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■ 平成27年(2015)7月1日(水)から15日(水)までの間、国指定重要無形文化財で「774年」の伝統を誇る博多祗園山笠(はかた・ぎおん・やまかさ)が開催された。今年も日曜日を利用して福岡入りし、6月28日(日)、7月5日(日)・12日(日)の様子を撮影したので、以下に紹介したい。 |
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【凡例】 ▲:上の画像の説明文 ▼:下の画像の説明文 〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示 |
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昭和54年(1979)に国から重要無形民俗文化財の指定を受けた櫛田神社(くしだ・じんじゃ)の夏祭・博多祗園山笠(はかた・ぎおん・やまかさ)は、7月1日から15日まで福岡市内の14箇所で絢爛豪華な飾り山笠が展示され、1日の舁き山笠7流の当番町・役員が箱崎浜(はこざきはま)で身を清めるお汐井とり(おしおいとり)に始まり、10日の流舁き(ながれがき)、11日の朝山笠(あさやま)、他流舁き、12日の追い山笠(おいやま)ならし、13日の集団山見せ、14日の流舁きと次第に盛り上がり、15日の櫛田入り(くしだいり)タイムレース・追い山笠(おいやま)で最高潮に達する。 |
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「博多祗園山笠」公式サイト |
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塀に埋め込まれた「山留め」の石碑 / 櫛田神社 17:09
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夏祭の準備が進められる清道 / 櫛田神社 6.28
17:05
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紅白幕が張られた一週間後の清道
/ 櫛田神社 07.05 14:25
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舁き山笠7流のうち、飾り山笠と舁き山笠の両方を立てているのは、二番山笠東流、三番山笠中洲流、五番山笠千代流の財力ある三流だけで、ほかの町内は舁き山笠のみを保有している。
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大黒流(だいこくながれ)は、福岡市博多区の一地域である博多の一部であり、豊臣秀吉の「太閤町割り」天正15年(1587)に由来する流のひとつである。明治初期までは洲崎町流と称しており、名称は大黒天(大国主命・おおくにぬしのみこと)に由来する。 |
昭和41年(1966)には、町界が背割り方式からブロック方式に改められたため、須崎町3町(一区、二区、三区)、対馬小路1町、古門戸町2町(一区、二区)、下川端町4町(川端町、麹屋町、寿通、下新川端町)、上川端町1町(川端中央街)の11町体制となり、昭和61年(1986)町名町界改変の際、流から脱落していた旧倉所町浜側が対馬小路二区として復帰したため12町体制となった。 |
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一番山笠大黒流の舁き山笠の表標題は「降臨大黒天」、人形師:宗田智幸。天から舞い降りてきた大黒様は民に宝を振りまいている。民にとって宝はまさしく財宝である。 |
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一方、大黒様から見れば、この宝は欲の塊であり、我欲を捨てたところに無限の豊かさを得ることができるかを見ている。つまり、「どれだけ多くのもの持っているか」ではなく、「どれだけ多くのものを必要とせずにいられるか」を体現している。 |
欲を離れ、相手を思いやり、自分の財や幸せを分けることで、我欲が薄れて相手を理解できるようになる。豊臣秀吉は大黒天を守護神とし、地元ゆかりの人々と協力して荒廃した博多を太閤町割で復興させたが、大黒様の教えを忠実に実践したからであろう。(標題説明より) |
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一番山笠大黒流の舁き山笠 07.05 09:02 |
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東流(ひがしながれ)は、福岡市博多区博多地域の大博通りの東側、南北に伸びる旧東町筋沿いを区域とし、昭和41年(1966)の町名町界整理により旧東町流を中心に再編されて発足した。現在の住所における御供所町・上呉服町・中呉服町・下呉服町・博多駅前一丁目から成る。旧町名での参加が多く18カ町から構成される。
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博多祇園山笠では毎年舁き山と飾り山を呉服町交差点の呉服町ビジネスセンタービル(地下鉄呉服町駅)前に立てる。舁き山と飾り山は下部の山台を共有する。山笠の運営は当番町をつくらず流当番制でおこない、山笠では統一した当番法被(長法被)(紺と白の縦縞模様)や水法被(背に「東」、袖に町名の入った布(肩証)を縫い付けている)と、白の締め込みを着用する。尚、7月11日に行われる他流舁において還暦を迎えた人が赤の締め込みに、赤いロゴの水法被を着用することがある。 |
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舁き山笠に人形を載せる
/ 東流 07.12 12:54
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飾り山笠と舁き山笠の人形 / 東流 07.12 13:13
