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▼ 「幸福の門」(バービュッサーデ)を通過した北側が「謁見(えっけん)の間」(アルズ・オダス)と呼ばれる建物を中心とした「第三の庭園」で、それを取り巻く施設群がスルタンの私的空間である内廷を構成している。内廷には君主の私室(ハス・オダ)や、有名な「トプカプの短剣」などが展示されている宝物館などがある。 |
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宝物館 |
謁見の間 |
図書館 |
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▲▼ 第三庭園の東側にある宝物館には、贅を尽くしたトプカプの財宝が展示されており、トプカプ宮殿必見の場所とあって、長蛇の列が絶えることがない。2001年に改装され、向かって右側(南)から4つの部屋に分けて190点の宝石類が展示されているが、内部の撮影は固く禁止されている。 |
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トプカプの短剣 The Topkapi Dagger
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▼ トプカプ宮殿のシンボルであるトプカブの短剣は、1741年にマフムート I 世 Mahmud I が造らせ、ペルシャのナディール・シャー Nadir Shah にプレゼントしたもの。その後ペルシャとの関係が悪化し、返還された。直径30〜40mm の3個の楕円形のエメラルドが柄の片面につけられている。映画「トプカピ」の中で、メリナ・メルクーリ演じる大泥棒が盗み出すという設定に使われた。 |
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スプーン屋のダイヤモンド The Spoon-maker's Diamond
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▼ 世界有数の大きさといわれる「スプーン屋のダイヤモンド」は、86カラットの大きなダイヤモンドを49個のダイヤモンドで取り囲み、ティアドロップ型に仕上げた超豪華な宝石である。このダイヤモンドには数々の伝説が伝わるが、ゴミの中からダイヤの原石を拾ったスプーン屋がその価値が分からず、市場で3本のスプーンと交換したことからこの名が付いたといわれている。 |
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巨大なエメラルドに飾られた「トプカプの短剣」(1741) |
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86カラットもある豪華な「スプーン屋のダイヤモンド」 |
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ムスタファIII世の鎧 Armor of Mustafa III
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▼ 1711年に造られたこの豪華な鎧は、もともとムラード IV世 Murad IV のものといわれていたが、最近の研究でムスタファ III 世 Sultan Mustafa III の鎧であることが分かった。装飾に贅を尽くしたものであるが、実用的ではなさそうである。 |
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皇太子の金の揺りかご Golden Prince's Cradle
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豪華な金の装飾を施した揺りかごは、皇太子 the Crown Prince として生まれた新生児用に使われた。厚く金メッキされた銀板でコーティングされた木製で、外側にエメラルド、ルビー、ダイヤモンドなど約2000個の宝石が嵌め込まれている。2007年12月から3ヵ月間名古屋市博物館で開かれた「トプカプ宮殿の至宝展」で展示された。 |
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ムスタファIII世の鎧(1711) |
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皇太子 Crown Prince の金の揺りかご(18世紀) |
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▼ 宝物館の西側、チューリップの庭園の向こう側の建物には、スルタン一族の肖像画(南)と宗教遺産(北)の展示がある。オスマン帝国は政教一致だったため、1517年、エジプトを征服した第9代スルタン・セリム I 世(在位
