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Wa☆Daフォトギャラリー

 旅紀行日本の裸祭り
2010年7月25日改訂

今 日

昨 日

♪山伏/邦楽囃子

白褌の波に洗わる秋の垢離  北舟

見付天神裸祭

The autumnal purification, white loincloths being washed by the waves.

2003年5月10日制作

一番觸の浜垢離/遠州灘

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一番觸の浜垢離/遠州灘福田海岸(静岡県磐田市)

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劇場訓蒙図彙の挿絵

はじめに

 これまで播州の秋祭りを中心にふんどしに関する筆者の思い入れを綴ってきたが、播州秋祭・ふんどし談義4/4で一応の決着をみた。
 しかし、播州の秋祭り以後も裸祭りの収録を重ねていくうちに、新たな話題が増えてきた。また、本稿が非常に好評であることもあり、今後、ふんどし全般に関する話題を書き綴ることにした。

★☆

 

 ■■■ 江戸時代の ■■■
 
   
▼ 喜田川守貞(きたがわ・もりさだ)が著した守貞謾稿(もりさだまんこう)江戸時代の風俗や事物を説明した百科事典で天保8年(1837)に起稿され、30年間に全35巻(「前集」30巻、「後集」5巻)が刊行された。1600点にも及ぶ付図と詳細な解説によって、近世風俗史の基本文献として名高い。
 
 守貞謾稿を紐解くと、江戸時代に使われていた六尺褌、越中褌、畚(もっこ)褌の図解が載っている。六尺褌は、長大約六尺(約180cm)と表示され、両端を縫ってほぐれないようにしている。この長さだと、前袋式に締めるのには短く、殆どの江戸っ子が前垂れ式で締めていたことがわかる。背面の図も掲載されており締め方と止め方は現在の相撲まわしと同じだが、端を折り返して止めており、褌を外すときに先端を引っ張ればさらりと解けるように工夫されている。
 六尺褌と越中褌の前垂れを三角に処理する図があり、「褌の余りを三角に折って挟む」と解説されている。前垂れが長すぎると、作業するのに邪魔になるためこのように処理することで前垂れが股に絡まずすっきりとする。浮世絵(錦絵)の文献に登場する写真左側の頬被りをした男性の絵は、旅人たちと共に描かれていたので、駕篭舁(かごかき)か馬子と思われるが、赤褌の前垂れを三角に処理している。
  三角折りの褌

褌の解説/守貞謾稿

 
▼ 写真下は、安藤広重の有名な作品で、虎の門外京極家の藩邸内にあった金比羅大権現に寒参りして帰途に着く二人づれを描いたもの。寒の入りから節分までの30日間の寒行は、他季の平易な修行より功徳に優るという仏教の教えからブームとなった。江戸時代には、年季奉公の職人の弟子たちが技能向上を願って夜間、褌一丁で長提灯を持ち、鈴を鳴らしながら不動尊や金比羅大権現に参拝する光景がみられた。この二人の職人たちは、守貞謾稿に解説された三角折りの褌をしている。このように処理することで、粋に見えたのかも知れない。
しかし、北斎漫画に描かれた褌は、前垂れ式六尺褌が殆どで、三角に処理した褌はまったく描かれていない。
▲ 畚(もっこ)褌は、土などを運ぶ畚に似ていることからその名があり、前垂れのない越中褌ということで、更に布を倹約できる。守貞謾稿には、越中褌の下に解説図だけが書き込まれているが、畚褌に間違いない。江戸っ子が愛用したのは六尺褌が圧倒的に多く、次いで越中褌、畚褌となる。越中褌は、激しい運動をすると緩んでくるので労働には不向きで、老人や僧侶、神職、按摩、曲芸師などに使われていた。畚褌は更に少なく、歌舞伎役者などに使用例が見られる。
「名所江戸百景」虎の門外あふひ坂/廣重画

「名所江戸百景」虎の門外あふひ坂/廣重画 

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▼ 北斎漫画十一編には、素人相撲が描かれているが、前垂れ式六尺褌と前袋式六尺褌の二人が相撲を取っている。前袋式六尺褌は、六尺よりも長いので、自分の身体に合わせて反物から切り出す必要がある。守貞謾稿の六尺褌は、代表例であり、六尺褌にもバリエーションがある。

