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平成22年(2010)4月11日(日)から20日(火)までの10日間、家内と共にクラブツーリズムが主催する「華麗なるトルコこだわりの感動物語10日間」の旅に参加した。晴れ男と自称する筆者は、今回も天候に恵まれ、ベテランTD(添乗員)の臼田(うすだ)さんと優秀な現地ガイドのオカンさんを含む24人の旅友は、西洋と東洋の文化が混淆する異国情緒豊かなトルコの世界遺産を巡る旅を満喫した。 |
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【凡例】 ▲:上の画像の説明文 ▼:下の画像の説明文 〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示 |
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お世話になったトルコ航空機 / 成田国際空港 2010.4.11 12:45
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■ 旅の概要 ■
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1日目 2010年4月11日(日) 成田国際空港 〜 イスタンブール・アタチュルク国際空港 イスタンブール泊
2日目 2010年4月12日(月) トプカプ宮殿、ブルーモスク、地下宮殿など市内観光 イスタンブール泊
3日目 2010年4月13日(火) ドルマバブチェ宮殿観光 イスタンブール 〜 チャナッカレ泊
4日目 2010年4月14日(水) チャナッカレ 〜 トロイ観光 〜 ペルガモン観光 〜 イズミール泊
5日目 2010年4月15日(木) イズミール 〜 エフェソス観光 〜 パムッカレ観光 パムッカレ泊
6日目 2010年4月16日(金) パムッカレ 〜 コンヤ メブラーナ博物館観光 〜 カッパドキア泊
7日目 2010年4月17日(土) 熱気球、地下都市カイマクル、ギョレメ野外博物館など観光 カッパドキア泊
8日目 2010年4月18日(日) カッパドキア 〜 カイセリ 〜 イスタンブール アヤソフィア観光 イスタンブール泊
9日目 2010年4月19日(月) ボスポラス海峡クルーズ グランド・バザール アタチュルク空港 〜 機内泊
10日目 2010年4月20日(火) 〜 成田国際空港 |
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トルコ・ツアーのコース
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資料:クラブツーリズム |
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■ 1日目:成田国際空港 〜 イスタンブール・アタチュルク国際空港 (イスタンブール泊) ■ |
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初日4月11日(日)は、成田国際空港からトルコ航空TK51便に搭乗し、午後2時頃トルコに向け出発。約11時間30分のフライトの後、同日午後7時半頃イスタンブール・アタチュルク国際空港に到着。現地ガイド・オカンさんの出迎えを受け、ツアーバスにてイスタンブール新市街にあるホテル デデマン・イスタンブールに移動し、2連泊した。 |
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資料:Google Earth |
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トルコ共和国
Türkiye Cumhuriyeti (トルコ語:テュルキエ・ジュムフリイェティ) Republic of Turkey (英語)
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▲▼ トルコ共和国、通称トルコは、西アジアのアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパのバルカン半島東端の東トラキア地方を領有し、アジアとヨーロッパの二つの大陸にまたがる。日本の約2倍の国土に7500万人が暮らしており、1923年10月29日、ムスタファ・ケマル・アタチュルク率いる祖国解放軍により、オスマン帝国が滅亡し、トルコ共和国になってからは、首都はイスタンブールからアタチュルクが戦いの拠点としていたアナトリア中央部のアンカラに移った。 |
北は黒海、東はエーゲ海、南は地中海に面し、西でブルガリアとギリシャ、東でグルジア、アルメニア、イラン、イラク、シリアと接する。黒海とエーゲ海の間に位置するマルマラ海は国土の中にあり、国内に海を持つ国はトルコだけである。黒海とマルマラ海を結ぶボスポラス海峡とマルマラ海とエーゲ海を結ぶダーダネルス海峡は、いずれも国際海峡で、黒海と地中海を結ぶ交通の要衝は、すべてトルコ国内にある。 |
国土の大半はアナトリア半島にあり、国民の99%がイスラム教徒であるが、イスラム諸国の中で最も戒律が緩やかな国である。共和国となってからは、民主主義と政教分離政策が取られ、国字をアラビア文字からラテン文字(ローマ字)に換えるなど、西欧化しつつあり、NATOに加盟するとともに、現在、欧州連合 (EU) へ加盟申請中である。日本の地域区分では、地理的な位置や宗教などから中東や西アジアに含めることがほとんどだが、サッカー協会やオリンピック委員会などではヨーロッパの統一団体に属しており、経済的、政治的にもヨーロッパの一員として扱われることが多くなっている。 |
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資料:エンカルタ百科地球儀 |
