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Wa☆Daフォトギャラリー

 旅紀行日本の裸祭り

2018年9月20日改訂

今 日

昨 日

♪太鼓メドレー

 

夜渡の三社神輿や白ふどし    北舟

 
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A Sanja portable shrine
 in the gathering dusk, Each wearing white fudoshi.

2010年7月21日制作

白褌一丁の男たち

江戸っ子!三社祭

白褌一丁の男たち/三社祭(東京都台東区浅草)

 

Wa☆Daフォトギャラリー10周年記念作品

- 日本の伝統文化が息づく祭 -

 

日本裸祭百景【中巻】

皐 月

はじめに

 
 「日本裸祭百景」は、正月から師走(12月)までの12ヵ月間に開催された裸祭69件、20頁、ベスト・ショット545(大476+小69)枚、和田北舟の英訳写真俳句143句を上・中・下の3巻に分けて収録している。  

中 巻

 
 このうち、【中巻】は皐月(さつき)(5月)水無月(みなずき)(6月)文月(ふみづき)(7月)、葉月(はづき)(8月)の4ヵ月間に開催された裸祭15件のベスト・ショット141(大118+小23)枚を5頁にわたって収録し、和田北舟の英訳写真俳句34句と共に概要を解説した。日本の伝統が息づく美しくも勇壮な祭のロマンと感動を十分に味わって頂くと共に、祭暦(まつりごよみ)として活用して頂ければ幸いである。  
【註】 平成25年(2013)8月28日現在、裸祭10件のベスト・ショット46枚、北舟の英訳写真俳句25句を追加した。  

 

【凡例】 ▲:上の画像の説明文  ▼:下の画像の説明文  〈 画像の左クリック 〉:別窓に拡大写真を表示
     タイトル「例:
江戸っ子!鐵砲洲大祭」をクリック:別窓に作品「例:江戸っ子!鐵砲洲大祭」を表示

秋葉原中央通り
秋葉原中央通り

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一ノ宮鳳輦  大鳥居をくぐる町神輿
 
江戸開府400年!神田祭
神田明神
東京都千代田区神田
平成15年(2003)5月10日(土)・11日(日)
撮影・制作:和田義男

 平成15年2003年5月10日(土)神田祭(かんだまつり)の神幸祭(しんこうさい)が行われた。この年は徳川家康が慶長8年(1603)に江戸幕府を開いてから丁度400年になる。江戸時代本社の神輿を氏子総出で江戸城内まで担ぎ氏子でもある将軍の上覧を得たことから、神田祭は日枝(ひえ)神社の山王祭とともに天下祭(てんかまつり)・御用祭ともいわれた。
 各町が競う山車(だし)や練物(ねりもの 屋台や仮装行列)は華美を尽くし、本社の神輿を中心とした行列は数キロに及んだといわれる。しかし、行列を出す費用がかさむことから、天和元年(1681)、幕府の命により、神田祭と山王祭を隔年に行うようになった。
 神幸祭は、神田神社に祀られる恵比寿・大黒・平将門命の三柱の神の鳳輦(ほうれん)による渡御祭である。鳳輦の鳳(ほう)は鳳凰(ほうおう)の雄(雌は凰)、輦(れん)は天子の乗り物で、鳳輦とは、屋形の上に雄の鳳凰をつけた輿(こし)のことで、神(御神体・御霊代)の乗り物である。神輿も神の乗り物であるが、鳳輦の方が高級感がある。見物客も「ほうれん」という言葉を頻繁に使っており、東京では普通の呼び方である。
  姐さんのそっと手をやる祭髪  北舟 

あねさんの そっとてをやる まつりがみ

A lady gently fixing her hair with her hand in summer festival.

江戸っ子たち(東京・神田神社)

▲▼ 2003年5月11日(日)、JR御茶ノ水駅から神田神社に行った。神田川に架かる聖橋(ひじりはし)を渡ると5分ほどで大鳥居に着く。東京都心に初夏の訪れを告げる神田祭は、この日クライマックスを迎え、千代田区神田、秋葉原、日本橋の氏子町会108町から大小200基の神輿が神田神社に宮入(みやいり)したあと、終日町内を練り歩き、20万人の人出で賑わった。

ふんどし一丁のお祭り男

高く掲げる神輿

ふんどし一丁のお祭り男 高く掲げる神輿

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▲ お祭りは専ら行列を追いかけるだけだけど、実は・・・、お神輿を担ぐ人のふんどしを締めたお尻が美しい!中学生の頃からなんてセクシーなんだろうと思ってた、キャハハ。ませてたのかな。
                              水森亜土(みずもりあど) (神田っ子)談(東京人 2003年6月号52頁)
  夏祭ともにふんどし父子なる  北舟 

なつまつり ともにふんどし おやこなる

Both son and father wearing loincloth in summer festival.

