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昭和54年(1979)に国から重要無形民俗文化財の指定を受けた櫛田神社(くしだ・じんじゃ)の夏祭・博多祗園山笠(はかた・ぎおん・やまかさ)は、7月1日から15日まで福岡市内の14箇所で絢爛豪華な飾り山笠が展示され、1日の舁き山笠7流の当番町・役員が箱崎浜(はこざきはま)で身を清めるお汐井とり(おしおいとり)に始まり、10日の流舁き(ながれがき)、11日の朝山笠(あさやま)、他流舁き、12日の追い山笠(おいやま)ならし、13日の集団山見せ、14日の流舁きと次第に盛り上がり、15日の櫛田入り(くしだいり)タイムレース・追い山笠(おいやま)で最高潮に達する。 |
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「博多祗園山笠」公式サイト |
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平成26年博多山笠解説書の表紙 / 博多祗園山笠振興会 |
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中洲の煙草店に置かれた赤褌のキューピー人形 |
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山笠見物の「道しるべ」 |
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資料:博多祗園山笠振興会 |
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▼ JR博多駅の西方約1kmにある櫛田神社は、商人町・博多の総鎮守として町の中央・博多区上川端町(かみかわばたまち)に鎮座する。正殿に大幡主大神(おおはたぬしのおおかみ)、左殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)、右殿に素盞鳴大神(すさのおのおおかみ)の三柱の祭神を祀る。 |
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創建は、天平宝字1年(757)伊勢国(三重県)の櫛田神社の分霊を勧請(かんじょう)したものといい、また一説には天慶4年(941)山城国(京都府)の祗園社を勧請したのに始まるともいう。戦国時代に戦火を受けて一時荒廃したが、天正15年(1587)、太閤秀吉による博多町割(まちわり)の際に現在の社殿が寄進された。
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櫛田神社 |
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櫛田神社の清道 |
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追い山笠廻り止 / 須崎商店街 |
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須崎・萬盛堂本店 |
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▲▼ 須崎の萬盛堂本店
の白壁に「追山笠廻り止絵図」
が掲げられている。新天町の飾り山笠の製作を14年間手がけて来た現役の博多人形師・亀田均さんの作品で、江戸時代の山笠を描いたもの。 |
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「追山笠廻り止繪圖」 須崎・萬盛堂本店 博多人形師・亀田均作 |
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▲▼
山笠は、もとは褌一丁に草鞋履きという完全な裸祭だった。水法被を羽織るようになったのは、明治に入ってから。開国で外国人の目に入るようになり、見苦しくないようにとの配慮だったようだが、まったくの杞憂であり、伝統文化を改変すると、もとには戻すのは難しい。岡山の西大寺会陽は未だに褌一丁なので、誤った判断だったと言わざるを得ない。 |
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みあぐれば
かんじんちょうの
かざりやま |
Looking up
at the Kazari-yama, dolls of Kanjincho above. |
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「追山笠廻り止繪圖」 (画像処理) |
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▼ 山笠は
博多の総鎮守・櫛田神社の神事だが、その由来は、鎌倉時代の仁治2年(1241)疫病が流行したときに承天寺の開山・聖一国師が施餓鬼棚に乗って棒で担がせて病魔退散を祈ったのが始まりといわれる。 |
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博多祗園山笠発祥の地・承天寺の勅使門 |
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一番山笠土居流舁き山笠の標題は、「武昌太平楽(ぶしょうたいへいらく)」。武昌太平楽とは、舞楽の曲名で左方舞と
いわれる唐楽で、太食(たいしき)調による4人の武ノ舞。 |
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一番山笠土居流の舁き山笠
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土居流の山小屋で当番町のメンバーが記念写真を撮った。土居流は10ヶ町から構成されており、1番山が回ってくるのは7年に1度なので、一番山で当番町になるのは70年に1回ということになる。 |
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前列中央の旗を持っている人が町総代で、その後ろの男性が追い山の櫛田入りで台上がり中央、棒さばきを勤め、「祝いめでた」を歌う栄誉を担う。 |