素人相撲/北斎漫画十一編(部分)

素人相撲/北斎漫画十一編(部分)

 
 守貞謾稿に描かれた越中褌は、図が悪く長さが足りない。実際は六尺褌の半分の三尺(90-100cm)ほどで、三尺褌とも呼ばれている。現在のように紐を固定せず、布の一端を袋縫いにして、紐を通す方式である。これだと、使っているうちにどちらかに偏ったり、束ねられてしまったりして使い勝手が悪いように思われるが、この方式が一般的だったようである。
当時、ベストセラーとなった北斎漫画の十二編には、この方式の越中褌を着用した老人の絵が掲載されている。越中褌に紐が通された状態が正確に描かれており、北斎の観察眼に感心する。
 今から400年ほど前の慶長時代(1596〜1615)に出現したといわれる越中褌が広く普及するようになったのはズボンをはくようになった明治以降だといわれている。越中褌は、倹約のために越中守(えっちゅうのかみ)が発明したという説があるが、守貞謾稿には、大坂の越中という芸妓が客に贈り物としたのが始まりと記されている。

葛飾北斎が描いた越中褌/北斎漫画十二編(部分)

葛飾北斎が描いた越中褌/北斎漫画十二編(部分)

 
▼ 写真下は、北斎漫画十二編に描かれている海浜風景で、釣り針が頭に引っかかった子供のそばで、鰻を捕っている男性が描かれているが、臀部にあるべき褌がない。北斎が描き忘れたとも思えない。月代(さかやき)を剃っているので、成人男性であることは間違いなく、貧しくて褌を買えなかったものと推測される。
 江戸時代の布は高価で、庶民にとって褌は貴重品だった。延宝元年(1673)に越後屋が江戸で開業し、布を切り売りするまでは呉服屋は晒(さらし)を一反単位でしか売らなかった。六尺褌なら一反から6本作れるため裏長屋の住人たちは6人で金を出し合って買っていたという。
褌をしていない男性/北斎漫画十二編(部分)

褌をしていない男性/北斎漫画十二編(部分)

 
▼ 下の戯画は、國芳が丁稚奉公の小僧を描いたもの。十歳前後で店に入り、元服するまでの数年間が丁稚小僧時代で、店では子供衆(こどもし)や小僧と呼ばれ、店内の雑用に使われた。商家は明六つ(あけむつ)(午前6時ころ)に店を開けたので、眠い目をこすりながら早起きの小僧が起きて身支度をしているが、子供なので褌はしていない。
「教訓善悪小僧揃」ねぞうのいゝ小僧 早起きする小僧/國芳戯画(部分)

「教訓善悪小僧揃」ねぞうのいゝ小僧 早起きする小僧/國芳戯画(部分)

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▼ 江戸後期に活躍した鍬形寫ヨ(くわがた・けいさい)(1764-1824)は、浮世絵師北尾重政の門人で、津山藩松平家のお抱え絵師となった異色の経歴を持つ。彼が当時の銭湯を描いたのが下の絵である。江戸中期以前は、銭湯は蒸し風呂で、男性は湯褌(ゆふんどし)をして入浴していたが、後期になると、浴槽に浸かるようになり、現在と同じように全裸で入浴するようになった。貧乏で褌を買えない人は別として、銭湯は、男性が唯一褌を解く場所となった。ちなみに、当時、銭湯は、江戸では湯屋(ゆうや)、関西では風呂屋と呼ばれていた。
 番台の周辺が脱衣場で、洗い場との仕切りはない。奥の人がくぐって出入りしているところが石榴口(ざくろぐち)で、湯気が逃げないように低くなっており、その奥に湯舟があって身体を温めた。右奥は、湯汲場で湯汲(ゆくみ)が客に上がり湯を与えている。客は手前の水槽の水で湯をうめ、適温にして身体を洗った。今のように腰掛けがなく、床に坐って洗っているが、洗い桶(留桶)の上に座っている人もいる。洗い場の床は板間なので滑りやすく、転んで尻餅をついている姿が描かれている絵もある。
近世職人尽絵詞/寫ヨ(部分)
番台 石榴口 湯汲  

