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アナトリア Anadulu |
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▼ ツアー6日目の4月16日(金)は、長距離移動日となり、半日でパムッカレからコンヤを経由してカッパドキアまで650km、9時間もの長距離バスドライブを堪能し、アナトリア高原を縦走した。 |
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トルコ語でアナドル Anadulu と呼ばれるアナトリア(アナトリア高原)は、アナトリア半島や小アジアともいわれ、トルコの国土の大部分を占める高原が広がっている。平均高度約750mで、地中海性気候の西海岸地方以外は乾燥地帯で、寒暑の差が大きく、特に冬の寒さは厳しいという。ステップ(樹木のない平原)や砂地が多く、塩湖が散在している。小麦の産地が広く分布し、牧畜地域も多い。 |
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トルコ・ツアーのコース
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資料:クラブツーリズム |
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▼ 絹の道シルクロード Silk Road は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。ここ中央アナトリアにおいてもシルクロードが存在し、現在、高速道路としてアナトリアの東西の都市を結んでいる。コンヤを後にして東に向かってひた走るツアーバスの車窓からは、アナトリア高原らしい風景が見えては消える。 |
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東に延びるトルコのシルクロード/片側二車線右側通行 16:10
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スルタンハヌ隊商宿 Sultanhanı Kervansarayı |
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▼ コンヤからカッパドキアまで220km。今は高速道路となったシルクロードをひた走り、コンヤ・アクサライ間のトイレ休憩を利用して、スルタンハヌ隊商宿(スルタンハヌ・ケルバンサライ、スルタンハンとも)を見学した。この辺りは既にカッパドキア地方に入っている。 |
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トルコ最大の隊商宿スルタンハヌ(1229)/カッパドキア 17:10
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▲▼ スルタンハヌは、アクサライ Aksarai の西約45kmに位置するが、英語の説明板によると、1229年にセルジュク・トルコのスルタン・アラアッディン・カイクバード I 世(在位1219〜1236年)により築かれた隊商宿である。その後火事で焼け落ち、再建設の際に拡張されたため、トルコ最大の隊商宿となったという。 |
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▼ この隊商宿は、オープン区画と遮蔽区画に分かれ、前者は夏に、後者は冬に使用された。遮蔽区画は、台所、浴室、団欒室、寝室に利用された。中央に小さなモスクがあり、駱駝(ラクダ)を休ませる区画もある。東側の大理石でできた立派な門から出入りするが、別途、遮蔽区画用の出入口が1つある。また、四隅には高さ15mの監視塔がある。 |
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▼ 当時、盗賊などによる略奪から駱駝の商隊を守るために、交易路シルクロードの各所に宿泊施設が設けられた。堅固な壁に囲まれた隊商宿はまさに城砦そのものであり、商人たちは安心して疲れを癒した。中庭では商取引も行われていたという。 |
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アーチのある空間 |
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客室入口 |
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客室の内部 |
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▼ シルクロードを東に行くに連れて標高が増し、アナトリア高原らしい風景が現れた。午後5時半ころ、ハサン山(3,268m)が右手(南)に見えてきた。富士山そっくりの山容であるが、東に移動するにつれ、単独峰ではなく、連山の一端の山であることが分かった。 |
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富士山によく似たハサン山(3,268m)/カッパドキア 17:35
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▲▼ バスの車窓から羊の放牧が見られ、牧童がノンビリと羊を見守っている姿があった。背景の山脈には残雪があり、草原はまだ赤茶けていて、春は名のみの・・・早春賦のような世界である。緑の新芽がやっと芽吹きだし、羊たちは新鮮な牧草を喰むのに専念していた。 |
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トルコ富士・ハサン山(3,268m) |
