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■ 3日目:ドルマバブチェ宮殿観光 イスタンブール 〜 チャナッカレ(泊) ■ |
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▼ 3日目4月13日(火)は、午前8時30分頃専用バスでホテルを出発し、一番乗りでドルマバブチェ宮殿を観光。昼食後、フェリーでダーダネルス海峡を渡ってアナトリア(小アジア)に入り、320km、6時間のバスツアーでチャナッカレまで移動し、海峡ビューのホテルに一泊した。 |
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トルコ・ツアーのコース
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資料:クラブツーリズム |
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ドルマバフチェ宮殿 Dolmabahçe Sarayı
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▼ ドルマバフチェ宮殿は、イスタンブールの新市街・ベシクタシュ地区のボスポラス海峡に面した埋立地に位置する。ドルマバフチェとは「埋め立てられた庭」という意味である。 |
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イスタンブールを征服したオスマン帝国の第7代スルタン・メフメット II 世(在位 1444-1446 1451-1481)によって造成された庭園に、第31代スルタン・アブデュルメジト I 世(在位 1839-1861)の命により、従来あった木造宮殿を取り壊して建てられた。「水の宮殿」と讃えられるドルマバフチェ宮殿は、1843年に着工され、1856年に完成した後、1922年に最後の皇帝第36代スルタン・メフメットVI世(在位 1916-1922)が退去するまでトプカプ宮殿に代わってオスマン帝国の王宮として利用された。 |
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「水の宮殿」と讃えられるボスポラス海峡から見たドルマバフチェ宮殿
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入口 |
セラムルック(行政区画) |
中央大広間 |
ハレム |
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▲ ドルマバフチェ宮殿は、大理石を用いたバロック様式とオスマン様式を折衷させた壮麗な建物で、総面積は約15,000m2。285の部屋と43の広間があり、豪華な内装が素晴らしい。諸国からの献上品も多く、必要以上に贅を尽くした宮殿は、アブデュルメジト I 世が借金を重ねて建てたもので、後を継いだ第32代スルタン・アブデュルアジズ(在位 1861-1876)の時代には、政府は財政難に陥り、政治的問題も多くなっていった。 |
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ドルマバフチェ宮殿を建てたアブデュルメジト I 世 |
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後を継いだスルタン・アブデュルアジズ |
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資料 |
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資料 |
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▲ ドルマバフチェ宮殿は、当初から資金がタイトで、西欧諸国の大宮殿と比べて、それほど大きなものではない。
1853年〜1856年に起こったクリミア戦争では、かろうじて勝利を手にしたものの、オスマン帝国の財政は急速に苦しくなり、このとき、初めて外国から有利子負債を抱えることになった。あろうことか、この無能な若いスルタン・アブデュルメジト I 世は負債を抱えながらも近代化のために社会資本の整備を続けるかたわらで、借金の一部を不必要な宮殿の建設に使ったため、財政の破綻へと加速していったいう。 |
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アブデュルメジト I 世は、若くして病に倒れ、この宮殿でたった5年しか過ごすことができず、1861年に死亡した。後継者のアブデュルアジズは、スポーツマンで、乗馬と弓道に長け、競技会を自ら開催し、その時代の有名な格闘技選手と戦うという、今でいう体育会系の皇帝だった。 |
彼の時代、収入と支出をうまくコントロールできない財政管理システムだったことも災いして、ヨーロッパからの負債は益々増え続け、1875年に新憲法を定めたものの効果なく、帝国の財政破綻を食い止めることができなかった。1878年、遂にトルコ国債債務の支払が不能となって破産したため、1881年、西洋列強はオスマン帝国債務管理局をイスタンブールに設立してオスマン帝国の財政を管理下に置いた。現地ガイドのオカンさんは、オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国からの借金が原因で滅んだと説明した。 |
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「皇帝の門」の先に建つドルマバフチェ・モスク/イスタンブール新市街 2010.4.13 08:45
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▲▼ 「皇帝の門」の少し先には、ドルマバフチェ宮殿を建てたスルタン・アブデュルメジト I 世の皇太后ベズミ・アレムが私財の殆どを費やして1855年に造らせたバロック様式のドルマバフチェ・モスクがある。このモスクのミナレット(尖塔)は、世界で最も細いといわれている。 |
