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■■■ ふんどしを詠んだ俳句 ■■■
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○ 元旦やふどしたゝんで枕上 村上鬼城
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「現代俳句歳時記」(昭和38年石田波郷・志摩芳次郎編/番町書房)、「最新俳句歳時記」(昭和47年山本健吉編著/文藝春秋)、「新撰俳句歳時記」(昭和51年秋元不死男編/明治書院)の「新年」に掲載されている有名なふんどしの句である。 |
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・・・そのうち村上鬼城の句は三つの歳時記ともに採っている。百事一新の願いをこめて元旦を迎える気分を、さっぱりした清潔な褌をたたんで枕元においてある情景によってとらえたところが一つの趣向で、素材の面白さが歳時記編著者たちの目をとらえるからだろう。・・・(吟行版・季寄せ草木花/秋〈下〉 解説:本田正次 185〜186頁)
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○ 四十二の古ふんどしや厄落し 正岡子規
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子規らしい、非常に分かりやすい句。42歳の厄年(大厄)に身につけている褌を落として厄落しをする様を詠ったもので、褌に寄せる日本人の思いが彷彿としている。出典は松山子規会叢書第12集の「子規歳時 改訂版」。同書には次のような解説が載っている。
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節分の夜「犢鼻褌の類を捨つるは厄年の男女其厄を脱ぎ落すの意とかや。それを手に持ち袂に入れなどして往きたるは効無し、腰につけたるまゝにて往き、懐より手を入れて解き落とすものぞ」などいふも聞きぬ。(墨汁一滴)
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筆者訳:節分(2月3日)の夜「褌の類(男は褌、女は腰巻)を捨てるのは男女がその厄を脱ぎ落とすという意味があるらしい。それを(あらかじめ外して)手に持ったり袂に入れるなどして(神社に)往くのでは効果が無く、腰につけたままで往き、(その場で)懐から手を入れて(褌の類)を解き落とすものだぞ」などと話しているのも聞いた。(墨汁一滴)
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○ 褌に団(うちは)さしたる亭主かな
蕪村
(落日菴句集)
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| 江戸時代の夏、高温多湿の日本において普通に見られた光景をありのままに詠んだもの。宝井其角の「夕涼みよくぞ男に生まれけり」の句を思い出す。 |
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○ ふんどしで汗をふきふきはなしかな 小林一茶 |
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一茶の句に、こっけいな句ユーモアたっぷりの句が多いことは、よく知られている。夏の暑さのなかで褌一丁の男たちが話に興じている。額の汗が垂れて目にしみるので、褌の前垂れを手拭い代わりにして汗を拭っている様子が彷彿とする。 |
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○ ふんどしもなくてことすむ案山子かな 佐藤愛子 「今は昔のこんなこと」所収
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一口にふんどしといっても六尺褌もあれば越中褌もある。六尺褌というのは六尺の晒を腰にぐるぐる巻きつけて、その端を股ぐらに通して大事な箇所を包み込むもので、別名「しめこみ」という。 |
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真白な晒で下半身をキリリと締め上げた男の褌は老若を問わず力が漲(みなぎ)って見るからに勇ましく、胴長短足という日本人特有の体型にぴったり似合っていて、ご面相は問わず凛々しく美しくみえたものだ。「よしッ、褌締め直して行くぞ!」と男意識高揚させる時に褌がモノをいった。 |
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それに比べると越中褌はなんともだらしなく、頼りなげで貧乏くさい。三尺ばかりの小幅の晒の一方に細い紐がついている。それを腰の前で結び、その紐に股をくぐらせた布を通してのれんのように垂らす。実に簡単である。「緊褌(きんこん)一番」というにはほど遠い代物(しろもの)だ。 |
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・・・時代映画では雲助といわれた悪質駕籠屋や馬子などが法被(はっぴ)に腹巻、越中褌という格好をしている。農民一揆などでも汚い越中褌が、立てたムシロ幟とよく似合っている。一所懸命になればなるほど緊褌一番という趣にはほど遠いのが哀れをそそるのである。 |