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イスタンブール
İstanbul (トルコ語:イスタンブル) Istanbul (英語)
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▼ イスタンブール(イスタンブル)は、トルコ西部の都市で、ボスポラス海峡をはさんでヨーロッパ側(トラキア地方)とアジア側(アナトリア半島)の両岸に広がっており、二大陸にまたがる大都市である。人口360万の首都アンカラを上回るトルコ最大の都市であり、文化・経済の中心となっている。 |
イスタンブール県都でもあるイスタンブールの人口は880万人で、イスタンブール県全体では1000万人を越える。モスクワ、ロンドン、パリに並ぶヨーロッパ屈指の規模をもち、ヨーロッパでも上位の世界都市である。 |
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資料:Google Earth |
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▲▼ 東西文明の要衝に位置するイスタンブールは、首都としての歴史が長く、330年にローマ帝国コンスタンチヌス I 世(在位306-337)が帝国の首都をこの地に移して以来、ビザンチン帝国(ビザンツ帝国/東ローマ帝国)、オスマン帝国を経て、1923年にトルコ共和国が生まれてアンカラに遷都するまで、ビザンチウム、コンスタンチノープル、イスタンブールと名を変えながら、1600年もの長きにわたって3代続いた大帝国の首都として君臨してきた。 |
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旧市街のイスタンブール歴史地区は世界文化遺産に登録されており、2010年の欧州文化首都に選ばれている。 |
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■ 2日目:トプカプ宮殿、ブルーモスク、地下宮殿など終日市内観光 (イスタンブール泊) ■ |
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▼ 2日目4月12日(月)は、午前9時30分頃専用バスでホテルを出発し、トプカプ宮殿を観光。宮殿内のレストランで昼食後、ハレムを見学。その後、ヒッポドローム、ブルーモスク、地下宮殿の順に観光。夜は、ヒルトン・ホテルそばのナイト・クラブ「ケルヴァンサライ」にてベリー・ダンスのディナー・ショーを楽しんだ。 |
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トプカプ宮殿 Topkapı Sarayı (トルコ語:トプカプ サライ) |
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▲▼ トプカプ宮殿は、15世紀中頃から19世紀中頃までの約400年にわたってオスマン帝国の君主スルタンが居住した宮殿で、ボスポラス海峡、マルマラ海、金角湾(きんかくわん)に三方を囲まれたイスタンブール旧市街の丘の北部に位置する。この宮殿は、1924年から博物館として公開されており、年間150万人が訪れるトルコ第1の観光スポットである。 |
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トプカプ宮殿南端にある正門「皇帝の門」(バーブ・ヒュマーユーン) 2010.4.12 10:17
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東西交易の接点であるボスポラス海峡を見下ろす絶好の場所に建てられたトプカプ宮殿は、トプ(TOP=大砲)がカプ(KAPI=門)の前に置かれていたことに由来して名付けられたもので、1453年に当時コンスタンチノープルと呼ばれていたイスタンブールを陥落させた第7代スルタン・メフメットII世(在位 1444-1446 1451-1481)が建設したのに始まる。 |
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自動小銃を持って「皇帝の門」を警備するグリーン・ベレーの衛兵たち
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その後、様々なスルタンが増築を重ね、現在のようなスタイルとなった。周囲を全長5kmの城壁で護られ、ヴァチカンの2倍という70万m2という広大な敷地を持つ大宮殿は、それ自体ひとつの町となっており、1856年にドルマバフチェ宮殿が新市街に建てられるまで、ウィーン付近から黒海、アラビア半島、更には北アフリカまでを支配したオスマン帝国の公式宮殿として繁栄を極めた。 |
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▲▼ アヤソフィアの北に位置する1478年建造の「皇帝の門」(バーブ・ヒュマーユーン)を通過してトプカプ宮殿の境内に入ると、広大な第一庭園(内庭)に入る。この庭園は別名「イェニチェリ広場」と呼ばれ、当時最強を誇ったオスマン・トルコの親衛隊(イェニチェリ)の出陣式が行われたところである。北に向かう石畳の道の両側にはトルコ原産のチューリップが咲き乱れ、左手には、ビザンツ時代に建てられたアヤイリニ教会が見える。 |
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紀元4世紀にかつてのアフロディテ神殿跡に建てられたアヤイリニ(キリスト)教会はイスタンブール最古の教会で、532年、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)ユスチニアヌス帝の改築によって現在の姿となった。アヤソフィア(キリスト)教会完成後もコンスタンチノープル第二の教会として栄えた。オスマン・トルコ時代には、イスラム教のモスクとして使用されたため、モザイクが剥がされてしまい、偶像崇拝の痕跡は残されていない。現在は、見事な音響効果が評価され、クラシック音楽のコンサートなどに利用されているという。 |
