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 旅紀行日本の裸祭り

2018年10月20日改訂

今 日

昨 日

♪翁千歳三番叟

大和田の玉汗踊る荒神輿   北舟

拡大写真(1800x1300)404KB

The rough mikoshi of heavy sweat dancing at Ohwada.

2010年7月21日制作

大和田中町交差点の神輿揉み

大和田の荒神輿

大和田中町交差点の神輿揉み/大和田氷川神社(埼玉県新座市)

- 日本の伝統文化が息づく祭 -

 

日本裸祭百景【中巻】

文月

ざるやぶり神事
八雲神社
三重県津市
平成20年(2008)7月15日(火)
撮影・原作:市川 清 監修:和田義男

  約400年の伝統を受け継ぐ奇祭「ざるやぶり神事」は、三重県津市河芸町一色(つし・かわげちょう・いっしき)に鎮座する八雲神社(やくもじんじゃ)で毎年7月15日に行われる夏祭りで、豊漁と安全を祈願する裸祭りである。紅白の褌を締め分けた120人ほどの裸男たちが直径1mほどの笊(ざる)を奪い合う光景は勇壮で、町外からも多くの見物客が訪れる。

境内で揉み合う褌衆

境内で揉み合う褌衆

拡大写真(2000X1400)395KB
   クライマックスには、神前の「大ざる」がねりの中に投げ込まれ、激しい奪い合いとなる。その由来は、三井高次ら一族が紀州地方を転戦の末破れ一色海岸にたどり着き、空腹のあまり民家のざるにあった「よまし麦」を食べたところを家人に見つかり、ざるの奪い合いになったという故事にちなむものである。ひきちぎられたざるの竹の端を噛むと歯痛に効くといわれる。  

はだかの集団に降りかかる力水

はだかの集団に降りかかる力水

拡大写真(1800X1250)365KB

 午後8時ころ、花火の合図とともに、「ワッショイ、ワッショイ」と気勢を上げながらスクラムを組んで境内を駆け回る120人余の褌衆は、バケツの力水を浴びながら威勢良くぶつかり合い、揉み合った。

ずぶ濡れになったはだか衆

ずぶ濡れになったはだか衆

拡大写真(1600X1100)266KB

▼ やがて、ずぶ濡れの裸の集団に大笊(おおざる)が投げ込まれると、男たちが我先に群がり、なだれを打つように奪い合う光景が見られ祭りは最高潮に達した。ザルは間もなくバラバラになり見物客たちも破片を拾い集め、大事そうに持ち帰った。

  夏の夜や褌締めて笊破り  北舟 

なつのよや ふんどししめて ざるやぶり

Summer night, a scramble for a bamboo colander wearing fundoshi sash.

ざるの奪い合い!

ざるの奪い合い!

拡大写真(1600X1100)237KB
赤褌神輿
那古野神社
愛知県名古屋市
平成24年(2012)7月16日(月)
撮影・原作:宮嶋 茂 監修:和田義男

 平成24年(2012)7月16日(月)海の日、愛知県名古屋市に鎮座する那古野(なごや)神社(宮地俊彦宮司)で例大祭(天王祭)が開催された。
 名古屋城天守閣の南方約1.2kmの名古屋市中区丸の内に鎮座する那古野神社は、醍醐天皇の御代、延喜11年(911)に那古野庄(なごのしょう)(名古屋城三の丸付近)に創建され、平成23年(2011)に御鎮座1100年祭を祝った。津島牛頭天王社(つしま・ごずてんのうしゃ 現在の津島神社)を総本社とする天王社の一つで、当初は亀尾天王社(かめのお・てんのうしゃ)と呼ばれていた。
 明治維新の際、須佐之男神社(すさのおじんじゃ)と改称し、明治9年(1876)名古屋鎮台が城内に置かれたため東照宮と共に旧藩校明倫堂跡地である現在地に遷座し、明治32年(1899)に那古野神社と改称した。先の大戦中には空襲により社殿が全焼。昭和29年(1954)から復興にとりかかり、昭和34年(1959)に現在の社殿が完成した。
  緑陰の赤褌神輿白扇子  北舟 

りょくいんの あかふんみこし しろせんす

A white folding fan, the portable shrine of red loincloth in the shade of green trees.