1512-1520)がイスラム教の開祖・預言者モハメッド(ムハンマド)の遺品をイスタンブールに持ち帰って以来、皇位についた全てのスルタンは、全イスラム世界の指導者を意味する「カリフ」の称号を冠することになった。宗教遺産の間では、モハメッドのものとされる聖なる外套や剣などが展示されている。 |
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肖像画の間 |
宗教遺産の間 |
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▲▼ 写真上の右端(北側)の回廊を通過するとトプカプ宮殿の北端に到達し、ボスポラス海峡の展望所に至る。写真下は、そこから見たボスポラス海峡で、左にある黒海から発した海流が右側のマルマラ海に向かって流れている。斜面を下ると展望レストラン「コンヤリ」があり、我々はそこで昼食を取って休憩した。 |
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▼ 1897年からトプカプ宮殿に設けられた老舗レストラン・コンヤリ KONYALI は、大勢の観光客で賑わっていた。我々一行は、屋内で昼食を取ったが、屋外のテーブルからの眺めは最高だった。 |
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ボスポラス海峡の展望レストラン「コンヤリ」/トプカプ宮殿(北端)
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▼ 写真下は、イスタンブールのアジア側に開けたウスクダル(ユスキュダル)を望遠で撮影したもの。人口は約40万人。商工業ともに盛んで、ハイダルパシャ駅はアンカラ、バグダッド方面への鉄道の起点である。クリミア戦争中はイギリス軍基地となり、看護婦のナイチンゲールが活躍した陸軍野戦病院があったことは、意外と知られておらず、地元ガイドのオカンさんからの説明もなかった。 |
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ウスクダルのそばに建つ乙女の塔 クズ・クレシ Kiz Kulesi は、5-6世紀頃から塔があったといわれているが、12世紀頃に海峡封鎖のための要塞として建てられ、灯台や税関、軍の宿舎などとして使われていたという。現在のものは18世紀に建てられたバロック様式の愛らしい建物で、昔、王女が蛇に咬まれて死んでしまうというお告げを受けた王が、それを避けるために王女をここに避難させたが、そのために蛇に咬まれて死んでしまったという悲劇の伝説が伝わっている。 |
トルコのマルマライ計画*により、2004年5月に始まったイスタンブールの地下鉄建設を請け負っている大成建設JVの現地事務所は、ウスクダルにあり、乙女の塔の北側には地下鉄海底トンネルの作業現場があって、作業用桟橋や海底トンネル連絡塔などが見える。海上から11の函体(かんたい)を沈めて連結し、海底に埋設するという沈埋(ちんまい)工法による海底トンネル(1,387m)は既に完成しているが、陸岸トンネルとの連結作業が残されている。東西二大陸を鉄道で繋げるというトルコ国民の悲願は、二年後の2012年に実現される予定。
参照:イスタンブール地下鉄工事の概要 |
*マルマライ計画:ボスポラス海峡を横断する海底鉄道トンネルにより、イスタンブールのヨーロッパ側とアジア側の鉄道を接続する計画。海峡は、最大で長さ135m、重さ18,000トンにもなる11個の函体を連結した全長約1.4 kmの地震でも安全な沈埋トンネルにより横断する。これらの函体は最深部で海面下約60m(海水部分が55m、海底部分4.6m)に置かれる。海底トンネルは、イスタンブールのヨーロッパ側のカズルチェシュメとアジア側のアイルルクチェシュメから掘られたトンネルと接続される予定。地下駅としてウスクダル駅(新設)、シルケジ駅、イェニカプ駅が建設され、37駅が改築・改装される。 |
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BGMに流れる曲は、昭和27年(1953)に江利チエミが歌った「ウスクダラ Uskudara 」の原曲で、もとはトルコ民謡である。トルコ語では「ウスクダル」の末尾に「a ア」が付くと「ウスクダラ」となり、「ウスクダルに」という意味になる。1952年にアメリカのミュージカルショーでアーサー・キットが歌って世に知られるようになった。 |
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歌詞(大意) |
1番
ウスクダルに行ったときは雨だった
キャーティップ Katip の着物の裾が長く
はねあがっていた
キャーティップは起きたばかりなのか
目はぼんやりとしていた
キャーティップは私のもの
私はキャーティップのもの
腕を組めるのは私だけ |
2番
ウスクダルに行ったとき
一枚のハンカチをみつけて
その中にロクム菓子を包んだ
キャーティップを探していたら
すぐ横に立っていた
キャーティップは私のもの
私はキャーティップのもの
腕を組めるのは私だけ |
