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ツアー3日目の6月14日(土)は午前中ケルンを見学したあと、バスで速度制限のない無料高速道路アウトバーンを走ること3時間余り、280kmほど南下してハイデルベルクに入り、世界文化遺産のハイデルベルク城や旧市街を観光した。、 |
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約14万人が暮らすハイデルベルクは、ラインの支流・ネッカー川沿いに位置する都市で、その美しい街並みはどこから見ても絵になり、多くの観光客が世界中からやってくる。古くから学生の街として知られ、かつてゲーテやショパンなど、名のある詩人や音楽家などが訪れ、後世に残るロマンや芸術を生み出した。 |
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まんりょくの やまのはいきょや いしのしろ |
A stone castle, the ruins on a fresh green mountain. |
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フリードリッヒV世が妃のために一夜で完成させたという。 |
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前1世紀、ここにケルト人の聖所がおかれていたが、その後、ローマ帝国によって征服され、中世にはライン宮中伯(プファルツ選帝侯)の居所となり、16世紀の宗教改革に際しては、プロテスタントの牙城の一つとなった。 |
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高い建物が城門塔。堀の上にかかる石橋は、昔は跳ね橋だったという。 |
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19世紀初頭にはバーデン大公国に帰属し、19世紀後半にはドイツ帝国の都市となった。第二次世界大戦中は爆撃を免れ、戦後はアメリカ占領軍の司令部が置かれた。空爆を受けなかったことで、かつての古い町並みが今日まで残されている。 |
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ハイデルベルク城 Schloβ Heidelberg
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ハイデルベルク城は、プファルツ国を治める選帝侯の居城として使われた。ドイツでは、1386年の金印勅書で7人の選帝侯によってドイツ皇帝が選ばれることになった。中でもプファルツ選帝侯は筆頭の地位にあり、ドイツ皇帝が不在のときは代理を務め、戦争の指図や貨幣を鋳造する権利を持ち、帝国議会の裁判長を務めたという。 |
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ハイデルベルク城の内部
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正面の華麗な建物がフリードリヒ館。1607年にフリードリヒVI世により建てられて以来、代々の選帝侯の居館となった。 |
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17世紀に入り、30年戦争(1618-48)やプファルツ継承戦争により、ハイデルベルクの城と町は徹底的に破壊され、その後は荒れるに任されたが、19世紀になってフランスのグライムベルク伯が古城の修復に尽力した。 |
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フリードリヒVII世の像
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フリードリヒ館のファサード(正面の装飾)は砂岩でできており、力のあった歴代の選帝侯の像が飾られている。 |
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ハイデルベルクの住民は、城の石を持ち出して自分達の家を建てていたが、それを禁止し、城の全面的な再建は断念するにしても、現存する建物を保存する方針が町として定められた。 |
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地下の巨大なワイン樽
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1751年カール・テオドールが造ったもの。直径7m、長さ8.5m、222,000リットルの容量は、木製の樽としては世界一。
樽の上方にカール・テオドールのイニシャルであるCとTの紋章が飾られており、130本の樫の木が使われている。 |
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↓対岸の山の中腹にある哲学の道 |
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廃墟となったハイデルベルク城の風情は、ロマン主義の芸術家を魅了し、多くの詩人や画家たちがハイデルベルクに集まった。特に画家は、ネッカー川の古城跡や古い町並みをモチーフにした作品を発表し、一派を成すまでになった。現在、城はバーデン・ヴュッテンブルク州の財産として管理されている。 |
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ハイデルベルク城は建造された年代により、ゴシック、ルネッサンス、バロックなど様々な様式が混じっている。徐々に修復されてはいるが、倒壊したままの巨大な塔を目の当たりにすると、戦争の激しさに思わず身震いしてしまう。 |
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倒壊したままの塔
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なつゆさん くずれしままの いしのしろ |
Summer excursion, a collapsed stone castle left as it is. |
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哲学の道 Philosophenweg |
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ハイデルベルク城の対岸の山の中腹に有名な「哲学の道」がある。ゲーテをはじめ多くの詩人や哲学者が思索にふけりながら歩いたという。最高の眺望を誇るが、時間が無く、行くことができなかった。 |
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ネッカー川に架かるアルテ橋とハイデルクの街/哲学の道
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画像:フリー百科事典 Wikipedia |
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ハイデルベルク大学 Ruprecht-Karls-Universität Heidelberg |
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ハイデルベルク大学は、1386年、プファルツ選帝侯ループレヒト1世によって創立されたドイツ最古の大学。正式名称は、ループレヒト・カールス大学ハイデルベルク。ベルリン大学などと並びドイツ有数の世界的な大学で、8人のノーベル賞受賞者を輩出している。 |
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ハイデルベルク大学の旧校舎(左)と博物館/大学広場
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学生牢 Studentenkarzer |
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1712年から1914年まで使われていた学生牢が公開されているので、自由時間に見学した。かつて大学内は治外法権だったため、学生が町で騒ぎを起こしても警察は介入できなかった。 |
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そこで大学当局が学生の取締りを行い、罪を犯した学生は大学の一角に設けられた牢屋に入れられた。大学の自治がここまで徹底して行われていたことに驚く。 |
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天井や壁面には、入牢した学生たちの落書きがある。所属する学生団の掲げる理想や旗、自分の罪状と入牢期間などが所狭しと書かれている。服役期間中はよほど退屈だったのだろう。シルエット画が多いが、当時の流行だったのだろうか。 |
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南ドイツの旅 ... 続く to be continued |
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撮 影
2008年6月12-14日
OLYMPUS
E-3 E-510
12-60mm 70-300mm
1000万画素 1400枚 2.91GB
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雨の中をフランクフルト空港に到着したときは、どうなることかと心配したが、翌日のライン下りは晴天となり、好調な出足だった。 |
今の時期、ドイツはめまぐるしく天気が変化し、ローレライにさしかかったとたん、俄に暗雲が立ち込め、驟雨に見舞われてしまった。科学が発達していなかった中世にあっては、舟人たちは妖精があらわれ、波の下に吸い込まれてしまう恐怖を感じたことだろう。 |
ローレライは、コペンハーゲンの人魚姫の像とブリュッセルの小便小僧と共にヨーロッパ三大ガッカリに数えられているという。 |
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人魚姫の像を見たときもそうだったが、そのような評価は、うわべだけしか見ることのできない、感性と想像力の欠如した人の意見である。ハイネのローレライの詩とジルヒャーの曲は、不朽の名作として今日なお多くの人々に感動を与えてくれる。ロマンと感動溢れる南ドイツの旅、更にリッチな後半をご期待頂きたい! 2008.7.1 |
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特集!旅紀行第74集 「南ドイツの旅・上」 |
撮影・制作 : 和田義男 |
平成20年(2008)7月1日 作品:第20作 画像:(大102+小7) 頁数:6 ファイル数:271 ファイル容量:78.9MB
平成12年(2000)〜平成20年(2008) 作品数:291 頁数:1,026 ファイル数:35,258 ファイル容量:5,220MB |
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