではない。難病を治してくれるといわれていることから、多くの信者が世界中から訪れている。 |
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▼ 「マリアの泉」の壁面には、日本のお神籤のように祈願文を納める所があり、様々な紙に色々な言葉で悩み事が書き込まれ、主のお導きとご加護を願う祈願文か結ばれている。 |
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▲▼ 入口の郵便局で絵葉書を買うと、マリアの家のスタンプを押してもらって投函できる。観光客が大勢集まるせいか、トルコ軍の兵士が小銃を持って警備していたが、誰でも記念撮影に応じるとあって、大もてだった。 |
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エフェソス遺跡 Efes Örenyeri |
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▼ トルコ西部、イズミールの南東方75kmにある古代都市エフェソスは、紀元前11世紀ごろイオニア人が移住して町を建設。紀元前545〜466年にはペルシャの勢力下にあったが、その後アテネの民主制を受け入れ、デロス同盟に参加。ペロポネソス戦争ではアテネに味方したが、紀元前412年スパルタに屈した。 |
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▲▼ 紀元前3世紀初めごろ、付近の山麓(現位置)に移され、港湾施設と全長9kmの城壁をそなえた新都市が建設された。紀元前189年にはペルガモン領、紀元前133年にはローマ領となった。紀元前88年ポントス王ミトリダテスがローマに対する反乱を企てたとき、町のローマ市民約8万人が虐殺されたが、アナトリア(小アジア)に平和が回復したアウグストゥス帝時代には、ローマ領アジア州の都として繁栄した。 |
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▲▼ 紀元55〜58年、使徒パウロはこの地でキリスト教の伝道に従事。新約聖書の《エペソ人への手紙》はパウロがこの町の信徒たちに送った書簡である。4世紀には町の中心に三廊式バシリカの聖母マリア教会が建てられ、431年にはここで有名なエフェソス公会議が開催された。 |
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ユスティニアヌス帝時代の550〜564年には、コンスタンチノープルの聖使徒教会を手本にして、三廊式二階建で6個のドームをもつ聖ヨハネ教会が建立された。町は263年ゴート族の侵入によって破壊されたあと、商業都市として再建されたが、1426年トルコ領になって以後はまったく見捨てられ、廃墟と化した。 |
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 |
資料 |
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▲▼ 1896年以来、オーストリア考古学会が組織的な発掘調査を続けているという。現在、遺跡には両側を柱廊に縁どられた幅5m、延長530m、大理石舗装の大理石通り(400年ころ)や、観客席66段、2万4000人収容の大劇場、裕福な市民セルシウスが建てた図書館(135年)、華麗なハドリアヌス神殿(130年頃)、約1500人収容のオデオン(音楽堂、2世紀)を初め、公共浴場、アゴラ(市場)、娼館、市役所などの跡が残っている。 |
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アゴラ(集会場) |
音楽堂オデオン |
ヴァリウスの浴場 |
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▼ 我々は南口から遺跡に入った。左手には広々とした国営のアゴラ(集会所、紀元前1世紀)があり、正面にはヴァリウスの浴場(紀元前2世紀)がある。左手奥に音楽堂のオデオンが見えており、更にその奥に市庁舎がある。 |
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赤いケシの花の咲くアゴラ(集会場)と音楽堂オデオン
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アゴラ(手前) |
プリタニオン(市庁舎) |
オデオン(音楽堂) |
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▼ 山の斜面を掘り下げて造られた1500人を収容できる音楽堂オデオンは、紀元2世紀にベデウス・アントニウスと彼の妻によって建設されたが、小劇場ボレテリオンとしても使用された。22段の階段席で、下の部分はコリント式の赤い花崗岩の柱石で飾られていた。排水設備がないことから、かつては屋根があったと考えられている。オデオンはオーディオ(音の録音・再生・受信装置)の語源となっている。 |
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えふぇそすの えいがをしのぶ はるのそら |
Spring sky, recalling the luxury of Ephesus. |
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ヴァリウスの浴場 |
南入口 |
アゴラ(集会場) |

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▼ 二本の円柱の上に梁が残っている遺跡が市庁舎公会堂プリタネイオン(プリタニオン)で、かつては聖火が灯されていたという。エフェソスの高官たちがここで会議を開いたり、公式ゲストを迎える迎賓館も兼ねていたという。 |