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▲▼ トルコ文化観光省のパンフレットによると、300万年ほど前に、ハサン山(3,268m)とカイセリの直ぐ南に位置するエルジェス山(3,916m)との巨大噴火により、東京23区ほどの広さのあるカッパドキアの高原が石灰華や溶岩を含んだ軟らかい石、灰、泥で覆われ、その後、風雨に晒されて脆い岩肌が侵食され、赤、金、緑、グレーなど色とりどりの円錐形やキノコ型の岩、穴の空いた峡谷など壮観で現実離れした風景ができあがったという。 |
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雄大なステップに散在するカッパドキアの村落/中央アナトリア 18:05
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巨大噴火を起こしたハサン山(3,268m) |
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▲▼ 午後7時頃、太陽が西に傾き、日没が迫る頃、快適な高速道路となったシルクロードの9時間余に及ぶドライブが終わり、カッパドキアのウチヒサルが見えてきた。 |
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▲▼ 我々夫婦は申込み順位が一番で、予定通りウチヒサルの洞窟ホテルにチェックインし、二連泊することができたが、全員分の部屋が確保できなかったため、申込みが遅かった人たちは別の同等の洞窟ホテルに宿泊することになり、そちらに宿泊する人たちを送った後、ウチヒサルに向かった。 |
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▼ 午後7時10分過ぎ、ウチヒサルの洞窟ホテル「カッパドキア・ケイブ・リゾート(CCR)」に到着。荷物をツアーバスからフロント・ロビー(レセプション・ルーム)に運び、現地ガイドのオカンさんがチェックインしている間に、暗くなる前のカッパドキアの風景を撮影すべく、外に出た。 |
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ウチヒサルの洞窟ホテル「カッパドキア・ケイブ・リゾート(CCR)」に到着 19:13
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▼ ホテルCCRの前の道路から正面(東北東)を眺望すると、夕日に染まるローズバレー(薔薇の谷)が見えた。中央のテーブル・マウンティンは、トルコのグランド・キャニオンとも呼ばれる景勝地で、まるで我々の到着を祝福してくれているかのように薔薇色に輝いていた。その手前にある村落がギョレメで、野外博物館などがある。 |
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ホテルCCRから見た夕日に染まるローズバレー(薔薇の谷) 19:14
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ばらのたに いくまんねんの もゆるはる |
Rose Valley, the burning spring for tens of thousand of years. |
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トルコのグランドキャニオンと呼ばれるカッパドキアのローズバレー 19:14
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▲▼ オカンさんからキーを受け取り、割り振られたホテルの部屋に向かった。ホテルCCRは、ウチヒサルという岩山をくり抜いた洞窟ホテルで、入口はトンネルのような馬蹄形をしている。 |
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▼ 我々の部屋は、通路のトンネルに接する入口の壁に小さな窓があるだけの完全な洞窟の部屋だったが、予想外に立派なつくりだったので、驚いてしまった。 |
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▲▼ 奇岩が林立するカッパドキアの洞窟ホテルということだったので、もう少し不便でワイルドなホテルを予想していたが、右奥には更に2部屋あり、液晶テレビまであるのでは、洞窟ホテルっていっても、大都市の高級ホテルと変わらなかった。(^^; |
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洞窟の部屋の右にある広々とした洗面所・トイレ |
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更に右奥にゆったりとしたバスルーム |
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▼ 荷物の片付けをほどほどにして屋上に上がってみた。ホテルの後ろ(西)にはウチヒサルの奇岩があり、360度の空は全周青く晴れ渡り、風もなく、明日早朝の熱気球の旅は、絶好のコンディションで催行されることを確信した。二人は胸の高鳴りを抑えながら、遅い夕食をとるためにホテルの食堂に向かった。 |
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トルコ感動の旅・中 ... 続く to be continued |
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撮 影
2010年4月15-16日
OLYMPUS
E-30 E-510
9-18mm
12-60mm 70-300mm
1230万画素 1600枚 3.79GB
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前半の編集に時間がかかったので、後半はかなり集中して編集した。編集方針も決まっており、作業は順調に進捗したが、カッパドキアの熱気球の旅に入る前に6頁の分量となってしまったので、トルコ感動の旅は、上中下の3部作とすることにした。 |