鳶頭の晴れ姿

踊り出すひょうきん者

鳶頭の晴れ姿

踊り出すひょうきん者

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江戸っ子!三社祭
淺草神社
東京都台東区浅草
平成18年(2006)5月19(金)〜21日(日)
撮影・原作:志村清貴 監修:和田義男

 淺草神社の祭礼・三社祭は氏子44ヵ町と浅草組合(あさくさくみあい)で構成される淺草神社奉賛会の主催により、毎年5月17・18日に近い金・土・日に行われる。平成18年(2006)は5月19・20・21日に催行された。
 三社(さんじゃ)様・三社権現の名で親しまれる淺草神社は、淺草寺観音堂(本堂)正面から東60mに鳥居があり、その奥に拝殿がある。祭神は隅田川で観音像をすくい上げた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)の兄弟とその像を小堂に奉安した土師真中知(はじのまつち)である。

観音裏広場に集結した107基の町神輿(左半分)

観音裏広場に集結した107基の町神輿(左半分)

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▲▼ 5月20日(土)は絶好の晴天に恵まれ町神輿の連合渡御が行われた。正午までに〈西部16町会〉〈南部16町会〉〈東部12町会〉の合計44ヵ町から107基の神輿が観音裏広場に集合した。これだけ多くの神輿が一同に会するのは壮観の一語に尽きる。また、少なくとも170団体以上の睦会(むつみかい 同好会)が全国から集まり、各町会の半纏を借りるなどして地元の氏子たちと共に神輿を担ぐ。三社祭の担ぎ手は、三日間で、総勢3万人以上になると推計されている。
  観音に差し上ぐ神輿江戸の粋  北舟 

かんのんに さしあぐみこし えどのいき

A portable shrine raised up for Kannon, the dandyism of Edo.

観音堂正面の神輿差し!

観音堂正面の神輿差し!

撮影:K. I.

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▲▼ 西浅三北(にしあさ・さんきた)神輿は、白半纏と黒半纏が左右に分かれ、褌をキリリと締め込んだ入墨(いれずみ)姿の裸たちが担ぎ棒の前後に立って担ぎ手を鼓舞するフォーメーションをとることで知られる。
 町会の白半纏(「西に浅草」の大紋、北の角字の肩柄)と鼠の役半纏(青年部の若睦(わかむつ)役員用で同柄)は一般の氏子たち、紫か紺の黒半纏は高橋組の丸金(まるきん)睦と中村会の氏子である。所属がどこであれ、だれもが役半纏の指示に従い、車の両輪のように白黒協調して神輿を担いでいる。
 白半纏黒半纏のどちらも同じ下町の住民であり氏子である。外から見ると異様に見えるかもしれないが地元の氏子たちに違和感はない。人それぞれに境遇の違いがあっても年に一度社会のしがらみから解放され今年も無事に三社祭に参加できたことを神に感謝し、同じ神輿を心おきなく担いでその喜びを分かち合いたい。浅草はそういう人情の深い下町である。

土煙の中の裸神輿 / 観音裏広場

土煙の中の裸神輿 / 観音裏広場

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▼ 下は小舟町天王祭の瓦版。「祭礼六月十日小舟町一丁目の御旅所へ神幸なり十三日帰輿(きよ)なり」「行列は大傅馬町と同じ」などの説明書きがある。神輿に群がる担ぎ手たちは、彫物・赤褌姿が多く見られる。江戸時代は今と違って、六尺褌を前垂れ式に締めていたことが分かる。
 ある高名な民俗学者は、彫物や裸褌姿が息づく江戸の祭り文化が今も継承されているのは、三社祭だけだという。具体的には、西浅三北神輿を指している。

小舟町天王祭の氏子たち

小舟町天王祭の氏子たち

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▼ 彫長(ほりちょう)の入墨を背負った白半纏の人(一般住民)たち。入墨を近くで見れば見るほど本当に美しい。日本の入墨は世界に誇る生きた芸術で海外での評価は高い。我が町内の江戸っ子たちが伝統の入墨文化を身をもって伝えていることを嬉しく思う。サッカーのベッカムなど有名選手がタトゥ(入墨)をしていることからも分かるように、入墨は多様な文化の一つであり、偏見を持つ日本人が多いのは残念である。

彫長の入墨をした氏子たち

彫長の入墨をした氏子たち

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  夜渡の三社神輿や白ふどし  北舟 

よわたりの さんじゃみこしや しろふどし

A Sanja portable shrine in the gathering dusk, Each wearing white fudoshi.