大神輿を担いでいざ出発! 13:45

大神輿を担いでいざ出発! 13:45

拡大写真(2400X1800)1.13MB

 かつては旧暦の6月15・16日が祭礼日(現在は新暦7月15・16日)で、江戸時代には「三之丸天王祭」と呼ばれ、東照宮祭、若宮祭と共に名古屋三大祭のひとつとして、二輛の車楽(だんじり)と多くの見舞車が巡行して大いに賑わったという。

 例大祭(天王祭)に神輿が参加するようになったのは、明治25年(1892)からで、当時は大神輿2トン(1基60人)、中神輿1.5トン(2基各50人)の3基の宮神輿があった。乱暴に練り歩いたため、暴れ神輿と呼ばれ、名を馳せていたという。
 那古野神社から若宮八幡社へ渡御するのは、昔は名古屋城の中で一緒にあったものが、現在位置に離れ離れになったため、渡御が行われることになった。
  赤褌の天王祭や神輿差  北舟 

あかふんの てんのうさいや みこしさし

Tenno-sai Festival of red loincloth, raising the portable shrine.

神輿を差して一周する大神輿/壱(桜通本町交差点)

神輿を差して一周する大神輿/壱(桜通本町交差点)

拡大写真(2400X1800)923KB

 先の戦災で焼けたため、現在の大神輿1.5トン(90人)は昭和33年(1958)に建造され、社殿の復興と共に神輿渡御が再開された。中神輿0.8トン(40人)は、そのとき総本社の津島神社(愛知県津島市)から移管したもので、現在、大中2基の宮神輿により御旅所の若宮八幡社まで片道約2kmの道を日帰りで渡御と還御を行っている。

 大中2基の宮神輿は、寄棟造の江戸型神輿と違って、いづれも神明造(しんめいづくり)の神殿(本殿)を模した神明造神輿で、神紋の金の木瓜紋(ぼけもん)が描かれた赤い布で覆われている。
 斎館の控室で祭装束に着替えて出て来た担ぎ手たちは、全員赤褌(あかふん)を締めている。祭事の衣装は白が原則なので、宮地宮司に尋ねたところ、赤い褌は、魔除(まよけ)の意味で締めているとのこと。赤褌に那古野神社祭礼奉仕会の青法被を着ているのは、神輿の指揮に当たる役員たちで、実質的に采配するのは二番永田組。
  御旅所の赤褌神輿高々と  北舟 

おたびしょの あかふんみこし たかだかと

The portable shrine of red loincloth, raising high at destination.

中神輿のアブセ 15:12

中神輿のアブセ 15:12

拡大写真(2400X1800)1.04MB

 大都市の空洞化現象は東京だけでなく名古屋も例外ではなく、宮地俊彦宮司によると、地元の氏子だけでは神輿があがらず、部外者の力を借りているという。

 部外から参加する場合は、準備の都合上事前予約制となっている。担ぎ手の参加料は無料で、拝殿右隣りの斎館ロビーの受付係で名簿確認を受けると、茶法被・赤褌・鉢巻・白地下足袋・団扇が入ったビニール袋が手渡される。更衣室は斎館の奥にある。
 ビニール袋をもらったあと、ガーゼに朱印を押した参加章を手首に巻いてくれる。これはもぐりで参加する人がいるためで、保安管理上必要なことであろう。祭が終わったあと、参加章と引き替えに絵馬がもらえる。
  夏祭ビルの谷間の赤ふどし  北舟 

なつまつり びるのたにまの あかふどし

Summer festival, red loincloth in the valley between tall buildings.

●傑作アニメーション● 拡大写真:ビルの谷間の赤褌神輿/壱(桜通本町交差点)

 ●アニメーション● ビルの谷間の赤褌神輿/壱(桜通本町交差点) 16:51

拡大写真(2000X1800)906KB

津屋崎祗園山笠
波折神社
福岡県福津市
平成22年(2010)7月18日(日)
撮影・原作:曽根由香 監修:和田義男

 平成22年(2010)7月18日(日)、福岡県福津市(ふくつし)津屋崎(つやざき)に鎮座する波折神社( なみおり・じんじゃ)で祇園山笠(ぎおんやまかさ)の追い山(おいやま)が開かれた。
 津屋崎祇園山笠は、正徳4年(1714)に櫛田神社(博多)から波折神社(津屋崎)に祇園社の神を勧請(かんじょう)して3基の山笠を奉納し、疫病、災害の退散を祈願したことに始まる。山笠は、漁業中心の北流(きたながれ)、商業中心の新町流(しんまちながれ)、農業中心の岡流(おかながれ)の3つの流れがある。
  緑陰の赤手拭や褌衆 北舟 

りょくいんの あかてのごいや ふどししゅう

The shade of trees, the guys each wearing a string loincloth and a red towel band.

