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ざるやぶり神事 |
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八雲神社 |
三重県津市 |
平成20年(2008)7月15日(火) |
撮影・原作:市川 清 監修:和田義男 |
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約400年の伝統を受け継ぐ奇祭「ざるやぶり神事」は、三重県津市河芸町一色(つし・かわげちょう・いっしき)に鎮座する八雲神社(やくもじんじゃ)で毎年7月15日に行われる夏祭りで、豊漁と安全を祈願する裸祭りである。紅白の褌を締め分けた120人ほどの裸男たちが直径1mほどの笊(ざる)を奪い合う光景は勇壮で、町外からも多くの見物客が訪れる。 |
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境内で揉み合う褌衆 |
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クライマックスには、神前の「大ざる」がねりの中に投げ込まれ、激しい奪い合いとなる。その由来は、三井高次ら一族が紀州地方を転戦の末破れ一色海岸にたどり着き、空腹のあまり民家のざるにあった「よまし麦」を食べたところを家人に見つかり、ざるの奪い合いになったという故事にちなむものである。ひきちぎられたざるの竹の端を噛むと歯痛に効くといわれる。 |
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はだかの集団に降りかかる力水 |
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午後8時ころ、花火の合図とともに、「ワッショイ、ワッショイ」と気勢を上げながらスクラムを組んで境内を駆け回る120人余の褌衆は、バケツの力水を浴びながら威勢良くぶつかり合い、揉み合った。 |
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ずぶ濡れになったはだか衆 |
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▼ やがて、ずぶ濡れの裸の集団に大笊(おおざる)が投げ込まれると、男たちが我先に群がり、なだれを打つように奪い合う光景が見られ、祭りは最高潮に達した。ザルは間もなくバラバラになり、見物客たちも破片を拾い集め、大事そうに持ち帰った。 |
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なつのよや ふんどししめて ざるやぶり |
Summer night, a scramble for
a bamboo colander wearing fundoshi sash. |
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ざるの奪い合い! |
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赤褌神輿 |
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那古野神社 |
愛知県名古屋市 |
平成24年(2012)7月16日(月) |
撮影・原作:宮嶋 茂 監修:和田義男 |
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平成24年(2012)7月16日(月)海の日、愛知県名古屋市に鎮座する那古野(なごや)神社(宮地俊彦宮司)で例大祭(天王祭)が開催された。 |
名古屋城天守閣の南方約1.2kmの名古屋市中区丸の内に鎮座する那古野神社は、醍醐天皇の御代、延喜11年(911)に那古野庄(なごのしょう)(名古屋城三の丸付近)に創建され、平成23年(2011)に御鎮座1100年祭を祝った。津島牛頭天王社(つしま・ごずてんのうしゃ
現在の津島神社)を総本社とする天王社の一つで、当初は亀尾天王社(かめのお・てんのうしゃ)と呼ばれていた。 |
明治維新の際、須佐之男神社(すさのおじんじゃ)と改称し、明治9年(1876)名古屋鎮台が城内に置かれたため東照宮と共に旧藩校明倫堂跡地である現在地に遷座し、明治32年(1899)に那古野神社と改称した。先の大戦中には空襲により社殿が全焼。昭和29年(1954)から復興にとりかかり、昭和34年(1959)に現在の社殿が完成した。 |
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りょくいんの あかふんみこし しろせんす |
A white folding fan, the
portable shrine of red loincloth in the shade of green trees. |
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かつては旧暦の6月15・16日が祭礼日(現在は新暦7月15・16日)で、江戸時代には「三之丸天王祭」と呼ばれ、東照宮祭、若宮祭と共に名古屋三大祭のひとつとして、二輛の車楽(だんじり)と多くの見舞車が巡行して大いに賑わったという。 |
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例大祭(天王祭)に神輿が参加するようになったのは、明治25年(1892)からで、当時は大神輿2トン(1基60人)、中神輿1.5トン(2基各50人)の3基の宮神輿があった。乱暴に練り歩いたため、暴れ神輿と呼ばれ、名を馳せていたという。 |
那古野神社から若宮八幡社へ渡御するのは、昔は名古屋城の中で一緒にあったものが、現在位置に離れ離れになったため、渡御が行われることになった。 |
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あかふんの てんのうさいや みこしさし |