白褌一丁の男たち

白褌一丁の男たち

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▼ 5月21日(日)午前6時から本社神輿の宮出が行われた。三社祭の宮頭は、建設会社「新門」代表取締役の杉林仁一さんで、幕末の江戸町火消(えどまちひけし)の親分・新門辰五郎(しんもんたつごろう)の7代目に当たる。
 「これより宮出を執行いたします」という宮頭・杉林仁一さんの発声に続き1万人ともいわれる担ぎ手の「シャシャシャン・シャシャシャン・シャシャシャン・シャン」の一本締めが終わるや否や、三基の神輿が一斉に担ぎ上げられ、大勢の担ぎ手衆が担ぎ棒に殺到し、興奮の坩堝となった。あちらこちらで神輿の奪い合いから喧嘩になり、まさに江戸喧嘩神輿といわれるとおりになった。
 三基の本社神輿は、西部・南部・東部の各町会に一基づつ割り振られ、一年ごとにずれていく。西浅三北が属する西部町会は、昨年は三之宮だったので、今年は一之宮の渡御となった。修羅場となった淺草神社の境内から抜けだし、観音堂の正面にたどり着くまでに、1時間以上かかる大渋滞。ようやく観音堂前に着くと、大勢の観客の前で一之宮の神輿練りを披露し、拍手喝采を浴びた。

三社祭の宮頭・杉林仁一さん

観音堂前の一之宮

三社祭の宮頭・杉林仁一さん

観音堂前の一之宮

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祭り屋台 in 姫路
姫路城
兵庫県姫路市
平成16年(2004)5月22日(土)
撮影・原作:ちばあきお 監修:和田義男

 平成16年(2004)5月22日(土)、兵庫県姫路市最大の秋祭り「灘のけんか祭り」の屋台など10台が世界文化遺産の国宝・姫路城に集い、15万人が見守るなか、「ザ祭り屋台 in 姫路」と題する祭りが盛大に開かれた。
 このイベントは、大手前通り完成50周年にあたる平成16年(2004)度を”国際観光都市元年”と位置づけ、この祭り屋台イベントを起爆剤に姫路の魅力を全国に発信し、「姫路躍進元年」のスタートを期すために、有志が組織するザ祭り屋台 in 姫路奉賛会が主催するものである。
  夏祭振舞酒に塩を嘗め   北舟 

なつまつり ふるまいざけに しおをなめ

Licking salt  on a square wooden cup, drinking sake entertained in the summer festival.

松原・東山の屋台と姫路城

松原・東山の屋台と姫路城

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▲▼ 観覧席前にステージが設けられ、笛や太鼓の祭囃子(まつりばやし)にあわせて獅子舞が披露された。獅子舞は、練り子が裸のまま毛獅子の中に入って舞うもので、灘地区独特のものである。
 白鷺城と呼ばれる美しい姫路城の天守閣を背景に、三の丸広場の大観衆が見守るなかを絢爛豪華な屋台練りが披露され、会場は最高潮に達した。
法被を脱ぎ捨てた八家の練り子たち

法被を脱ぎ捨てた八家の練り子たち

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宗像大社・神の島の祭り
宗像大社
福岡県宗像市
 平成16年(2004)5月27日(木)
撮影・原作:大庭靖雄 監修:和田義男

 宗像大社沖津宮(むなかたたいしゃ・おきつみや)の現地大祭に参加した。福岡市と北九州市の中ほどに宗像市(むなかたし)があり、その沖合いに大島(おおしま)と沖ノ島(おきのしま)からなる大島村がある。宗像大社は沖ノ島に沖津宮を大島に中津宮(なかつみや)をそして宗像に最も大きな辺津宮(へつみや)を置いており、それぞれ天照大神の御子神である三柱の神々を祭神としている。