近世職人尽絵詞/寫ヨ(部分)

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 褌は貴重品で買えない人もいるくらいなので銭湯の脱衣場に置いていた褌を盗まれることも度々で用心深い人は監視のできない石榴口の奥に入るときには、手拭いで褌を頭の上に縛りつけて湯舟につかった。旅の最中に行き倒れると、褌から先に略奪されたという。

 古くなった褌でも古着屋に売ることができ、染め直して再利用されたり、仕立物に利用された。褌のレンタル店もあった。また、新品の褌は肌触りが悪いので、無料で高僧に使ってもらい、ほどよい具合になったときに、回収して洗い張りし、販売されることもあったという。江戸時代は古着全盛の時代なので、人の肌着でも洗い張りすれば、受け入れられた。
 和歌山県和歌山市で発見された6世紀初めの井辺八幡山古墳(いんべはちまんやまこふん)から出土した埴輪(はにわ)の中に褌をした人物埴輪があり、日本人の褌の歴史は古墳時代に遡る。褌を着用した埴輪は日本国内で7例あり、いずれも裸体に褌をしたものだという。高温多湿の日本ならではの褌埴輪である。
 褌の素材は、古くは麻布だったが、江戸期になると木綿が用いられるようになった。上層階級や通人は、縮緬(ちりめん)や緞子(どんす)、綸子(りんす)、繻子(しゅす)などを用いた。殆ど六尺褌で、江戸・明治期を通じてハンダコは存在しない。これだけ長い歴史を有する褌を捨て去るのはとても惜しいことである。筆者が褌に日本人のアイデンティティ(日本人らしさ)を感じるのは、先祖から受け継いだDNAのせいではないだろうか。 2010.7.17 (7.22 改訂) 和田義男
 

 

■■■ 北斎が描いた江戸の裸褌文化 ■■■
 
   
「長身六尺(180cm)の江戸っ子で90歳まで生きた有名な浮世絵師は?」と問われれば誰でも葛飾北斎(宝暦10年-嘉永2年/1760-1849)と答えるだろう。頑固一徹な奇人・変人として知られ、改名癖があって春朗宗理北斎画狂人、為一など30ものペンネームを次々に取り換え、生涯に93回も転居した放浪癖は異常ともいえ、老境には各地を旅して廻ったという健脚の持ち主であった。
 

冨嶽三十六景 凱風快晴(通称:赤富士)/為一(北斎)筆

 

葛飾北斎 天保10年(1839年)
79歳(数え年80歳)の頃の自画像

冨嶽三十六景 凱風快晴(通称:赤富士)/為一(北斎)筆 葛飾北斎 天保10年(1839年)79歳(数え年80歳)の頃の自画像

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▲▼ 為一と称した晩年の代表作「冨嶽三十六景(ふがく・さんじゅうろっけい)」の「 凱風快晴」(通称:赤富士)や「神奈川沖浪裏」は、誰もが目にした名作で、筆者の大好きな作品である。「冨嶽」は富士山を指し、各地から望む富士山の景観を描いたもので、文政6年(1823)頃より作成が始まり、天保2〜4年(1831-1833)頃に刊行されたといわれている。発表当時の北斎は72歳で晩年期に入っており、西洋画法を取り入れて遠近法が活用されていることや、当時流行していた「ベロ藍」ことプルシャンブルーを用いて摺ったことも特色としてあげられている。
 当時、浮世絵の風景画は「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したといわれる。
「冨嶽三十六景」神奈川沖浪裏/為一(北斎)筆 

「冨嶽三十六景」神奈川沖浪裏/為一(北斎)筆 

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▲▼ 浮世絵(錦絵)の構図や色彩感覚は、写真撮影のアングルや色調を決める際にとても役立つため、時間があれば鑑賞しているが、特に北斎が描いた絵には、頻繁に裸褌姿が登場する。そこには高温多湿の気候風土に育まれた江戸時代の庶民の暮らしや社会風俗が赤裸々に描かれており、当時の裸褌文化を知る上でとても貴重と思われるので、紙芝居風ふんどし談義として以下に紹介したい。
富本丸船中/画狂人北斎画
富本丸船中/画狂人北斎画