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土居流当番町の記念撮影
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平成26年土居流日程表 |
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二番山笠大黒流舁き山笠の標題は、「千年契(せんねんのちぎり)」。戦国武将たちの争奪の的となり、度重なる戦火に見舞われた博多の再建・復興のため秀吉の箱崎滞在は約1ヶ月にわたり、秀吉はじめ石田光成、千利休など豊臣政権の中枢に位置する人々と博多の町衆は結びつきを深めた。 |
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二番山笠大黒流の舁き山笠
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▼ 東流(ひがしながれ)は、飾り山笠と舁き山笠双方を展示する。
舁き山笠の標題は、「四神守天而人護郷土(ししんはてんをまもりてひとはきょうどをまもる)」。 |
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三番山笠東流の飾り山笠とその前の舁き山笠
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▲▼ 東流は舁き山と飾り山とで山笠の土台部分である山笠台を共用しており、舁き山が走るときには山笠台が飾り山から引き出され、その上に舁き山の飾りを取り付ける。飾り山の「飾り」部分は山笠小屋に固定されており、山笠台を舁き山で使用している間は宙吊りになっている。 |
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千代流の様に飾り山と舁き山とで別々に山小屋を構える場所を確保できるところは良いが、福岡中心部の土地の確保が難しい町の苦肉の策である。 |
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三番山笠東流の舁き山笠
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四番山笠中洲流飾り山笠の表標題は、「猩々酒宴壽(しょうじょうしゅえんのことぶき)」。唐土(もろこし)の金山の麓の揚子の里に住む高風は、孝行息子であった。ある晩、不思議な夢を見る。それは、揚子の市で酒を売ると富貴になるというものだった。夢のお告げの通り、高風が酒を売るとだんだん金持ちになっていった。 |
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ある日、高風のところに酒を飲みに来る不思議な者がいた。名を尋ねると「海中に棲む猩々だ」という。酒を飲み酔った猩々は、美しい舞を舞う。猩々は高風の孝行心を誉め、「この酒壷に泉の水をたたえたならばそれを酒に変えてやろう」といい、尽きることのない酒を高風に与え、波の彼方へと姿を消していった。 |
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四番山笠中洲流の舁き山笠
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五番山笠西流舁き山笠の標題は、「牛若丸(うしわかまる)」。博多の幹線道路・大博通りの西側が流域。博多地区の町界町名整理事業後、旧西町流に旧岡流、旧櫛田流、旧呉服町流が合流して「西流」として発足した。 |
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広い町内が多く、流域内にオフィスビルが多数ある。山笠に魅了されて参加を決意するサラリーマンや転勤族も多く、古くからの地元住民とあわせて参加人数が非常に多い。水法被、当番法被(長法被)とも各町ごとにデザインが異なる。 |
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五番山笠西流の舁き山笠
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櫛田神社の南門前にある焼餅店。よく見ると山笠グッズだらけで、それもそのはず、西流の冷泉上町会の総代荒牧さんのお店で、博多人形のそばで笑顔を頂戴した。 |
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博多人形になった山のぼせ
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孫と記念撮影 /
六番山笠西流 2013.7.14 15:38
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六番山笠千代流の舁き山笠の表標題は、「真紅兵貫義(しんくのつわものぎをつらぬく)」。戦後に誕生した比較的新しい「流」。舁き手の数も多く、統率のとれた動きで毎年存在感を発揮している。舁き山ばかりでなく、飾り山、子供山笠も持つ流で、流の区域は千代校区と重なっている。 |
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今回、NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」にちなんで話題になっていたのは、表台上がりの向かって右側の人物で黒田家第16代当主、黒田長高さんである。 |
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▼ 七番山笠恵美須流の舁き山笠の標題は、「我者博多総鎮守(われははかたそうちんじゅ)」。博多の中心部にも飛び石的に構成町があ
るが、主地盤は御笠川の西岸一帯。近年、都心のドーナツ化現象で人口が減少。舁き手不足が深刻化していたが、旧大浜小学校のPTAなどの協力を得て克服してい
る。 |
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七番山笠恵比須流の舁き山笠
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