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「キャーティップ Katip 」がこの曲の原題で、「お代官様」という意味。転じて「私の愛する彼氏」を指す。ウスクダルがまだアジア側の寒村だったころ、ヨーロッパ側のイスタンブールに出稼ぎに行っていた恋人が帰って来た喜びを女が歌ったもの。 |
江利チエミの歌詞の「せりふ」の部分で「皆さん、トルコ帽をご存じでしょう。ウスクダラはそのトルコの西の外れの、ある小さな城下町です」とあるが、「イスタンブールのアジア側の西のはずれ」の誤りである。なお、現在、トルコではトルコ帽を着用することが禁止されている。 |
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▼ 昼食後、トプカプ宮殿のハレムを見学した。アラビア語のハラム(聖域)やハリム(禁じられた)を語源とするハレム(ハーレム)は、トプカブ宮殿最大の見所で、別の博物館として別料金となっている。1666年に大火で全焼した木造に代わって迷路のように入り組む300もの部屋を有する現在のハレムが生まれた。現在、公開されているのはその一部に過ぎない。 |
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オスマン・トルコ皇帝スルタン一族と女官・黒人宦官しか入れない大奥ハレム入口/トプカプ宮殿
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▼ ハレムに入ると北アフリカのヌビア地方から連れてこられた黒人宦官*(かんがん) カラアー の部屋がある。スルタンが黒人宦官しかハレムに入れなかったのは、医学的にはありえないが、万一のことを考えて、寵妃(ちょうひ)(側室)が妊娠しても生まれて来る嬰児は黒人の血が混じっているため、スルタンの子ではないことを明確に識別できるためだという。彼らの任務は、主にハレムの警備や力仕事だったが、黒人宦官長 クズラルアー は、スルタンの好みの女性を買ってくることもあったらしい。
ハレムに従事した40人の黒人宦官の中で、最高権力者は、黒人宦官長で、その地位はスルタン、皇太后に次ぐナンバー3で、嫡子の教育や育成の責任を負う宦官長の部屋は、他の宦官たちより広く立派だった。
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*宦官(かんがん):東洋諸国で後宮(こうきゅう)に仕えるため、睾丸を切除して去勢された男子で、特に中国で盛行。宮刑に処せられた者や異民族の捕虜などから採用したが、後には志望者をも任用した。
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スルタン一族と寵妃の他にハレムに入ることができるのは黒人宦官と女官で、食事の搬入などは男性使用人と顔を合わせることがないよう、二重のドア越しに行われ、片方から差し出された食事は、もう片方のドアから取り出す仕組みになっていた。 |
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女たちの部屋は、皇太后(スルタンの実母)バーリデ・スルタン Valide Sultan が住む所、1番目から4番目の妻(最初に男子を産んだ順)が住む所、その他大勢の住む所と分かれていた。妻になると個室を持ち、召使いも与えられて生活も保障されていたという。 |
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スルタンの妻たちや寵妃、召使いまで、ハレムに暮らす女性の殆どは、戦利品として征服地から連れてこられたり、奴隷市場で買い取られたり、スルタンに献上された人々だった。各国からイスタンブールに連行されてきた美貌の少女たちは、スルタンの最も身近に侍り、その後継者を身籠もることに躍起になった一方で、スルタンはもとより、オスマン国家に対して親近感を抱くことはなかったという。 |
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しんこうや はれむのひろま ゆめのあと |
The spring sunlight, a hall of the harem a vestige of the dream. |
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▲▼ ハレムには、様々な民族の女性が300人も暮らしていた。当然、厳しい階級があり、「アジェミ(新参者)」「ジャーリエ(愛人)」「カルファ又はウスク(ジャーリエの中の熟練者)」「ギョズデ又はイクバル(スルタンの寵愛を受けた愛人)」「カドウン・エフェンディ(スルタンの子を身ごもった女性)」と進む。 |
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歴代のスルタンには、このカドウン・エフェンディが4〜7人いたという。カドウン・エフェンディの中でスルタンが特に愛情をそそいだ女性は「ハセキ」と呼ばれ、この称号を得て初めて将来の安泰が約束されたという。そして、男児を出産したハセキは「ハセキ・スルタン」と呼ばれた。この出世争いに女たちの確執があったのは、江戸城大奥と変わらない。 |