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モスクと皇帝の門の間に建つネオバロック調の時計台は、オスマン朝末期にシルケジ駅からオリエント急行でヨーロッパに亡命した第34代スルタン・アブデュルハミド II 世(在位 1876-1909)が1895年に造らせたもの。 |
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▲▼ ドルマバフチェ宮殿の「皇帝の門」は、オスマン帝国が誇る豪華な門で、一見に値する。写真下は、皇帝の門の前で軍楽隊(メフテルハーネ)が軍楽(メフテル)を演奏しているシーンで、往時のオスマン・トルコの栄華を彷彿とさせる。門の前に置かれた台形の踏み台は、衛兵が立つ場所である。
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BGMは、メフテルの名曲4曲のメドレーである。
(1) 「ゲンチ・オスマン」 'Genç
Osman'(若きオスマン) 民謡に基づく曲 マカーム・ムステエル
(2) 「メフテル・マルシュ」
'Mehter Marşı'(軍隊行進曲) マカーム・マーフール イスマイル・ハック・ベイ作曲
(3) 「エステルゴン・カレスィ」
'Estergon Kal'asi'(エステルゴン城) マカーム・ヒジャーズ
(4) 「ジェッディン・デデン」
'Ceddin Deden'(祖父も父も) マカーム・ヒュセイニー イスマイル・ハック・ベイ作曲
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軍楽メフテルの演奏/ドルマバフチェ宮殿「皇帝の門」
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写真:フリー百科事典Wikipedia |
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▼ 朝9時の開門を待っていたところ、門が開くと同時に配備に付く衛兵たちが行進してきた。ヨーロッパ諸国の衛兵と違って服装は地味で、実戦的な装備である。オスマントルコ時代と比べると、明治政府と江戸幕府のような関係であり、興味深い。 |
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はるあした えいへいたちの くつのおと |
Spring morning, the sound of footsteps of the guards. |
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チューリップが美しい噴水庭園セラムルック・ガーデン Selamlik Garden
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▲▼ 9時の開門と同時に一番乗りで宮殿の内部に足を踏み入れた。美しい噴水が印象的なセラムルック(行政区画)・ガーデンの向こうに、ドルマバフチェ宮殿があった。見学はツアー形式で、前のグループが退場しないと次のグループが入れない。トプカプ宮殿のように我先に殺到するという混雑はないかわり、ゆっくり見ていると早く出ろと急がされる。見学スペースが空いていても前の組が全員退室するまでは次のグループの入室が許されないので、非効率でもある。豪華な宮殿内部を撮影しようと臨んだが、残念ながら内部は全室撮影禁止となっていた。 |
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ドルマバフチェ宮殿の館内は豪華なヘレケの絹の絨毯で敷き詰められ、バカラ製の巨大なシャンデリアやクリスタルの階段など、贅を尽くした装飾や調度品に圧倒される。 |
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写真:フリー百科事典Wikipedia |
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▼ 圧巻は、中央大広間を占める「儀式の間」である。その広さもさることながら、高さ36mの天井から吊された重さ4.5トンもあるシャンデリアは、イギリスから購入したもので、750個のクリスタル・キャンドルがつけられたバカラ製の特注品で、世界一の大きさだという。 |
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ムスタファ・ケマル・アタチュルク Mustafa Kemal Atatürk
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▼ 初代トルコ共和国大統領のムスタファ・ケマル・アタチュルク Mustafa Kemal Atatürk は、イスタンブールに滞在するときは、ドルマバフチェ宮殿のかつてはハレムだった一室で公務に当たり、執務中に亡くなった。その部屋は現在も「アタチュルクの部屋」として、そのときのまま保管され、公開されている。彼の偉業を偲ぶために、ドルマバフチェ宮殿内の時計は、彼の死亡した9時5分のままになっている。 |
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▼ ムスタファ・ケマル・アタチュルク(1881-1938)は、トルコ革命の指導者で、トルコ共和国の初代大統領(1923-1938)である。日本では、彼の革命当時の呼び名であるケマル・パシャの名で呼ばれることが多い。 |
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アタチュルクは、1915年のダーダネルス(ガリボリ)の戦いで一兵士から一躍英雄となり、1919年にはトルコ国民自由戦争のカリスマ的リーダーとなり、1920年以降、多くの侵略軍の攻撃に対して不可能と思われた勝利をおさめて国を独立に導き、600年間続いたオスマン帝国に終わりを告げ、1923年に新政府を組織してトルコ共和国を建国し、初代大統領となった。 |
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トルコ共和国建国の父ムスタファ・ケマル・アタチュルク |
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資料
