|
|
|
|
|
櫛田神社の石鳥居と楼門 |
|
拡大写真(1200x730)173KB |
|
|
|
|
|
|
平成16年(2004)7月1日(木)から15日(木)まで、福岡県福岡市で、博多の夏を告げる博多祇園*山笠が開かれた。
*古くは祗園とも表記されるが、本稿では祇園に統一した。 |
|
昭和54年(1979)に国重要無形民族文化財の指定を受けたこの夏祭りは、櫛田神社の祇園例大祭で、767年の歴史を持つ。 |
|
|
|
|
|
山のぼせ |
山笠(やまかさ 山・ヤマ)に熱中する男のことを「山のぼせ」又は「のぼせもん」という。7月上旬は、博多の町は山笠一色になり、山のぼせたちで町が熱く燃えあがる。好天に恵まれた2004年、法被に締め込み姿の博多っ子たちが街を駆け抜け、多くの観衆にロマンと感動を与えた。 |
|
|
|
|
櫛田神社本殿 |
|
拡大写真(1200x655)197KB
|
|
|
|
|
|
JR博多駅の西方約1kmにある櫛田神社は、商人町・博多の総鎮守として町の中央・博多区上川端町(かみかわばたまち)に鎮座する。正殿に大幡主大神(おおはたぬしのおおかみ)、左殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)、右殿に素盞鳴大神(すさのおのおおかみ)の三柱の祭神を祀る。 |
創建は、天平宝字1年(757)伊勢国(三重県)の櫛田神社の分霊を勧請(かんじょう)したものといい、また一説には、天慶4年(941)山城国(京都府)の祇園社を勧請したのに始まるともいう。戦国時代に戦火を受けて一時荒廃したが、天正15年(1587)、太閤秀吉による博多町割(まちわり)の際に現在の社殿が寄進された。
|
境内には樹齢千年といわれる大銀杏があり、古来より商売繁盛、不老長寿の守り神として信仰を集めている。博多の人々は、親しみを持って「お櫛田さん」と呼ぶ。山笠は、素盞鳴大神(すさのおのおおかみ)(祇園宮 祇園さん)に対する奉納行事である。 |
|
|
|
|
資料 |
|
|
資料 |
|
|
博多祇園山笠が始まる7月1日、福岡市東区の箱崎浜で舁き山(かきやま)七流(ななながれ)の当番町によるお汐井とりがおこなわれる。 |
|
箱崎浜には午後6時すぎから、「オッショイ」の掛け声を響かせて各町から駆けてきた祭りの推進役を務める男たちが海に向かって二礼二拍手一礼により参拝して身を清めた後、升や「てぼ」と呼ばれる小さな竹かごにお汐井(清浄な海砂)をすくい入れる。 |
|
持ち帰ったお汐井は家の玄関先や祭りの詰所に置き、山笠行事があるたびに体にふりかけて身を清める。 |
|
7月9日の夕方には各流全員が参加するお汐井とりが同じようにおこなわれ、10日から舁き山が動き始める。 |
|
|
|
|
博多祇園山笠のフィナーレを飾る追い山笠(追い山)は、櫛田神社から5kmのコースを走るタイムレースである。そのコースには、櫛田神社を含めて三つの清道があり、清道旗が立つ。山笠はこの旗を時計回りに一周してコースを走る。清道とは「天子の行幸の道を払い清める」の意。櫛田神社の清道に入る櫛田入りは、山笠を祇園様に奉納するために行われる。 |
二番目の清道がある東長寺(とうちょうじ)は、昔、神仏混淆(しんぶつこんこう)の時代に住職が櫛田神社の神官を勤めていたことから敬意を表して立ち寄る。 |
山笠の起源 |
三番目の清道は山笠発祥の地・承天寺(じょうてんじ)にある。鎌倉時代の仁治2年(1241)、開祖・聖一国師弁円(しょういちこくし・べんえん)が博多に流行した疫病退散のため施餓鬼棚*に乗り、若い衆に担がれて甘露水を撒いて町中を祈願し、みごと病を鎮めたのが山笠の始まりだという。 *せがきだな:お盆のときに供物を乗せる棚 |
山笠が東長寺、承天寺の清道を廻るときは、住職が門前で山笠を迎え、山笠の台上がり(山の上に座る6人の長老)は手に持つ鉄砲(稲藁の入った赤い指揮棒)を掲げ、頭を下げて廻るのが習わしとなっている。 |
|
|
|
|
櫛田神社の清道と清道旗 |
|
拡大写真(1600x950)206KB
|
|
|
|
|
|
|
7月10日午前、櫛田神社境内にて、南坊流(なんぼうりゅう)南坊会が世話人となり、客人側に博多祇園山笠振興会正副会長、相談役、舁き山笠総務が締め込み姿に当番法被をはおった正装で招かれた。
水法被に締め込み姿の一番山笠・西流(にしながれ)の子供たちが神妙な面持ちで菓子と抹茶を給仕していた。 |
野点(のだて)は、千利休(せんのりきゅう)が博多で太閤秀吉臨席のもとに考案したといわれる。この茶会は、この故事にならった行事で、出陣茶会といった趣がある。 |
|
|
|
|
締め込み姿の博多っ子 |
|