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▲ 北斎は壮年期より摺物(すりもの)の名手として知られていたが、最も多く佳作を出したのが上のような横長判摺物だったという。画狂人北斎のサインのある「富本丸船中」には、屋形船の上で棹を操る船頭や船方が描かれており、両名とも前垂れ式六尺褌を締めている。定番の赤褌(あかふん)で、「板子(いたご)一枚下は地獄」という過酷な環境で働く船乗りたちにとって赤は魔除けの色として大事にされた。
 現在の外航航路に就航する大型商船に当たる千石船は、江戸時代の物流を担う花形産業だが、船頭(船長)や水主(かこ)たちは緋縮緬*(ひちりめん)の褌を締めていた。箱館の町を拓いた高田屋嘉兵衛の生涯を描いた司馬遼太郎の「菜の花の沖」には、嘉兵衛はじめ、非縮緬の褌を粋に締めた海の男たちの活躍が詳しく描かれている。水泳の際に着用する水褌(すいこん)も赤褌が多いのはそのためである。   *【緋縮緬】絹を平織りにして緋(赤)色に染めた高級織物
「冨嶽三十六景」御厩川岸 両國橋夕陽見/為一(北斎)筆 

「冨嶽三十六景」御厩川岸 両國橋夕陽見/為一(北斎)筆 

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▲ 「冨嶽三十六景」御厩(おうまや)川岸 両國橋夕陽見は、隅田川の渡しのうち、現在の厩橋(うまやばし)付近にあった渡し舟を描いている。渡し舟には按摩や物売り、武士、長い竿を持った鳥刺しなど、様々な人々が乗り合っている。両國橋の彼方には既にシルエットになった夕暮れどきの富士山が見える。

 川岸に江戸幕府の「浅草御米蔵」があり、その北側に厩(うまや)があったのでこの名がついた。元禄3年(1690)に渡しとして定められ、渡し船8艘、船頭14人、番人4人がいたという記録が残る。渡賃は1人2文で武士は無料。明治7年(1874年)の厩橋架橋に伴い廃止された。両国橋の上流・南本所石原町から浅草三好町に向かって一丁櫓(いっちょうろ)を漕ぐ船頭は着物を着ているが尻端折り(しりはしょり)しているので青色の六尺褌が見えている。船方(ふなかた)・馬方(うまかた)・土方(どかた)(天下の三方(さんかた))と呼ばれた屋外労働の一部門である船方は必ずしも赤褌とは限らなかったようだ。舟を支える水の深い藍色はとても美しく、北斎自慢の色使いである。

「千絵の海」 絹川はちふせ/為一(北斎)筆 

「千絵の海」 絹川はちふせ/為一(北斎)筆 

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▲ 上の絵は、「千絵の海」シリーズの「絹川はちふせ」である。波立つ水面には働く男たちが描かれているが、岸には一人の男がノンビリと珍しい漁撈(ぎょろう)の様子を眺めており、彼方には馬子(まご)の姿も見えて、長閑(のどか)な雰囲気が良く描かれている。「はちふせ」とは鉢伏のことらしく、竹籠をかぶせて魚を捕獲する原始的な漁法のようである。全員諸肌脱ぎになった漁師たちは、着物が濡れないよう尻端折りをしているため、六尺褌が見えている。白ものだけでなく青ものなどもあり、北斎は丁寧に色づけしている。

北斎漫画 四編 浮腹巻(左)

 

北斎漫画 四編 浮腹巻(右)

北斎漫画 四編 浮腹巻(左) 北斎漫画 四編 浮腹巻(右)