★☆★彡

 沖ノ島は、聖なる神の島である。普段は大社の神主一人が交代で島を守っているだけの無人島である。毎年5月27日に、年に一度に限り一般人の入島を許す沖津宮現地大祭が行われる。事前に申し込みをした者の中から230人の男が選ばれ、私もこの日に休みを取って参加した。
 参加者は、前日の午後、宗像側にある神湊(こうのみなと)からフェリーで大島に渡る。そして、午後6時に大島の中津宮で、現地大祭への参加の登録を行い、中津宮で行われる航海の安全祈願祭に参加する。その日は、大島の民宿に分宿する。27日の朝早く、参加者は港に集まり、漁船やフェリーに分乗する。岸壁に立つ多くの女性に見送られ、巡視艇にエスコートされながら2時間近くかかって沖ノ島に渡る。

▲▼ 沖ノ島の港に入ると、船上で山伏姿の年輩者が法螺貝を吹いた。フェリーと漁船が岸壁(がんぺき)に横付けし、各人各様のスタイルで上陸した。
 沖ノ島の船着き場のそばに禊ぎ場があり参加者は全員裸になって海水で禊ぎをする習わしである。古例によれば、禊ぎをする際には一糸まとわぬ姿、すなわちすっぽんぽんになるということである。褌を身につけたままの人もいたが、それは少数にとどまり、ほとんどの人は何も身につけずに海に入った。
 事前に想像している段階では気になるところもあったが、上陸地点にある上陸心得を読み、参加者のうち手早い人たちが禊ぎの用意を始めたのを見ると、全く羞恥心などを感じることはなかった。むしろ、生まれたままの姿で海に浸かる自分自身が新鮮で、それこそ衣服とともに俗塵をすっかり払いのけたようで、まっさらになったような感じがした。

海中の禊ぎ

海中の禊ぎ1

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▲▼ それよりも、海に入った時間が午前9時頃で、季節は5月の下旬。海水が冷たいのが身にしみた。自然に手を合わせ、声を出したくなる。それぞれに、思い思いの経文や自分なりの言葉を出しながら手をもむようにしつつお祈りをする。私も、日の出の方向に向かい、手を合わせ、九州の安全と発展を心の中でお祈りしながら、口からはウオーッというような声を上げていた。
 禊ぎのあとは、山から小屋のそばに引いた清水をかぶって塩分を流し、服を着る。更衣室のような気のきいたものはないので、防波堤の下で着替えをした。禊ぎが終わると、石鳥居をくぐり、急勾配の階段を踏み、森の中の草の生えた道をのぼって沖津宮に至る。

禊ぎから参道へ

禊ぎから参道へ

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▼ 沖津宮は、巨石の陰に隠れるような社(やしろ)である。この島は岩が多く、森の中にも多く散在しているが、これらの岩上で、あるいは岩陰で古い時代の祭祀が行われていたのである。掘れば出てくるものがあるのだろう。
 沖津宮で、午前10時から修祓(しゅうばつ)、祝詞奏上(のりとそうじょう)、玉串奉奠(たまぐしほうてん)と続く祭りが行われた。その後祭祀遺跡や山頂の灯台を見学し昼前に岸壁に戻った。

 ところで5月27日は日露戦争の日本海海戦の日である。この聖なる島は国運を賭けた生々しい戦いを目撃した島でもある。いやそれどころか軍の通信所が置かれた島でもあった。
 国を守る、安全に通航する、そんな祈りを捧げるときに、忘れられない島なのである。来年は日露戦争100周年。沖津宮の大祭もより盛んなものになるだろう。

沖津宮現地大祭

沖津宮現地大祭

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▼ 港ではいつも近海で操業している漁師たちが魚料理を振舞って直会(なおらい)が行われる。持参の酒をたしなむ者、大社の神職が用意した缶ビールを買って喉を潤すもの。儀式が済んだ後のすっかり和んだ風景がある。
 12時頃に再び乗船し、船でこの島を一周してこの日の行事が終わった。
 沖ノ島から大島に戻り、更に宗像の神湊(こうのみなと)に戻った。その足で宗像の辺津宮(へつみや)にお参りして今回の参拝を終わりにした。

 驚くべき遺産を持つこの宗像大社を、世界文化遺産に登録しようという運動が行われている。そうなればこの北部九州の地が、内外の人々から一段と注目を浴びることになるだろう。
 最寄の駅は、JR九州の鹿児島本線東郷駅と西鉄宮路岳線の津屋崎駅である。登録がうまくいけば、これらの鉄道や沿線の活性化へと期待は膨らむ。

岩壁での直会

岩壁での直会

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