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ところで私の父(佐藤紅緑)は越中褌の愛好家であった。褌についての父の持論は、褌はその中にあるかのものを、常に悠々飄々大空を舞う奴凧の如くに自由に揺蕩(たゆた)わせておくべきものだというのである。かのものはのびやかに育って大モノになっていく。それに伴い精神もまた悠揚迫らず男らしい風格を持つようになるというのである。 |
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それを何ぞや、サルマタなどという醜怪きわまるものを着用するやからが増えている。日本の男はサルマタをもって衰弱の一途を辿るに違いないと嘆いていた。 |
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若い頃、父は詐欺師の口車に乗って、・・・新聞社を立ち上げようと夢見て失敗した。・・・家財道具から着るもの一切、質屋の蔵に入っている。都合良く丁度夏に向う頃だったので、次々に着ている物を質屋に入れた後は越中褌ひとつで日を送るようになった。 |
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収入としては(かつて正岡子規に師事して、新聞の俳壇の選者などをしていた関係から)十句三十銭の俳句の通信添削料が入るだけである。少しは名が知られていたせいで、借金取りばかりでなく、俳人や俳句好きの訪れがあるが、その客たちを越中褌姿で迎えて、「褌の最も進歩したものは越中褌ですなあ」「褌の中で最も俳味のあるものは越中褌ですな」などとうそぶいていた。 |
当時の句日記に、「ふんどしもなくてことすむ案山子かな」という句がある。雨がつづいて褌の洗い替えがなくなった時の所感かもしれない。そのこだわりのなさは、越中褌の中でかのものを悠々と遊ばせた歳月によって造られたのかも。・・・
(今は昔のこんなこと 褌 佐藤愛子著 文春新書62〜65頁 2007.5.20発行) |
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○ 栄螺にもふんどしがありほろ苦し 津田清子 「七重(平三)」所収
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女性が「ふんどし」の語を詩歌の中で使った例は、あってもごく稀れだったのではなかろうか。別に異様なことともいえないが、やはり目をひく。しかもこの句、俳諧の正統たるおかしみを有する上に、結句「ほろ苦し」の利かせ具合も程がいい。一読、ああ面白いと思わせられる。(第十 折々のうた 大岡信著 33頁) |
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○ 子は裸父はててれで早苗舟 利 牛
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| 「ててれ」とは褌のこと。「ててら」ともいう。江戸時代初期の絵描き久隅守景(くすみもりかげ)の「夕顔棚納涼図屏風」に描かれた夕涼みの父子を早苗を運ぶ小舟に乗せたかのような景色である。 |
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○ ごろりと草に、ふんどしかわいた 種田山頭火
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| 山頭火は季語や語数にこだわらない自由律の俳人である。1925年に出家し、翌年〈分け入つても分け入つても青い山〉と詠み、生涯にわたる行乞(ぎようこつ)放浪の生活をはじめた。これが俳句とはとても思えないのだが、「ふんどしかわいた」が何もない天涯孤独の行乞の様子を偲ばせる。 |
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○ 物干しのふんどしに月やほととぎす 内田百
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アポロ十一号ちゅう物が、お月さまへ飛んで行って、お月さまを引っ掻いたり、くすぐったりしているらしい。いい加減にしておかないと、お月さまが少し軌道をこっちへ、地球の方へ動かしたりしたら、困った事になる。
お月さま、我々文学文章の徒に取っては、詩歌のセンチメントである。象徴であり、神聖であって、冗談ではない、科学者の勝手放題は迷惑とも何とも。・・・(まあだかい ちくま文庫 269-270頁) |
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○ 初春や紙ふんどしの土俵入り 大久保喬樹
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| さすがに子供たちが乳飲み子のうちはあわただしく、たしか、去年の正月あたりまでは、まだ紙おむつもとれてなくて、「初春や 紙ふんどしの 土俵入り」などと一句をひねったおぼえがあるが・・・。(風流のヒント 初春の巻 173頁) |