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▲ 北斎の絵で特に参考になるのが、江戸の百科事典ともいえる絵手本(デッサン集)の「北斎漫画」である。初編の序文によると、文化9年(1812)の秋、名古屋の後援者で門人の牧墨僊(まきぼくせん)(1775〜1824)宅に半年ほど逗留して300余りの下絵を描いた。これをまとめ文化11年(1814)、北斎55歳のとき、名古屋の版元永楽屋東四郎(永楽堂)から初編が発行され、好評を博した。その後明治11年(1878)までに全十五編が発行された。人物、風俗、動植物、妖怪変化までありとあらゆるもの約4,000図が描かれている。国内でベストセラーになっただけでなく、輸出陶器の梱包材に使われたことがきっかけでフランスの銅版画家に見出され、ヨーロッパのジャポニズムの火付役になったというエピソードも残されている。
 四編の見開きの頁に描かれている水泳の図は、まさに裸褌姿そのもので、「浮腹巻(うきはらまき)」と説明書きがあり、当時既に浮き輪や浮き袋があった様子が描かれている。子供たちはフリチンで泳いでいる。大人たちは、前袋式六尺褌いわゆる水褌を締めている人が多いが、中には越中褌か畚(もっこ)褌の人もいる。左頁には、瓶の中から海中の様子を眺めている姿が描かれており、北斎の空想が入っている。その下に、裃に水褌の男性が描かれているが、身分の高い人は裃をしたまま泳ぐのだろうか。多分、北斎独特のユーモアだと思われる。

北斎漫画 三編 相撲(左)

 

北斎漫画 三編 相撲(右)

北斎漫画 三編 相撲(左) 北斎漫画 三編 相撲(右)

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▲ 北斎漫画・三編には、大相撲の絵が描かれており、躍動する力士たちの取組の様子がリアルに活写されている。相撲の衣装は、下着の褌が進化した相撲褌(すもうふんどし)(まわし)で、これも水泳同様、裸褌文化の最たるものである。力士たちが相撲褌に下がりをつけているのは、現在の大相撲と変わらないが、下がりは褌の前垂れで、相撲の邪魔にならないように短くなっている。

北斎が春朗時代(安永8年-寛政6年/1779-1794)に描いた相撲絵

出羽海金蔵 鬼面山谷五郎

高嵜市十郎 渦ヶ渕勘太夫

千田川吉五郎 高根山与一右ェ門

出羽海金蔵 鬼面山谷五郎 高嵜市十郎 渦ヶ渕勘太夫 千田川吉五郎 高根山与一右ェ門

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▲ ちなみに、北斎は20〜34歳(安永8年-寛政6年/1779-1794)まで春朗(はるろう)というペンネームで錦絵を描いていたが、この頃の相撲絵が上図である。まだ若い修業時代の作品だが、力士の表情や姿形(すがたかたち)をリアルに描いており、下がりが相撲褌(まわし)の前垂れであることが分かる。まわしは現在のように厚手のものではなく、後ろ立褌(たてみつ)(Tバック)が臀部に食い込んでいて見えない状態である。

北斎漫画 三編 豊年踊り(左)

 

北斎漫画 三編 豊年踊り(右)

北斎漫画 三編 豊年踊り(左) 北斎漫画 三編 豊年踊り(右)

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▲▼ 北斎漫画・三編に登場する豊年踊りの絵は相撲褌と同じような下がりをつけた褌の男が自由奔放に踊る姿を多角的に描いており、名作に数えられている。着物の欠点は、動き回る際に裾が邪魔になることで、男たちは裾端折り(すそはしょり)や尻端折り(尻からげ)をしてその欠点を正した。そのため着物の下に隠れていた褌があらわになるがこれが男の粋として女性たちの関心を買い、必要ないときでも尻をからげて歩く人がいたという。

北斎漫画 三編 豊年踊り/拡大図

北斎漫画 三編 豊年踊り/拡大図

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▼ 下の図は、北斎漫画・九編に収録されている肥満男性の裸褌姿で、士卒ノ英氣養圖(しそつノえいきをやしなふづ)というタイトルが付されている。士卒は兵士(武士)のことなので、たまには下男や下女のやる仕事をして英気を養っている武士ということなのだろうか。生活が豊かで食糧事情が良ければ、大相撲の力士でなくとも食べ過ぎて肥満になる男性がいたのだろう。高温多湿の夏場を過ごす江戸庶民の日常の様子がリアルに描かれている。

北斎漫画 九編 士卒ノ英氣養圖(左)

 

北斎漫画 九編 士卒ノ英氣養圖(右)