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▼ 第一庭園の北端に送迎門(バービュス・セラーム)があり、ここで入場料を払ってから第二庭園に入る。16世紀に増築されたという八角形のとんがり帽子の塔を両脇に置いたこのユニークな門には、クルアーンと呼ばれるイスラム教の聖典の一節が刻まれている。この門を通るときは、スルタンは馬に乗ったままだが、その他の者は歩いて通らなければならなかったという。 |
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ここから有料となるトプカプ宮殿送迎門(バービュス・セラーム)
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▼ 第二庭園に入ると、左手(西側)前方に監視塔として使われた正義の塔が見えてくる。この奥がハレム(ハーレム)になっており、入場するには別料金が必要となる。 |
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右手(東側)には、厨房棟があり、最盛期には800人が働き、宮殿で働く4000人分の食事を作っていたという。現在は各国から集めた膨大な陶磁器や当時の炊事道具などが展示されている。 |
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オスマン帝国
دولتْ علیّه عثمانیّ (オスマン語) Ottoman Empire (英語)
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オスマン帝国は、アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小国から発展したトルコ系の帝室オスマン家を皇帝とする多民族国家で、トルコのイスタンブールを首都とし、最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナに至る広大な領域に及んだ(1299-1922)。 |
▼ スルタン・メフメットII世( Mehmet
II、在位 1444-1446 1451-1481 )は、オスマン帝国の第7代皇帝で、コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)を陥落させて東ローマ帝国を滅ぼし、オスマン帝国の版図を大幅に広げ、征服者 ファーティフ Fatih /
Sultan Mehmed the Conqueror (英語) (征服王)と呼ばれた。 |
スルタン・スレイマン I 世( Sultan Süleyman、1520-1566 )は、オスマン帝国の第10代皇帝で、46年の長期にわたる在位の中で13回もの対外遠征を行い、数多くの軍事的成功を収めてオスマン帝国を最盛期に導いた。英語では
Sultan Syüleyman the Magnificent と呼ばれ、日本ではしばしば「スレイマン大帝」と訳される。 |
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オスマン・トルコ帝国を拓いた征服王スルタン・メフメットII世 |
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黄金期を築いたスルタン・スレイマン大帝(I世) |
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▼ スルタン・セリム II 世( Sultan Selim II 、在位 1566−1574 )は、オスマン帝国の第11代スルタンで、第10代スルタン・スレイマン大帝の子である。1566年、父・スレイマン大帝がハンガリー遠征中に陣没したため、唯一生き残っていたセリム II 世がその後を継いでスルタンとして即位した。しかし万事優秀だったスレイマン大帝と較べると酒に溺れる無能な人物で、泥酔者とまで蔑まれた。 |
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▲ 1571年、レパントの海戦でオスマン海軍がスペイン艦隊に大敗すると、セリム II 世は「この敗戦など痛くも痒くもない。異教徒が朕の髭を焼いたに過ぎぬ」とうそぶいたといわれている。確かにその後も帝国の大国としての権勢は揺るがなかったが、この敗戦は、オスマン帝国の衰退の端緒になった。 |
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スレイマン大帝の後、有能なスルタンは殆ど現われず、無能なスルタンがヨーロッパ諸国から借財して社会資本の近代化を図るとともに、不必要とも思える豪華宮殿を建設したことなどから財政が次第に疲弊し、帝国崩壊の大きな原因となったといわれている。 |
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「幸福の門」(バービュッサーデ)と呼ばれる白人宦官の門(アクアーラルの門)/第二庭園北端
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▲▼ 第二庭園の北端に「幸福の門」(バービュッサーデ)と呼ばれる「白人宦官(かんがん)の門」(アクアーラルの門)がある。当時は、白人宦官の宿舎があったといい、現在の門は、18世紀にロココ調に改装されている。芸術的なスルタンの花押(トゥグラ)が印象的である。夏期のシーズン中は、この門の前で軍楽隊メフテルハーネによる軍楽メフテルの演奏が行われる。 |