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聖火が灯されていた市庁舎公会堂プリタニオン(プリタネイオン)
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▼ 現在、セルチュクにあるエフェス考古学博物館に収蔵されている三体の女神アルテミス像は、写真上の市庁舎で発見されたものである。1956年に発掘されたこれらのアルテミス像は、保存のため、この地に埋められていたものと推測されている。 |
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エフェソスの市民が信仰して止まなかった豊穣のシンボルである多数の乳房を持つアルテミス Artemis は、ギリシャ神話に登場する狩猟・純潔の女神で、のちに月の女神ともなった。神話によれば、ゼウスとレートーの娘(アポロンの双子の妹)で、オリュンポス十二神の一つに数えられているが、本来のヘレネス(古代ギリシア人)固有の神ではないという。 |
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市庁舎で発見された大アルテミス像(紀元前1世紀) |
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同じく美しきアルテミス像(紀元2世紀) |
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 |
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資料 |
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▼ ヘラクレスの門の南にあるメミウスの碑は、後期ヘレニズム期である1世紀にメミウスを讃えるために造られたもの。メミウスは、ポントゥスからエフェソスを奪還したローマの独裁官スッラの孫で、碑にはスッラを賞賛する言葉が記されているという。 |
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
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▼ メミウスの碑の真向かいに広場があり、その奥には2本の石柱と石のアーチがある。2本の石柱は、皇帝ドミティアヌスを祀るドミティアヌス神殿(50mx100m)の遺構である。ドミティアヌス帝は、1世紀ころのローマ皇帝で、後年は陰謀や反乱を恐れて対立する有力者の処刑や財産没収などに明け暮れ、恐怖政治で保身を計ったため、妻のロンギナや後継者のネルバなどの共謀により暗殺された皇帝として有名である。 |
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
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▲▼ 石のアーチがある場所が紀元1世紀にオフィリウス・プロクルスがC・セクスティリウスに捧げるために造ったポリオの泉である。中に貯水槽があり、台座の上にオデッセイの活躍をテーマとした彫像群があった。その一つが「休息をとる戦士の像」で、現在、エフェス考古学博物館に展示されている。 |
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戦士の像は、泉の前で横たわっている状態で分断されていた。戦士は左手に刀を持って身を守り、右手で何かを掴んでいる。像はかなり傷んでいたが、顔は生き生きとしており、引き締まった体型でよくできている。 |
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ポリオの泉付近で発見された「休息をとる戦士の像」/エフェス考古学博物館
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▼ 勝利の女神「ニケ」のレリーフは、ドミティアヌス神殿前の広場から発見されたもので、ローマ時代に造られたものといわれている。この有翼の女神は、左手に勝利の象徴である月桂冠を持ち、右手に穂を付けた小麦を持っている。 |
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スポーツ用品を手がけるナイキは、勝利の女神「ニケ Nike 」にあやかってナイキ NIKE という社名をつけた。ロゴマークのスウッシュ Swoosh (バサバサ、ビューンという動作や音の意)は、Victory をあらわすVの字のニケの羽の形に似せたものという。 |
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ドミティアヌス神殿前広場から発見された勝利の女神ニケのレリーフ
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
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▼ ドミティアヌス神殿前の広場は、かなり広く、クレテス(聖職者/神官)通りに面した一角に病院が建っている。富裕層が利用したといわれ、ヒーリング目的の心療内科的な病院だったという。 |
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
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▼ 病院の通りに面した角に蛇と羊のレリーフを持つ灯火台がある。蛇は成長に伴って脱皮を繰り返すことから再生を意味する病院の象徴であり、羊はエフェソスの象徴だったという。 |
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
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