スルタンに次ぐ権力を持つハレムの最高権力者が皇太后(スルタンの実母)バーリデ・スルタンで、40の部屋と多数のお付きを抱えていた。6,700m2の敷地に300の部屋と46のトイレ、8つの浴場、4つの小台所、2つのモスク6つの倉庫、病院、プールなどの設備を全て取り仕切っていたという。 |
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スレイマン大帝の寵愛を受けて皇后となった寵妃ヒュレム・スルタナ
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▲ 一奴隷の側室に過ぎなかったヒュレム・スルタナ Hürrem Sultana は、スレイマン大帝の心を掴み、寵愛を受け、子を成してハセキとなり、最後は皇后となった。娘はラステム・パシャ Rüstem Pasha と結婚し、母が亡き後、彼女の父のベスト・フレンドとなった。ハレム史上最も有名なヒュレム・スルタナは、元はロシア出身のロクサリーナという奴隷だということしかわかっていないという。 |
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彼女は聡明な策略家で、スルタンの寵愛を受けて第二夫人となった後、第一夫人とその王子を失脚させ、ついにはスルタンと正式な結婚をして皇后になった。そしてスレイマン大帝さえも操って一大権力を築いたというから凄い烈女である。江戸城大奥の春日の局もビックリすることだろう。ともあれ、彼女はハレムにおける寵妃たちの地位を高め、彼女以降、ハレムの女が影から国政を左右する女権時代が始まったともいわれる。 |
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ターコイズ・ブルー(トルコ石の青)のイズニック・タイルが美しいハレムの部屋
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イズニック(イズニク)・タイル Iznik tiles
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▼ アナトリア(小アジア)北西部のイズニク湖西岸に位置するトルコの都市イズニクは、オスマン帝国時代に生産された美しいブルーが特徴の陶器やタイルで知られる。イズニクの陶器は、胎土の表面に白土の化粧土を施し、下絵を着彩した上に透明の釉薬(ゆうやく)を塗り、焼成(しょうせい)したもので、14世紀頃から作られるようになった。 |
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イズニック・タイルとステンド・グラスが美しい皇子皇女たちの教室
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▲▼ この頃モンゴル帝国を通じて西アジアに盛んに輸入されるようになった中国の染付の影響を受け、白地の美しさを生かしたコバルトブルーの模様が描かれるようになり、15世紀以降はターコイズ・ブルー(トルコ石の青)や緑
、紫、赤などの多色着彩を行うようになって、模倣を越えた独自の発展を遂げた。 |
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美しいターコイズ・ブルーのイズニック・タイルと象眼で飾られた教室の壁
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▲▼ イズニク陶器は、16世紀に最盛期を迎え、様式化された独特の花や草の模様が描かれてイスタンブールを中心とするオスマン帝国の宮廷社会で持て囃された。トプカプ宮殿をはじめ、この時代にイスタンブールに建設された宮殿やモスクの壁面は、イズニク製のタイルで美しく飾られ、都市の景観に彩りを与えた。 |
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観音開きの窓とイズニック・タイル張りの外壁/教室の外観
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▲ しかし17世紀後半以降、イズニクの陶器生産は衰え、18世紀に北西アナトリアにおける主たる産地をキュタヒヤに譲った。オスマン帝国の末期からトルコ共和国の初期にはイズニクは人口も1万人を割り、これといって目立たない地方都市となってしまった。20世紀後半にはトルコ全体の人口増加にともない、イズニクの人口も漸増し、地元出身の若い陶芸家によって新しいイズニク陶器を作り出してゆこうとする運動が試みられ始めているという。 |
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←プール |
教 室 |
アブドゥルハミットの館 |
寵妃たちの居室 |
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