Tenno-sai Festival of red loincloth,
raising the portable shrine. |
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先の戦災で焼けたため、現在の大神輿1.5トン(90人)は昭和33年(1958)に建造され、社殿の復興と共に神輿渡御が再開された。中神輿0.8トン(40人)は、そのとき総本社の津島神社(愛知県津島市)から移管したもので、現在、大中2基の宮神輿により御旅所の若宮八幡社まで片道約2kmの道を日帰りで渡御と還御を行っている。 |
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大中2基の宮神輿は、寄棟造の江戸型神輿と違って、いづれも神明造(しんめいづくり)の神殿(本殿)を模した神明造神輿で、神紋の金の木瓜紋(ぼけもん)が描かれた赤い布で覆われている。 |
斎館の控室で祭装束に着替えて出て来た担ぎ手たちは、全員赤褌(あかふん)を締めている。祭事の衣装は白が原則なので、宮地宮司に尋ねたところ、赤い褌は、魔除(まよけ)の意味で締めているとのこと。赤褌に那古野神社祭礼奉仕会の青法被を着ているのは、神輿の指揮に当たる役員たちで、実質的に采配するのは二番永田組。 |
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おたびしょの あかふんみこし たかだかと |
The portable shrine of red loincloth,
raising high at destination. |
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大都市の空洞化現象は東京だけでなく名古屋も例外ではなく、宮地俊彦宮司によると、地元の氏子だけでは神輿があがらず、部外者の力を借りているという。 |
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部外から参加する場合は、準備の都合上事前予約制となっている。担ぎ手の参加料は無料で、拝殿右隣りの斎館ロビーの受付係で名簿確認を受けると、茶法被・赤褌・鉢巻・白地下足袋・団扇が入ったビニール袋が手渡される。更衣室は斎館の奥にある。 |
ビニール袋をもらったあと、ガーゼに朱印を押した参加章を手首に巻いてくれる。これはもぐりで参加する人がいるためで、保安管理上必要なことであろう。祭が終わったあと、参加章と引き替えに絵馬がもらえる。 |
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なつまつり びるのたにまの あかふどし |
Summer festival, red
loincloth in the valley between tall buildings. |
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●傑作アニメーション●
拡大写真:ビルの谷間の赤褌神輿/壱(桜通本町交差点) |
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津屋崎祗園山笠 |
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波折神社 |
福岡県福津市 |
平成22年(2010)7月18日(日) |
撮影・原作:曽根由香 監修:和田義男 |
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平成22年(2010)7月18日(日)、福岡県福津市(ふくつし)津屋崎(つやざき)に鎮座する波折神社(
なみおり・じんじゃ)で祇園山笠(ぎおんやまかさ)の追い山(おいやま)が開かれた。 |
津屋崎祇園山笠は、正徳4年(1714)に櫛田神社(博多)から波折神社(津屋崎)に祇園社の神を勧請(かんじょう)して3基の山笠を奉納し、疫病、災害の退散を祈願したことに始まる。山笠は、漁業中心の北流(きたながれ)、商業中心の新町流(しんまちながれ)、農業中心の岡流(おかながれ)の3つの流れがある。 |
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りょくいんの あかてのごいや ふどししゅう |
The shade of trees, the guys each wearing a string loincloth and
a red towel band. |
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▼ 午前9時前、祇園山笠最大の見せ場である追い山が始まり、一番山笠から順に波折神社を出発。
男たちは、オイッサ!オイッサ!の掛け声とともに、津屋崎交番付近を到着点とするコースを全力疾走した。 |
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やまかさや せいどううみに いっちょくせん |
Yamakasa festival, the sacred road straight towards the sea. |
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清道 |
を疾走する三番山笠・ |
岡流 |
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▼ 追い山が終わると、その余勢を駆って氏子町内を練り歩く流れ舁(ながれかき)が行われた。男たちは、勢い水で濡れ鼠状態になりながら、道ばたで見守る大勢の観衆に晴れ姿を披露していた。 |
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猪鼻の甘酒こぼし |
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猪鼻熊野神社 |