北斎漫画 九編 士卒ノ英氣養圖(左) 北斎漫画 九編 士卒ノ英氣養圖(右)

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▼ 下図は、六編に描かれている棒術の絵である。尻端折りをしているのはこれまでと変わらないが、後ろ立褌(たてみつ)(Tバック)と前垂れの両方が描かれている。着物の柄は丹念に描き分けられているが、男たちの前垂れ式六尺褌は、いずれも白の一色である。これまでの絵に比べて、変化が少なく、同じようなポーズがあり、北斎にしては凡庸な絵に見える。

北斎漫画 六編 棒術(左)

 

北斎漫画 六編 棒術(右)

北斎漫画 六編 棒術(左) 北斎漫画 六編 棒術(右)

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▼ 下図は、北斎漫画・八編に描かれた無禮講(ぶれいこう)で、広辞苑によれば、貴賤・上下の差別なく礼儀を捨てて催す酒宴をいう。越中褌や畚(もっこ)褌に烏帽子(えぼし)というへんてこなスタイルの裸男たちが色々なポーズを取っているが、彼らは曲芸師たちで、余興として演じているものなのだろう。
 越中褌は、武士や江戸っ子たちにはあまり見られないが、筆者の調査では僧侶、神職、按摩、曲芸師など、特殊な集団に愛用者が多い。勿論、武士や町人にも越中褌を愛用している人はいたが、多くはない。越中褌は三尺褌とも呼ばれ、布が六尺褌の半分で済むことから、貧乏人や倹約のために推奨されたという。横褌(よこみつ)が細紐なので緩みやすく活動的でないため、帰宅してくつろぐときに着用し、漁撈や土木作業などの労働の場では六尺褌に締め替えていた。

北斎漫画 八編 無禮講(左)

 

北斎漫画 八編 無禮講(右)

北斎漫画 八編 無禮講(左) 北斎漫画 八編 無禮講(右)

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▼ 三編には農作業の図が掲載されている。労働の場の男性は、殆どが尻端折りをしている。そうでなければ丈の短い野良着を着ているので、下半身が露出していて涼しい。女性たちは、暑い屋外の作業でも、姉さんかぶりをする位で、着物を着て、裾を垂らしている。女性たちの身体は、汗疹(あせも)だらけだったのではないだろうか。
 当時、男性は、公道でも褌一丁で闊歩できる有り難い裸文化を享受していた。「夕涼みよくぞ男に生まれけり」は、宝井其角の詠んだ川柳である。褌一丁の裸の男たちが縁台で涼んでいる姿を詠んだもので、高温多湿の日本の夏は、こうするしか凌げなかったのだろう。エアコンの効いた快適な空間でこの原稿を書いていて思うことは、現代の日本ではエアコンや冷蔵庫、テレビといった文明の利器が普及し、江戸時代の殿様も味わえない素晴らしい環境の下で快適に暮らすことができ、世界一の長寿を誇る国となった。本当に有り難いご時世になったものだと思う。

北斎漫画 三編 農作業(左)

 

北斎漫画 三編 農作業(右)

北斎漫画 三編 農作業(左) 北斎漫画 三編 農作業(右)

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▼ 白黒ばかりだったので最後はカラー刷りで〆よう。この絵は、「下手の鞠(へたのまり)と称する鳥羽絵(とばえ)である。鳥羽絵は浮世絵(錦絵)の一種であるが、江戸時代に描かれた略画体で漫画チックな戯画(ぎが/ざれが)である。北斎は、早くから戯画にも興味を持っていたようで面白い作品を残している。通常鳥羽絵は細身で長身の人物が描かれ今日の漫画文化の先駆けともいわれているが、江戸でブームとなった頃、北斎もそれを真似た絵を描いて楽しんでいたのだろう。
 蹴鞠(けまり)は、皮靴で革製の鞠を蹴上げて地面に落とさないようにする公家(くげ)の遊びだったが、武家や町人へと普及した。「アリアリハ いゝが追つかけ おん廻ハし 尻ひつからげ 立向ふ 下手の鞠」 と説明書きがあるが、この二句は、柳樽(やなぎだる)にある川柳(せんりゅう)狂句で、「アリヤアリヤ」は鞠を蹴るときの掛け声。この絵は、熊さん八つあんが蹴鞠の真似をして遊んでいるところで、鞠が八つあんの頭に当たってしまったところを滑稽に描いている。両名とも尻ひつからげて(尻を端折って)立ち向かっているので、赤褌が見えている。
下手の鞠(鳥羽絵)/北斎筆 