拡大写真(1200x800)245KB |
|
|
|
|
山笠の伝統衣装 |
山笠の衣装は法被に締め込み姿で統一されており、例外はない。法被は町内や流ごとに違い、法被で所属がわかるので下手なことは出来ない。千代流・東流・中洲流では全員統一した法被を着用している。 |
法被には2種類ある。実際に山舁きのとき着用するのが水法被(みずはっぴ)。
勢い水を浴びることからこの名がある。前を固く結ぶので、転んだ時でも法被を掴んで起こしやすい。 |
締め込みは、白が多いが紺などの色物も混じる。小さい子供は赤が可愛い。晒木綿の六尺ふんどしとキャンバス製の相撲まわしの中間の厚さで、相撲と同じ要領で前垂れ式に締める。晒の腹巻きも認められる。足は黒か紺の脚絆(きゃはん)と地下足袋(じかたび)。
手拭(てのごい)を首にかけたり、鉢巻代わりに締める。 |
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1200x800)219KB |
|
|
|
|
|
もうひとつの当番法被は、長法被(ながはっぴ)ともいう。久留米絣*で、6月1日から祭り終了まで着用が認められる。足は雪駄(せった)か下駄(げた)。
写真のように地下足袋を履く場合もあり、手拭を首にかける。期間中はこれが正装と認められ、冠婚葬祭もこれで行くし、一流ホテルでも出入り自由だという。
*くるめがすり:久留米地方から産する木綿の堅牢な紺絣(こんがすり) |
江戸時代の山笠屏風絵などを見ると、全員がふんどし一丁の裸で、足は草鞋(わらじ)か裸足(はだし)である。明治に入り、文明開化の影響で裸は野蛮とされ、揃いの法被を着るようになったという。 |
正月3日の筥崎宮(はこざきぐう)玉せせりなどでは今でもふんどし一丁の裸であることを考えると、博多山笠が明治時代に変質したことは否めない。幸いにも法被の裾を前で結び、下半身を露出する裸文化は健在である。 |
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x930)245KB
|
|
|
|
|
|
山笠の楽しみは、「静」と「動」の2つの側面がある。「動」の山笠は、7月10日から動き出す勇壮な舁き山笠(かきやまかさ
舁き山)で、そのクライマックスは7月15日早朝の追い山である。舁き山七流(かきやま・ななながれ)が山笠を櫛田神社に奉納することで市民の無病息災と家内安全を祈願する。 |
|
|
|
|
櫛田神社に常設展示の飾り山笠(新選組至誠之勇) |
|
拡大写真(1600x1064)308KB
|
|
|
|
|
走る飾り山笠 |
一方、飾り山笠(飾り山)は「静」の山笠といえるもので、展示専用である。ただし、上川端通(かみかわばたとおり)の山笠は走る飾り山笠で、コースは短いが定番の八番山笠として追い山馴らしと追い山で櫛田入りする。 |
|
|
|
|
櫛田神社常設山笠の前で記念撮影 |
|
上川端通の走る飾り山笠 |
|
|
|
拡大写真(1046x1600)334KB
|
|
拡大写真(1064x1600)297KB
|
|
|
|
|
|
|
祭りの期間中、市内各所には博多人形師たちが腕を振るった絢爛豪華な飾り山や舁き山が立ち、人々の目を楽しませてくれる。山笠の正面を表、後面を見送りといい、表は櫛田神社に向けて立てられる。但し、博多の玄関口であるJR博多駅・博多口前の飾り山だけは、訪れる観光客を出迎えるように、表は駅側に向けられている。 |
|
|
|
|
中洲流の飾り山 |
|
|
|
|
|
拡大写真(1064x1600)303KB
|
|
拡大写真(1064x1600)328KB
|
|
|
|
|
|
|
山笠の台と飾りの間には「杉かべ」が取り付けられており、その下に台幕が張られている。この幕は動くときは「青」、据えているときは「赤」と決まっていて、動かない飾り山はいつも「赤」が巻いてある。台幕には櫛田神社に奉納する意味の神紋が表示されている。 |
|
|
|
|
東流の飾り山笠 |
|
拡大写真(1600x1064)235KB
|
|
|
|
|
|
祭り期間中、飾り山は高さ約15mから7〜8mのものまで市内13ヵ所に13本展示されている。七流のうち飾り山を立てているのは東流(ひがしながれ)中洲流(なかすながれ)千代流(ちよながれ)の三流で、飾り山・舁き山あわせて20の山が福博(ふくはく
福岡と博多)の街を彩っている。 |
各山笠は7月15日未明の追い山終了後いっせいに跡形もなく取り壊され、毎年新しく作り替えられる。ただし、櫛田神社と上川端商店街・ぜんざい広場は、常設展示されている。 |
|
|
|
|
東流の飾り山笠 〈竜宮城〉 |
|
拡大写真(1200x850)325KB
|
|