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二番山笠東流の舁き山笠の表標題は「東風招春鏡獅子」(とうふうはるをまねくかがみじし)、人形師:白水英章。 |
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江戸城での正月の「御鏡もち曳き」という行事の余興の出来事で、可憐な娘が踊るうちに獅子頭を手に、勇壮な獅子となって舞い踊る場面を表したもの。一心不乱に激しく踊る鏡獅子の姿と山笠の勇壮な動の一面とに想いを重ねたという。(標題説明より) |
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中洲流(なかすながれ)は、福岡市博多区の繁華街である中洲を区域とする。「なかずながれ」と濁らせて発音することもある。 |
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戦前から部分的に土居流の加勢として博多祇園山笠に参加していたものの、一つの流としての参加は戦後の昭和24年(1949)から。統一の当番法被(長法被)と水法被(ロゴは背に「中洲」、襟は大人は「中洲若」、子供は「中洲っ子」)を着用、締め込みは紺や黒が多く見られる。 |
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舁き山と飾り山を立て、飾り山は中洲繁華街を貫く中洲大通りに毎年建てられている。中洲1-5丁目で順番に当番町を送り、山笠の運営にあたる。 |
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三番山笠中州流の飾り山笠 06.28 16:26 |
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三番山笠中洲流の舁き山笠の表標題は「天下一武蔵」、人形師:溝口堂央。 |
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宮本武蔵は江戸初期の剣術家。二天一流の開祖で晩年に「五輪書」を執筆する。京都の吉岡一門や巌流島(佐々木小次郎)等多数の闘いが後世に伝えられている。また、すぐれた水墨画や工芸品を残している。天下無双を追い求めた宮本武蔵の姿を製作。(標題説明より) |
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舁き山笠の人形 / 中州流 07.05
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▼ 西流(にしながれ)は、福岡市博多区博多地域の大博通りの西側、南北に伸びる旧西町筋沿いを区域とする。町名町界整理後の現在の住所における冷泉町・店屋町・綱場町・奈良屋町から成る。 |
博多祇園山笠では舁き山を奉納する。西流の山笠の運営は流の区域を5つのブロックに分け輪番で運営にあたる。当番法被(長法被)や水法被はそれぞれの町ごとに異なったデザインのものを着用する。山笠終了時に舁き山の飾り物を争奪する「山崩し」をおこなう。 |
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四番山笠西流の山小屋 07.05 12:09 |
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舁き山笠の棒締め |
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四番山笠西流の舁き山笠の表標題は「趙雲子龍心如雪」(ちょううんしりゅう・こころはゆきのごとし)、人形師:今井洋之。 |
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「三國志」の英雄の一人に、蜀の劉備が「彼の志操は清きこと雪の如し」と言わしめた趙雲子龍がいる。幼主阿斗を救出するため、百万の曹操軍を突破する「長坂坡」の戦いで、幼主を胸当ての下に庇い、得意の槍を待ち、名剣「青スの剣」を帯びた趙雲子龍の勇姿を標題とした。(標題説明より) |
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舁き山笠の人形 / 西流 07.12 11:12 |
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千代流(ちよながれ)は、御笠川東岸の福岡市博多区千代が区域であり、千代小学校ならびに千代中学校の校区と重なる。町名町界整理前の旧町名では三十数カ町となる。 |
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博多祇園山笠には戦後の昭和25年(1950)から参加する。統一の当番法被(長法被)と水法被(ロゴは「千代」)を着用、締め込みは白と生成以外は禁止。舁き山と飾り山を立て、そのうち飾り山は流内の西部ガス本社前に立つ。各町からの山笠運営委員の協議により山笠の運営を担う当番町が選ばれる。千代流単独で千代小学校の男女児童による子供山笠も催している。 |
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五番山笠千代流の飾り山笠 07.05 16:42 |
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舁き山笠の山小屋 / 千代流 07.12 10:26 |
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五番山笠千代流の舁き山笠の表標題は「豪勇日本號之誉」(ごうゆうにほんごうのほまれ)、人形師:川崎修一。 |