下手の鞠(鳥羽絵)/北斎筆 

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 筆者は、北斎漫画全十五編を全て調査してみたところ、当時の男性は、士農工商の階層を問わず、六尺褌、越中褌、畚(もっこ)褌のいずれかを着用しており、ハンダコ(半股引/パンツ)姿は見られなかった。また、浮世絵(錦絵)も数多くチェックしたが、ハンダコ姿は見当たらなかった。
 ハンダコは、大正時代に発明された下着であり、江戸・明治期の日本男性の下着は褌だけだったことは、北斎漫画や浮世絵を見ればよく分かる。昨今のテレビ局の低俗な時代劇には、しばしばハンダコ姿の武士や町人たちが登場する。賭場開帳のシーンでも渡世人たちはハンダコ姿で、褌をしているのを見たことがない。あり得ないシーンを平気で放映するディレクターのレベルの低さを嘆いているところであるがNHKの大河ドラマやしっかりした映画監督による時代劇では時代考証がきちっとなされていて男性は必ず褌姿で登場する。当たり前のことを喜ぶのは腹立たしいことだが低俗粗悪な時代劇があふれて、日本伝統の裸褌文化をないがしろにしているテレビ局に断固抗議すると共に、一刻も早く低俗時代劇が淘汰されていくことを期待したい。〈 完 〉 2010.7.9 和田義男
 

 

■■■ 江戸時代の裸褌姿の遊び絵 ■■■
 
   
▼ 浮世絵(錦絵)は、近年、芸術作品として高い評価を受けているが、筆者は、江戸庶民が手軽に手にして楽しんだ絵画であり、現代でいえば漫画のような身近な娯楽作品であり、余り芸術などと仰々しく云わなくても良いのではないかと思い始めている。江戸時代には、遊び絵という浮世絵(錦絵)が数多く描かれており、庶民たちは安価な作品を気軽に購入して楽しんだ。遊び絵の中で、裸褌姿が描かれている作品をここに紹介し、久しぶりの褌談義としたい。
 

【凡例】  ▲:上の画像の説明文  ▼:下の画像の説明文  〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示

欠留人物更紗あくびどめじんぶつさらさ

(國芳戯画)

欠留人物更紗(國芳戯画)

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▲ 写真上は、天保後期(1838-1844)一勇斎國芳が描いた欠留人物更紗(あくびどめ・じんぶつ・さらさ)(山本屋平吉版)ある。鼻の穴や口の中に手を入れてあくびをとめている様子が描かれている。説明に、「十四人のからだにて三十五人にミゆる」とある。一つの頭が二〜三人の体を共有する一頭多体画と、一つの下半身が二〜三人の上半身を共有する一体多頭画が輪になって描かれている。腹掛けの大工、盲目の座頭などの町人や武士、公家など様々な階層の裸の男たちが面白おかしく、更紗模様のように描かれているのが興味深い。ほどんどが色物の前垂れ式六尺褌を締めている。

身振みぶり

いろは芸

身振いろは芸

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▲ 絵文字は、人物や動物で文字を表す遊び絵であるが、写真上の「身振(みぶり)いろは芸」(正栄川口屋正蔵版)と名付けられたこの絵は、鶴屋南北作で、二代北尾重政が文政12年(1829)に描いた絵の中から筆者が裸褌姿の絵を取り出したもの。どの表情も生き生きと描かれていて面白い。前垂れ式六尺褌が多いが、「め」のように越中褌の男性も見られる。
人をばかにした人だ