赤い鉢巻・てっぽうの三番山笠・

岡流おかながれ

赤い鉢巻・てっぽうの三番山笠・岡流

拡大写真(2598X1728)1.20MB

▼ 午前9時前、祇園山笠最大の見せ場である追い山が始まり一番山笠から順に波折神社を出発。 男たちはオイッサ!オイッサ!の掛け声とともに、津屋崎交番付近を到着点とするコースを全力疾走した。
  山笠や清道海に一直線  北舟 

やまかさや せいどううみに いっちょくせん

Yamakasa festival, the sacred road straight towards the sea.

清道せいどう を疾走する三番山笠・

岡流おかながれ

清道を疾走する三番山笠・岡流

拡大写真(2000X1400)673KB

  ▼ 追い山が終わると、その余勢を駆って氏子町内を練り歩く流れ舁(ながれかき)が行われた。男たちは、勢い水で濡れ鼠状態になりながら、道ばたで見守る大勢の観衆に晴れ姿を披露していた。  
津屋崎千軒つやざききせんけん を行く新町流

津屋崎千軒を行く新町流

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猪鼻の甘酒こぼし
猪鼻熊野神社
埼玉県秩父市
平成23年(2011) 7月24日(第四日曜日)
撮影:和田義男

 平成23年(2011)7月24日(日)、埼玉県秩父市荒川白久に鎮座する猪鼻熊野神社で埼玉県無形民俗文化財に指定されている「猪鼻の甘酒こぼし」が開かれた。
 天平8年(736)以来今日まで約1300年にわたって「甘酒こぼし」を継承してきた奥秩父の猪鼻地区では、過疎化高齢化が進み、かつて70軒あった村落が39軒にまで減少し、もはや地元の勢力だけでは祭の催行が難しくなっている。
   神庭に集う村人夏祭  北舟 

かむにわに つどうむらびと なつまつり

The summer festival, villagers gathering at the garden of deities of Shinto.

 578km2に7万人が暮らす秩父市は埼玉県北西部の秩父地方(秩父盆地)に位置し、埼玉県内で最も広い自治
体である。市域のほとんどが秩父多摩甲斐国立公園や武甲・西秩父埼玉県立自然公園に指定されている。

★☆★彡

 保存会の資料によると、「景行天皇(西暦71-130年)の第三皇子である倭建命(やまとたけるのみこと)が東夷(とうい)(東方のえびす、えぞ)平定のおり、甲斐の国(山梨県)から雁坂峠を越えて三峯(みつみね)に登り下山の途中この地で人々を苦しめていた大きな猪(いのしし)を退治した。
 実はこの猪は山賊の頭で、仲間たちもみんな巨岩に押し倒されて死んでしまった。この巨岩が猪の鼻にそっくりだったので、この土地を「イノハナ」と呼ぶようになった。
 現在は、毎年七月第四日曜日の午後一時、無病安全豊作などの祈願をし、土地の人が造った甘酒を熊野神社にお供えし参詣の人々や氏子たちが飲んでから、子供から老人までが、ふんどしひとつで賑やかに甘酒を頭からかけ合う「甘酒こぼし」をしている。」(埼玉県秩父市荒川白久猪鼻 熊野神社社務所 甘酒こぼし保存会)
   翠巒の甘酒こぼし白ふどし  北舟 

すいらんの あまざけこぼし しろふどし

Green mountain, white loincloth of amazake scattering festival.

編集子の選ぶ傑作

名作シーン(アニメーション)

「甘酒こぼし」が行われる広い境内

パノラマ写真(3000X1600)1.44MB

編集子の選ぶ傑作

盛り上がる甘酒掛けくらべ 2013.7.28

盛り上がる甘酒掛けくらべ 2013.7.28

拡大写真(2400X2100)1.36MB

大和田の荒神輿
大和田氷川神社
埼玉県新座市
平成20年(2008)7月26日(土)
撮影・制作:和田義男

 平成20年(2008)7月26日(土)、埼玉県新座市(にいざし)に鎮座する大和田氷川神社(おおわだ・ひかわじんじゃ)で神幸祭(じんこうさい/しんこうさい)「大和田はだか神輿」(平成14年新座市指定無形民俗文化財)が行われた。
 毎年7月末の金・土に行われる大和田氷川神社の夏祭りは、神社が再建された享和3年(1803)に神輿を担ぐ祭礼が始まったと伝えられ、200年以上の歴史がある。
 当時の祭礼は、旧暦6月14・15の両日に行われ、天災から作物や家畜を守り、豊作を願い、村人の無病息災を祈るために行われていた。6月15日には、拝殿において「法楽の式」が催されたあと、はだか神輿が別当寺の晋光明寺や大和田宿に繰り出したという。主に雨乞いの効果があるといわれ、大和田地区あげての祭りとして現在に受け継がれている。