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▲ アタチュルクは「トルコの父」と称され、民主主義を導入し、政治と宗教を分離し、国字をアラビヤ文字からラテン文字に換えて教育に尽力するなど、トルコの近代化を強力に推進した国家的英雄で、広くトルコ国民から慕われている。 トルコ帽とスカーフを禁止したことは、丁髷を禁止した明治維新の断髪令に相当するもので、文明開化、西洋化を目指すものであった。「アタチュルク」とは、トルコ語で「トルコのリーダー」という意味で、イスタンブールのアタチュルク国際空港は、彼の名を記念して命名されたものである。 参照:ムスタファ ケマル アタチュルク |
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豪華な中央大広間を見物して1階から退出 10:10
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▼ ドルマバブチェ宮殿を見学した後、イスタンブールを後にし、専用のツアーバスでマルマラ海西岸を南下。途中で、キョフテ köfte (ミートボール料理)の美味い店で昼食を取った。右下の gemini の白いバスが今回利用したツアーバスで、座席もゆったりしていて、快適だった。 |
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キョフテ KÖFTE(ミートボール)の店で昼食 13:20
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▼ この日は移動日で、イスタンブールから320km、6時間のバスツアーでチャナッカレを目指して旅を続けた。途中、黄色の鮮やかな絨毯のような菜の花畑と白い花をつけたサクランボの木が車窓を飾り、見ていて飽きることがなかった。 |
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美しい黄色の菜の花畑と白い花をつけたサクランボの木 14:50
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▼ 我々一行は、ツアーバスに乗ったまま午後4時出港の海峡横断フェリーに乗船し、ゲリボル Gelibolu からダーダネルス海峡を渡ってラプセキLapseki に入り、海峡東岸を南下してチャナッカレに向かった。 |
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ダーダネルス(チャナッカレ)海峡 Çanakkale Boğazı
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▼ チャナッカレ海峡(Çanakkale Boğazı, 英語:Dardanelles)は、地中海につながるエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡で、ボスポラス海峡とともにヨーロッパとアジアの境界をなす。日本では、英語名のダーダネルス海峡がよく知られている。古くはヘレスポントス海峡とも呼ばれていた。 |
海峡の長さは約60kmあるが、幅は1.2〜6kmほどしかない。水深は最大82m、平均55m。表層水はマルマラ海からエーゲ海に流れ、底層水は逆方向に流れているという。 |
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ゲリボルからフェリーに乗ってダーダネルス海峡を横断 16:08
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▲▼ チャナッカレ海峡という名称は、アジア側にある都市チャナッカレに由来する。地名に含まれるカレ kale は城を意味する言葉で、付近にはチャナッカレの地名のもとになった有名な城塞群がある。ヨーロッパ側はガリポリ半島で、軍事上の要衝であるガリポリ(ゲリボル)の町がある。 |
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この海峡は古代より戦略的な要衝であり、トロイ(トロイア)戦争は、この海峡のアジア側のトロイで戦われた。ペルシァ帝国のクセルクセス I 世やマケドニアのアレキサンダー(アレクサンドロス)大王は、領土拡張のためにこの海峡を渡り、オスマン帝国第2代スルタン・オルハン I 世(在位 1324-1362)がビザンツ帝国のヨハネスVI世の要請を受けて初めてヨーロッパに渡ったのもこの海峡であった。のちにオスマン帝国はこの地で艦隊を創設し、帝国が東地中海の覇権を握る上でも、首都イスタンブールを南から防衛する上でも非常に重要な地となった。 |
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船内で0.5リラ(30円)のチャイを飲みながらダーダネルス海峡を渡る
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▲▼ 第一次世界大戦中の1915年、オスマン帝国の首都攻撃を目指すイギリスら連合国によってダーダネルス海峡進攻作戦が行なわれたが、ガリポリ半島を戦場として行なわれた上陸作戦は、ムスタファ・ケマル率いるオスマン軍の猛烈な抵抗にあい、多大な犠牲者を出して失敗に終った(ガリポリの戦い)。 |
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当時のイギリス海軍大臣ウィンストン・チャーチルは、作戦失敗の引責により、一時的に政治の舞台から身を引くことになったが、この勝利の勢いに乗ったムスタファ・ケマルは、困難な独立戦争を戦い抜き、1923年にオスマントルコを滅ぼしてトルコ共和国が誕生した。 |
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▼ 僅か30分の船旅でアジア大陸に上陸。ダーダネルス海峡の東岸を南下してチャナッカレに到着し、全員、海峡ビューのコリン・ホテルにチェックインした後、ホテル近くの大規模なスーパーで土産物や特産品のショッピングを楽しんだ。 |
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海峡ビューの部屋から見たダーダネルス海峡/コリン・ホテル(チャナッカレ) 17:35
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