人をばかにした人だ

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▲ 寄せ絵は、多数のものを寄せ集めてあるものを形づくる遊び絵であるが、写真上の「人をばかにした人だ」は、弘化四年-嘉永五年(1847-1852)頃一勇斎國芳が描いた大判(大和屋久兵衛版)で、有名な遊び絵である。あごを突き出して、人を馬鹿にしたような男の顔は、額に唾液で貼り付けた紙片を自分の口で吹き飛ばす遊びをしているところを描いたもの。眉は褌、目は椀、鼻の下のちょび髭は肩の入れ墨で、紙片はしぼりの手拭いである。体にも格子の浴衣を着た男たちが折り重なっている。詞書き(説明文)には、「人の心はさまざまなものだ いろいろくふうして よふよふ人一にんまへになった」とある。
人かたまって人になる
正じきな人(版下絵)
人かたまって人になる 正じきな人(版下絵)

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▲ 「人かたまって人になる」(左)は、弘化四年-嘉永五年(1847-1852)頃一勇斎國芳が描いた大判(大和屋久兵衛版)で、顔はすべて坊主頭の裸の男たち。眉も目も髪も黒い褌であるが、特に髪は越中褌を用いている。ささやかな髷(まげ)は金槌、からだは前と同じで折り重なった裸の男たち。指さす手は、足と手でできている。詞書きは「人おほき人の中にも人ぞなき 人になれ人 人になせ人」と読める。
▲ 「正じきな人」(右)は、弘化四年-嘉永五年(1847-1852)頃一勇斎國芳が描いた大判の版下絵で、オランダ国立ライデン民俗学博物館にあるもの。何らかの事情で出版されなかったため、版下絵だけが残された。オランダのシーボルトが買い集めて持ち帰った浮世絵コレクションの中にあったもので、裸の男たちが寄り集まった人物画である。団子鼻はハゲ頭、目はコテ、髷(まげ)は、羽根箒、鬢(びん)は団扇(うちわ)、大きく開いた口と舌はスイカを切ったもの。右上の風鈴は、後ろ向きの男で、短冊は褌の長い前垂れである。詞書きは「我内へ人のくるのでうるさけれ とはゆふものゝおまへでハなし 此あついのニ、こんなに人とつつかれてハたまらねへ どれ ちつとすゞみましやう しかし人げんハ 人ににくまれてハいけねへ おれなんぞも正じきニしているせいかして ともかくも こじつけでも人がよつてたかつて どふかこふか かやでもつつたり すいくハでもくへるよふな口をこじつけてくれた内がありがてへ」と長い。

一体多頭画(左)と一頭多体画(右)

あしばかり壱人もちいて四人かわる/せんどう 道ぶしん くぎうち 力もち かしら一ツざとうのすもふ  

一体多頭画(左)と一頭多体画(右)

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▲ 左の絵は、一体多頭画で、一つの下半身が四つの上半身につながっている。「あしばかり壱人もちいて四人ニかわる」との説明がなされ、せんどう 道ぶしん くぎうち 力もち が描かれている。
 
 「かしら一ツざとうのすもふ」と説明のある右の絵は、一頭多体画で、一つの頭を二体が共有している。二人の裸褌の座頭が相撲を取っている様子を描いたもの。絵文字の「め」も同様で、座頭は越中褌を愛用していたようである。右の男は色柄物の越中褌を締めている。いずれも色柄物の褌が丁寧に色づけされており、天保十年〜十三年(1839-1842)頃一勇斎國芳が描いた大判(山本久兵衛版)から抜粋したもの。

一頭多体画

取組行司三人 河津三郎 野五郎  

一頭多体画

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▲ 写真上の左の絵は、取組行司三人を描いた一頭多体画、右の絵は、河津三郎と股野五郎が相撲を取っている一頭多体画である。河津の方は後ろ立褌(たてみつ)のずれまで描いている。いずれも色柄物の褌が丁寧に色づけされており天保十年〜十三年(1839-1842)頃一勇斎國芳が描いた大判(山本久兵衛版 東京都立中央図書館所蔵)から抜粋したものである。
 以上、7点の遊び絵を紹介したが、丁寧に裸褌姿が描かれており、江戸時代の男たちの褌に寄せるこだわりの美意識が感じられる。江戸っ子たちは、遊び絵の世界においても、白褌を避けて色柄物を愛用していたことがよく分かり、興味深い。
                                                                           2010年6月27日(日)曇
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