 社務所の控え室で、白の晒木綿一反(10m)を使った褌を締め込む様子を撮影させてもらった。全国を見渡すと褌を祭り衣装とする裸祭りではさまざまな締め方があるが、大和田氷川神社では、特に激しく運動するので、緩みのない前袋式に統一されている。
1 

晒木綿さらしもめん

を股間にとおす
2 右から左に

横褌よこみつ

を巻く
1 晒木綿を股間にとおす 2 右から左に横褌(よこみつ)を巻く

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拡大写真(1200x900)159KB

 

ふんどし

(ヒッチ)をかける

4 広げながら巻く

3 褌(ひっち)をかける 4 広げながら巻く

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5 前垂れを

後ろ立褌うしろたてみつ

よじ

りながら股間にとおす
6 

後ろ立褌うしろたてみつ

に止める
5 前垂れを捻りながら股間にとおす 6 後ろの立褌に止める

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7 残りを胴に巻く
8 

よじ

りをかけながら巻き締める
6 残りを胴に巻く 8 捩りをかけながら巻き締める

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ふんどし

の両端を結ぶ
10 余った

端布はぎれ

を切り取って完成
9 褌の両端を結ぶ 10 余った端布を切り取って完成

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▼ 腹ごしらえの最中に加藤良明・氏子会長から注意事項などの伝達があったが神輿を担ぐときは、法被を脱ぐよう指導していた。法被をはおっていると転んだときなどに布がまといつき、瞬時に危難から逃れられないという。褌一丁の裸形であれば、汗が潤滑油となり、機敏に行動できるので、怪我をしないのだという。
社務所控室で注意事項を伝達する加藤良明・氏子会長  18:35

社務所控室で注意事項を伝達する加藤良明・氏子会長  18:35

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▼ はだか神輿の担ぎ手は白足袋に白の一反晒(いったんさらし)(約10mの晒木綿)の褌・腹巻を締め込み帯紐(おびひも)のない白法被(しろはっぴ)をはおるが、神輿を担ぐときは法被を丸めて肩に乗せ、担ぎ棒が直接肩にあたらないようにする。褌姿で神輿を担ぐところから、いつしか「はだか神輿」と呼ばれるようになり、その勇壮な様から「荒神輿(あれみこし)」とも呼ばれるようになった。

地を這うはだか神輿

地を這うはだか神輿

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  ▲▼ 昔の担ぎ手は大勢いたことから「法被(はっぴ)」さんと「野次馬(やじうま)」に分かれていた。背に「神輿」の文字が入った正規の法被を着ることができる長男(家の跡継ぎ)と、無文字の法被しか着用できない次男以下のグループという分け隔てである。  
佳境に入った神輿揉み 20:45

佳境に入った神輿揉み

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▲▼ 現在でも担ぎ手の長は法被頭(はっぴがしら)と呼ばれる。今年の法被頭は浅田浩司さん。4時間の神輿練りの間たった一人で棒鼻*(ぼうばな)の前で神輿の現場指揮を執るタフな役回りである。帯紐のない白色の長法被をはおり、背に「神輿」、襟に「氷川神社」「法被総頭」の文字が入れられている。
*棒鼻(ぼうばな):先棒(さきぼう) (先頭の担ぎ棒)の先端
ジャンピング神輿

ジャンピング神輿

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  荒神輿白ふんどしのジャンピング  北舟 

あれみこし しろふんどしの じゃんぴんぐ

The rough mikoshi,

white fundoshi loincloths jumping.

▼ 午後9時から11時までが後半の部で、広い境内で数度の休憩を取りながらたっぷりと神輿練りが奉納された。

拝殿前の神輿揉み  21:05

拝殿前の神輿揉み

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休憩のあと神前で荒神輿の奉納 21:30

休憩のあと神前で荒神輿の奉納

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