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ツアー2日目の6月13日(金)は、ザンクト・ゴアースハウゼンで昼食を取った後、ツアーバスでライン川の沿道を下り、約2時間ほどでボンに到着し、市内を観光した。 |
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古い歴史を有するボンは、ライン川の岸辺に開けた大学の町。僅か人口31万の小都市だが、第二次世界大戦後から1999年までドイツ連邦共和国の首都として発展してきた。1989年には、ローマ帝国によって町が開かれてから2000年目の記念日を祝った。音楽ファンにはベートーヴェンの生まれ育った町として名高い。 |
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ボン大学
Universität Bonn / Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität
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マルクスやハイネが学んだボン大学は、1818年に当時のプロイセン王国が設立。ドイツでは比較的歴史の浅い大学だが、その正式名にRheinische Friedrich-Wilhelms の名を冠しているように、当時のプロイセン王国が大学の充実に努めたため、その規模はドイツの他の大学にひけを取らないものとなっている。現在135以上の異なる国から5,000人以上の外国人学生を含む合計31,000人の学生が学んでいるという。 |
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ボン大学の中心となる校舎は、かつてのケルン選帝侯の宮殿を校舎に使っており、とても豪華である。芝生で覆われたキャンパスは広々としている。若きベートーヴェンはこの宮殿で演奏し、その天才振りを披露したことだろう。 |
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市庁舎(ラットハウス Rathaus )のあるマルクト広場はマーケット広場であり、午前中、野菜や花などの市が立つので、ドイツ人の暮らしぶりが良く分かる。午後も店が出ており、太陽の下でくつろぐ市民を見ることができる。 |
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八百屋では、旬のホワイト・アスパラガスが売られていた。夕食時に特別注文したところ、とても美味かった。 |
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♪ エリーゼのために Für Elise / Beethoven
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BGMに流れる美しい曲は、誰もが知っているベートーヴェンが作曲した「エリーゼのために」である。ピアノ・ソナタ「月光」などと同じく、この曲もひとりの女性に捧げられた曲で、相手の名はテレーゼという。当時ベートーヴェンは39歳でテレーゼは18歳、21歳も年下になるうら若き女性であった。 |
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なぜ「テレーゼ」が「エリーゼ」になってしまったのかというと、ベートーヴェンがあまりに悪筆だったため、写譜師が読み間違えたためだといわれている。テレーゼの手紙箱からは「エリーゼのために」の直筆譜と「お約束の作品です」と書かれたテレーゼ宛の手紙が発見されている。彼女と結婚まで考えていたベートーヴェンだったが、テレーゼの両親の反対などにより、また恋は実らず、結局、一生涯妻帯することはなかった。 |
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)はボンで生まれたドイツの作曲家。楽聖と呼ばれ、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人。その作品は古典派音楽の集大成とされている。ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンと発音する。 |
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ボンにはベートーヴェンが生まれた家が残されており、ベートーヴェンの家として一般公開されている。屋内にはベートーヴェンが日常使っていたハンマークラビアなどの楽器をはじめ、巨大な角(つの)型の補聴器、ペンや旅行用携帯机、時計やステッキ、ベートーヴェンの毛髪、直筆の手紙などが展示されている。特に今でいうピアノはどれも音が低く、夜の練習でも苦情が来ないように配慮されていたのには驚いた。 |
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ベートーヴェンの家族は何度も引越しているが、第二次世界大戦で焼失し、この生家のアパートだけが現存するという。ベートーヴェンが生まれたという屋根裏部屋には、彼の胸像が置いてあり、入口には彼が洗礼を受けたことが分かる洗礼者名リストが展示されている。そのお陰で、洗礼を受けた日が1770年12月17日であることが判明しているが、誕生日は不明で、12月16日頃とされている。 |
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資料 |
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ベートーヴェンの生涯 |
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終生独身をとおしたベートーヴェンは1770年父ヨハン、母マリアの次男として生まれ、一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であった祖父の支援により生計を立てていた。父も宮廷歌手であったが、アルコール依存のために喉を患い、収入は少なく、祖父が亡くなると生活が苦しくなった。 |
幼い頃より父から強制的に音楽の教育を受け、1778年にはケルンでの演奏会に出演、1782年よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。10代には、父に代わって家計を支えた。 |
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なつくさや べーとーう゛ぇんの せいかあり |
Summer grass, the house where Beethoven was born. |
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母マリアは父とは対照的にベートーヴェンを大切に育てた。1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンでモーツァルトに出会ったが、母が死去し、父と幼い2人の弟の世話のためモーツァルトに師事することを断念。 |
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1792年からウィーンに移住して活動を開始したが、既にモーツァルトは死去しており、ハイドンに師事。ウィーンではピアノの即興演奏の名手として名声を高めた。この頃父が死去する。 |
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20歳代後半より持病の難聴が徐々に悪化(長期間のワイン飲酒が原因か)、後年には中途失聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死に等しい絶望感から1802年には自殺も考えた。しかし「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる文書を書き、強い精神力で自らの苦悩と向き合い、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいった。 |
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1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる命名)と呼ばれる時期を迎えた。 |
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晩年は慢性的な腹痛や下痢など体調の悪化に加え、甥カールを巡るトラブルから苦悩の日々を送ったが、交響曲第9番などの大作を発表した前後から境地の高さを示す作品が生まれ、名実共に一流の作曲家となった。 |
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長期間の飲酒癖(特に質の悪いワインを痛飲したこと)により肝硬変から黄疸を患い、1827年3月26日、ベートーヴェンは波乱に満ちた56年の生涯を終えた。 |
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そのときウィーンは嵐が吹き荒れ、稲妻が閃き、凄まじい雷鳴が轟いた瞬間、自分の拳を睨みつけ、目に見えぬ何者かと戦うようなしぐさをしたかと思うと、そのまま息を引き取った。(医学的に見て、肝不全の患者は光に過敏に反応するため、それにあてはまる挙動だとされる。)その葬儀は、3万人もの人々が参列する異例のものだったという。 |
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ミュンスター広場
Münsterplatz のそばにある古代城門の遺跡
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右下の制服姿の人は警察官 |
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ミュンスター寺院は、ボン中央駅の北東にあるミュンスター広場の南端に建つ。11世紀に古代ローマの墓地跡に建てられたが、1239年に火災で焼失、その後現在の寺院が再建された。この寺院には二人のローマ守護聖人が祀られ、14世紀には神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が二度行われた。現在はボンの象徴となっている。 |
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