埼玉県秩父市 |
平成23年(2011)
7月24日(第四日曜日) |
撮影:和田義男 |
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平成23年(2011)7月24日(日)、埼玉県秩父市荒川白久に鎮座する猪鼻熊野神社で、埼玉県無形民俗文化財に指定されている「猪鼻の甘酒こぼし」が開かれた。 |
天平8年(736)以来今日まで約1300年にわたって「甘酒こぼし」を継承してきた奥秩父の猪鼻地区では、過疎化高齢化が進み、かつて70軒あった村落が39軒にまで減少し、もはや地元の勢力だけでは祭の催行が難しくなっている。 |
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かむにわに つどうむらびと なつまつり |
The summer
festival, villagers gathering at the garden of deities of
Shinto. |
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578km2に7万人が暮らす秩父市は、埼玉県北西部の秩父地方(秩父盆地)に位置し、埼玉県内で最も広い自治
体である。市域のほとんどが秩父多摩甲斐国立公園や武甲・西秩父埼玉県立自然公園に指定されている。 |
★☆★彡 |
保存会の資料によると、「景行天皇(西暦71-130年)の第三皇子である倭建命(やまとたけるのみこと)が東夷(とうい)(東方のえびす、えぞ)平定のおり、甲斐の国(山梨県)から雁坂峠を越えて三峯(みつみね)に登り、下山の途中、この地で人々を苦しめていた大きな猪(いのしし)を退治した。 |
実はこの猪は山賊の頭で、仲間たちもみんな巨岩に押し倒されて死んでしまった。この巨岩が猪の鼻にそっくりだったので、この土地を「イノハナ」と呼ぶようになった。 |
現在は、毎年七月第四日曜日の午後一時、無病安全豊作などの祈願をし、土地の人が造った甘酒を熊野神社にお供えし、参詣の人々や氏子たちが飲んでから、子供から老人までが、ふんどしひとつで賑やかに甘酒を頭からかけ合う「甘酒こぼし」をしている。」(埼玉県秩父市荒川白久猪鼻
熊野神社社務所 甘酒こぼし保存会) |
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すいらんの あまざけこぼし しろふどし |
Green
mountain, white loincloth of amazake scattering festival. |
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編集子の選ぶ傑作 |
名作シーン(アニメーション)
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パノラマ写真(3000X1600)1.44MB |
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編集子の選ぶ傑作 |
盛り上がる甘酒掛けくらべ 2013.7.28
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拡大写真(2400X2100)1.36MB |
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大和田の荒神輿 |
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大和田氷川神社 |
埼玉県新座市 |
平成20年(2008)7月26日(土) |
撮影・制作:和田義男 |
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平成20年(2008)7月26日(土)、埼玉県新座市(にいざし)に鎮座する大和田氷川神社(おおわだ・ひかわじんじゃ)で神幸祭(じんこうさい/しんこうさい)「大和田はだか神輿」(平成14年新座市指定無形民俗文化財)が行われた。 |
毎年7月末の金・土に行われる大和田氷川神社の夏祭りは、神社が再建された享和3年(1803)に神輿を担ぐ祭礼が始まったと伝えられ、200年以上の歴史がある。 |
当時の祭礼は、旧暦6月14・15の両日に行われ、天災から作物や家畜を守り、豊作を願い、村人の無病息災を祈るために行われていた。6月15日には、拝殿において「法楽の式」が催されたあと、はだか神輿が別当寺の晋光明寺や大和田宿に繰り出したという。主に雨乞いの効果があるといわれ、大和田地区あげての祭りとして現在に受け継がれている。 |
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社務所の控え室で、白の晒木綿一反(10m)を使った褌を締め込む様子を撮影させてもらった。全国を見渡すと褌を祭り衣装とする裸祭りではさまざまな締め方があるが、大和田氷川神社では、特に激しく運動するので、緩みのない前袋式に統一されている。 |
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5 前垂れを |
後ろ立褌 |
に |
捩 |
りながら股間にとおす |
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▼ 腹ごしらえの最中に加藤良明・氏子会長から注意事項などの伝達があったが、神輿を担ぐときは、法被を脱ぐよう指導していた。法被をはおっていると転んだときなどに布がまといつき、瞬時に危難から逃れられないという。褌一丁の裸形であれば、汗が潤滑油となり、機敏に行動できるので、怪我をしないのだという。 |
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社務所控室で注意事項を伝達する加藤良明・氏子会長 18:35
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