今回、ツアーも佳境に入り、前編同様に世界遺産のオンパレードだったので、満足頂ける作品になったものと思う。しかし、エフェソスやパムッカレは、行きたいところが沢山あり、全ての観光スポットを廻ることができなかったのは、自由の利かないグループ・ツアーの泣き所で、残念に思うが致し方ない。 |
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特集!旅紀行第86集 「トルコ感動の旅・中」 |
撮影・制作 : 和田義男 |
平成22年(2010)5月25日 作品:第14作 画像:(大106+小16) 頁数:6 ファイル数:257 ファイル容量:73MB
平成12年(2000)〜平成22年(2010)
作品数:362 頁数:1,387 ファイル数:57,069 ファイル容量:8,226MB |
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なのはなの とりのすばしら あるてみす |
Artemis, the bird's nest on the column of rape blossoms. |
編集子の選ぶ傑作 |
世界の七不思議のひとつに数えられたアルテミス神殿の遺跡
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地元ガイドのオカンさんによると、トルコ人の対日感情はとても良く、親日家が多いが、その発端は、日露戦争で日本がロシアに勝利したことで、当時、イスタンブールでは、日本海海戦における連合艦隊司令長官であった東郷平八郎提督にちなんで、トーゴーという名を子供につけることが流行したほどだったという。 |
「トルコ感動の旅・上」を発表したあと、5月17日(月)に和歌山県田辺市在住の山下昭次さんから日本とトルコの友好を記念する作品に私のトルコの写真を使わせて欲しいというメールが届き、全面的に協力することにしたのだが、その中で、今年で120年目を迎えるエルトゥルル号の遭難の話があった。 |
「・・・私の友人に蝦乃木ユーイチという音楽家がいます。私は、蝦乃木氏の作品に映像を付けネット上から世界へ発信する作業を頼まれ、映像制作に苦悩している者ですが、出来るならメッセージ性のある映像を発信したいと二人で画策しています。さて、彼の作品に〜エルトゥルル号遭難120周年/日本・トルコ友好のテーマ〜 「誓い」という曲があるのですが(庄野真代さんに歌ってもらってます)今回この曲に映像を付けることになりました。 |
実は、和歌山とトルコには深い縁があり、日本とトルコの友好の歴史のきっかけになった出来事より120周年を迎えました。和田様もご存知のことと思いますが、その事件が、エルトゥルル号遭難の物語です。エルトゥルル号は、明治時代、トルコより派遣された友好使節団が乗ったフリゲート艦で700名程の人員を乗せ日本からトルコへ帰還途上、串本の大島沖で台風の荒波にもまれ座礁、爆発沈没する悲劇に遭遇しました。 |
当時の大島の村人たちは、異国の遭難者を救助し、なけなしの食材を提供。それこそ命を張った救援を行いました。遭難で600余りの方が亡くなり、生存者はたった60数名という悲劇でしたが、当時の人々の尽力で生存者を無事、故国に送り届けることが出来ました。大島ではおびただしい遺体を引き上げ手厚く葬り、慰霊碑を建立し弔っています。いまだに塵ひとつ無く大切に慰霊しています。トルコでは日本人の温情に答え今でも教科書でエルトゥルル号遭難と日本人の真心を伝え続けているそうです。 |
過日 イ・イ戦争の折 フセインが無差別に航空機を攻撃すると宣言。各国の人々が次々に中東から脱出してゆく中、日本人の救出が遅れ、脱出出来なく成りました。タイムリミットぎりぎり日本人を救出に空港に到着したのは、トルコ航空の飛行機でした。エルトゥルル号の恩義を忘れていないトルコ人たちが「今度は私たちが恩返しをする番だ」と、救援の手を差し伸べたのだと聞いています。日本とトルコの間にはこのように深い友好の歴史があります。現在日本とトルコの共同事業で水中考古学者たちが遺品の発掘・引き上げ調査が継続中です。来月、地元串本では盛大なイベントも予定されています。・・・」 |
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写真:フリー百科事典Wikipedia |
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本件については、フリー百科事典に
エルトゥールル号事件 について詳しい解説があり、また、イラン・イラク戦争の際のトルコ航空機による日本人の救出については、小林義典さんの
エルトゥールル号事件 に詳しい。 |
トルコ航空機による日本人の救出について、当時の駐日トルコ大使ヤマン・バシュクットさんは、平成13年(2001)5月6日の産経新聞紙上で「特別機を派遣した理由の一つがトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは、1890年のエルトゥールル号の海難事件です。」と証言している。 |
日露戦争に勝利した明治38年(1905)の15年前の明治23年(1890)に発生したエルトゥールル号の海難をきっかけに、民間レベルの国際交流が生まれたことは感動的であり、日本の教科書に載っていないことを残念に思う。これらのエピソードからすると、日土友好の嚆矢(こうし)は、エルトゥールル号の遭難であったことは明らかで、現在トルコ旅行が日本人に人気があるのも、何かの縁を感じる。 〈 続 〉 2010.6.1 和田義男 |
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ぱむっかれ せんじょうじきの みずぬるむ |
Pamukkale, the water of one thousand mats becoming less cold. |
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編集子の選ぶ傑作 |
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