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▼ 幸福の門の前には、内庭での公式行事の際にスルタンの玉座が置かれた場所を占めす印が置かれている。 |
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トルコ軍楽隊「メフテルハーネ」 Mehterhane |
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▲▼ BGMに流れる曲は、オスマン帝国以来、トルコで独自の発展を遂げた軍曲 メフテル Mehter の「ジェッディン・デデン Ceddin Deden」(祖父も父も)である。オスマン軍は、自軍の士気の向上や敵への威嚇のために軍楽隊(メフテルハーネ、Mehterhane )を連れて戦争に赴き、平時にもメフテルを宮廷などの儀礼に用いた。 |
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軍楽隊メフテルハーネは、ヨーロッパへの遠征にも随行したことから、西欧の各宮廷にも知られることとなった。モーツアルトやベートーヴェンの「トルコ行進曲」は、メフテルを意識して作曲されたという。18世紀前半には、西欧諸国も軍楽隊を持つようになったが、その起源はメフテルを真似たことに始まり、現在のブラスバンドのルーツとも云われ、楽器の基本編成にもメフテルの影響が見られる。特にジンバルは、メフテルがオリジナルという。 |
1826年に廃止されて、西洋式の軍楽隊が導入されるが、1914年、トルコ民族主義の高揚の中で復活。その後、紆余曲折を経て現在に至っており、共和国になってからも公式行事や観光などのイベントになくてはならないものとなっている。 |
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写真:フリー百科事典Wikipedia |
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はるひより はちのじひげの ぐんがくたい |
A nice spring day, the military band of finely-trimmed mustaches. |
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ジェッディン・デデン
Ceddin Deden (祖先も祖父も) |
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ジェッディン・デデンは、NHKドラマ「阿修羅のごとく」やビートたけし主演の中外製薬「グロンサン」CMで使用され、日本で最もよく知られたメフテルの楽曲で、イスマイル・ハック・ベイ(1865 - 1927)が作曲したもの。 |
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1番
Ceddin, deden, neslin, baban! 祖先も祖父も
Ceddin, deden, neslin, baban! 祖先も祖父も
Hep kahraman Türk milleti! 勇猛なるトルコよ!
Orduların, pekçok zaman! 汝の軍隊は幾度となく
Vermiştiler dünyaya şan. 世界にその名を轟かす!
Orduların, pekçok zaman! 汝の軍隊は幾度となく
Vermiştiler dünyaya şan. 世界にその名を轟かす! |
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2番
Türk milleti, Türk milleti! トルコ国家よ トルコ国家よ
Türk milleti, Türk milleti! トルコ国家よ トルコ国家よ
Aşk ile sev hürriyeti! 汝の自由を享受せん!
Kahret vatan düşmanını! 祖国の敵を打ち負かし
Çeksin o mel-un zilleti. 忌わしき奴等に絶望を与えん!
Kahret vatan düşmanını! 祖国の敵を打ち負かし
Çeksin o mel-un zilleti. 忌わしき奴等に絶望を与えん! |
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▲▼ 15世紀にオスマン・トルコ帝国を拓いた征服王スルタン・メフメットII世は、イスラム教に改宗させたキリスト教徒の少年たちの中で優秀な者を徹底した軍事教育により親衛隊イェニチェリと呼ばれる精鋭部隊に育て上げ、彼らにより、軍楽隊が大きく発展し、長期にわたってそのスタイルが守られてきた。 |
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オスマン・トルコは、新しい土地を占領すると、そこで得た奴隷を軍隊に編入し、彼らを統率するために、報酬を与えたり、様々な規則や法律を定めて近代的な組織を整えた。その組織化のひとつの手段が軍楽隊で、太鼓やラッパを使って軍隊を指揮統率し、士気を鼓舞した。当時のトルコ軍が強かったのは、メフテルによるところが大きかったともいわれている。 |
楽器の大部分はトランペット類のボル Boru というラッパやオーボエ属のズルナ Zurna で、打楽器としてはキョス Kös という大型の太鼓や小型で一対のティンパニに相当するナッカラ Nakkara という鍋型太鼓がある。そのほかシンバルや新月をかたどった飾り棒に鈴をつけたものなどがメフテルの基本となっている。 |
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写真:フリー百科事典Wikipedia |
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