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黒田二十四騎中随一の豪傑。身の丈六尺半、容貌優れて、髭濃く頑固と伝わる。ご存じ母里多兵衛友信である。筑前今様「黒田節」でおなじみの福島正則から呑み取った槍「日本號」を手に黒田官兵衛、長政父子を筑前五十二万石の太守に押し上げた。その武者振りは郷土の誇り。(標題説明より) |
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舁き山笠の人形 / 千代流 07.12 10:34 |
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恵比須流(えびすながれ)は古くは石堂流といい、福岡市博多区博多地域の御笠川沿いや綱場町の一部など東西横筋を区域とし、町名町界整理後の現在の住所においては上呉服町・中呉服町・下呉服町・綱場町が区域となる。 |
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博多祇園山笠では舁き山を奉納する。旧町11カ町を6ブロックに分けて運営にあたる。当番法被(長法被)や水法被はそれぞれの町ごとに異なったデザインのものを着用する。 |
六番山笠恵比須流の舁き山笠の表標題は「大鵬一擧九萬里」(たいほういっきょきゅうまんり)、人形師:亀田均。 |
大鵬は想像上の巨大な鳥のことで、もとは鯤(こん)という巨大な魚が転身して鵬という鳥になったと荘子・逍遥遊篇にある。鵬が南の果ての海(南冥)に飛び立つとき、一挙に九萬里の高さまで舞い上がるといわれている。 天変地異の続いている今日、大鵬のような恵比須さんにお出ましを頂きたい。(標題説明より) |
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舁き山笠の人形 / 恵比須流 07.12 14:42
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土居流(どいながれ)は、福岡市博多区博多地域の南北に伸びる土居町筋に面する町々が区域であり、旧町名では10カ町となる。町名町界整理後の現在の住所では上川端町・冷泉町・下川端町・綱場町・古門戸町・奈良屋町に該当する。 |
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博多祇園山笠では舁き山を奉納する。山笠の運営は一つもしくは複数の町が当番となっておこなう。土居流の舁き山とは別に、上新川端町が“走る飾り山”の八番山笠(固定)を奉納する。 |
当番法被(長法被)や水法被はそれぞれの町ごとに異なったデザインのものを着用し、紺の久留米絣を用いた水法被が多い。八番山笠の舁き手は「上川端」と背に書かれた独自の水法被を着用する。 |
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七番山笠土井流の山小屋 07.05 11:45 |
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七番山笠土井流の舁き山笠の表標題は「征夷大将軍頼朝」(せいいたいしょうぐんよりとも)、人形師:中村信喬。 |
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源頼朝(みなもとのよりとも)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。河内源氏の源義明の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。 |
弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられた。これより朝延から半ば独立した政権が開かれた。この政権は後に鎌倉幕府と呼ばれ、幕府などによる武家政権は王政復古の大号令・江戸開城まで足掛け約680年間に渡り、存続することとなる。(標題説明より) |
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舁き山笠の人形 / 土井流 07.12 11:19 |
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▼ 土居流内の上川端通が独自に建てる飾り山。「走る飾り山笠」としてお馴染みで、追い山ならし(7月12日午後)と追い山(同15日早朝)では"櫛田入り"を行う。 |
いにしえの山笠を彷彿とさせる10m近い飾り山の櫛田入りは、舁き山とは違った豪華さ絢爛さがあり、観客からは感嘆の声が聞かれる。普段はアーケード内に建つため高さに制限があり、本番では機械仕掛けで飾り部分が伸縮するようになっている。 |
八番山笠土井流の舁き山笠の表標題は「鞍馬山」、人形師:田中比呂志。鎌倉時代初期、遮那王(後の牛若丸)は、七歳の時、討死にした父、源義朝が縁のあった鞍馬山の別当、阿闍梨の元に預けられた。遮那王は、学問・武芸に精進し、その性質、器量といい比叡山延暦寺にも三井寺にも、これほどの稚児がいるとは思えないと称された。 |
鞍馬山の奥、僧正ヶ谷に年経て住める、大天狗なりとあり、遮那王は、大天狗から兵法の奥義の伝授を受け、僧正坊の手下である木の葉天狗と剣術稽古をしたりするなど、鞍馬山の天狗との関わり合いは深かった。遮那王十五歳の秋、人から自分の身の上を教えられた事により平家打倒の志を立て、奥州をめざして鞍馬山を出た。成長した牛若丸は、京都五条大橋で武蔵坊弁慶と出会い、以後弁慶は最強の臣として終生を共にする。 |
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八番山笠上川端通の走る飾り山笠
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表・鞍馬山 人形師:田中比呂志 |
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見送り・正調博多節 人形師:田中勇 |
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