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カヌーツアー
Canoe Tour
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カヌーショーを楽しんだ後はカヌーツアーを体験する。順番待ちの椅子に座り、次々に出発するカヌーに乗り込む。 |
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配付パンフレットより抜粋 |
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▲▼ カヌーツアーは、発着所からラグーンを進み、水上から6つの村を見てまわるというもの。
何処に何があるか、センター内の概要を把握できるが、カヌーから見える範囲は限られているので、完全に把握することは難しい。 |
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カヌーツアーに参加する観光客 / カヌーツアー発着所 15:06
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▲▼ カヌーに乗ると、立ち上がることが許されないので、私は最後尾に乗り、カメラを頭上に構えてめくら撮りした。 |
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↓カヌーツアー発着所 |
最初の橋の下を通過 15:15 |
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サモア村 |
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艇庫に入ったマオリの戦闘用カヌー / アオテアロア村 15:18
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アウトリガー・カヌーと艇庫 / ハワイ村 15:23
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水鳥「ノバリケン」の出迎え / ハワイ村 15:25
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双胴カヌー「イオセパ」
Iosepa
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▼ ハワイ村の一角にある双胴カヌー「イオセパ」
Iosepa
の展示施設は、2008年に完成したもので、ハラウ・バア
halau wa’a
と呼ばれる。双胴の遠洋航海カヌー「イオセパ」は、隣接するブリガム・ヤング大学ハワイ校が所有しているもので、帆の高さが17mほどあり、展張しても良いように合掌造りのような高い艇庫を設けている。 |
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▲▼ 写真下は、ハワイ島のジャガー・ミュージアムに展示されていたパネルだが、イオセパは、当時の大型遠洋航海カヌーを再現したもの。ネイティブ・ハワイアン(ハワイ先住民)はアイヌのように文字を持たないので、想像に頼るほかはない。 |
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ポリネシア人によるハワイ発見の様子を想像したパネル/ジャガー・ミュージアム(ハワイ島)
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オセアニア(ポリネシア・ミクロネシア・メラネシア)に住む人々
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▲▼
暑い地域に住むネイティブ(先住民)たちは、裸で暮らすことが多く、男性の下着はマロ(褌)が多い。この絵は、儀礼的な褌姿が描かれているが、この後ビショップ・ミュージアムでたっぷりと検証するが、ハワイの男たちは、日本人の六尺褌そっくりのマロ一丁で生活しており、戦争に際しても兵士たちはそのままの姿で戦った。まさに、日本と同じ裸褌文化が根付いていた。 |
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パプア・ニューギニア |
ハワイ |
マルケサス |
南アメリカ |
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▼ ポリネシアン・トライアングルの中央に位置するタヒチの楽園をこよなく愛したポール・ゴーギャンは、パレオ
(腰巻)をまとっただけの女性を数多く描いている。1899年の「三人のタヒチ人」は裸の男性の左右に立つ女性を描いた傑作であるが、この絵の中央の男性は、紫色の褌をしている。 |
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internetで検索すると、タヒチの観光スポットでも褌一丁で漁をする様子を見せるところがあるので、タヒチも裸褌文化だったことが分かる。 |
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三人のタヒチ人(1899年) ポール・ゴーギャン画 |
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ラパ・ヌイ
Lapa Nui
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チリの沿岸から西方約3,700km沖合の太平洋に浮かぶチリ領ラパ・ヌイ(イースター島)は、ユネスコの世界文化遺産に登録されており、ここには約900体のモアイ像が残されている。パ・ヌイは、先住民の言葉で大きい島という意味。 |
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7世紀から千年にわたって作られ続けたモアイ像は、部族の長の姿を表したものといわれているが、その殆どは、16世紀から17世紀に起きた部族抗争で破壊されてしまった。 |
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▼ 残された数少ないモアイ像をみると、その後ろ姿に紐状の褌が表現されており、
ラパ・ヌイでもネイティブ(先住民)たちは、褌一丁で生活していたことが分かる。 |
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資料画像 |
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ハワイ村
HAWAII
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▲▼
タヒチ村から橋を渡ってハワイ村に行った。ポリネシア文化センターによるハワイの紹介があったので、ここに要約して掲載しておく。 |
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幾世紀もの間、世界から隔絶されていたハワイ民族は、その限られた環境にあって独特な文化を築き、貴族や庶民など高度に階級化された社会を形成し、自分たちの宗教を法律として適用しました。 |
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ハワイ民族は天然物を原料に調合した薬や信仰の力で病気を治しました。また、複雑で詩的な詠唱歌やダンスによって自らの歴史を記録し、木、樹皮、羽毛を使って芸術品を創造しました。 |
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ハウ(モンキー・ポッド・ツリー)の木陰でフラの練習 1/2 15:41
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りょくいんの しばふのぶたい ふらだんす |
Hula dance, the stage of lawn
in the shade of a tree. |
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ハウ(モンキー・ポッド・ツリー)の木陰でフラの練習 2/2 15:41
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外国との出合いは衝撃的で、ハワイ民族にただち荒廃をもたらしました。二、三年も経たぬうちに、免疫のない病原菌が持ち込まれ、ハワイ民族は激減してしまいました。また、新しく持ち込まれた植物、動物はハワイの環境を一変させ、ハワイの伝統的文化は、事実上、その影を潜めてしまいました。 |
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↓タロイモ畑 |
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このような状態にあって、その伝統を着実に守り、保存し続けて来た人々、その保存を援助している各団体の努力が実り、現在、ハワイ全島に渡ってハワイ伝統文化復興の強い動きがよみがえっています。これからの世代を担う若者達は、自分達の伝統である伝承文化を学び、そしてその文化に誇りを抱き自らの将来に自信をもって向かっています。 |
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ハワイ村の中心はロイ・カロというタロ芋の水田です。タロ芋はハワイの人々にとって生命の糧です。葉はホウレン草のような味がし、地下茎はつぶしてポイを作るか、地面を掘って作られたオーブンで焼きます。ポイはこの口当たりが良く紫色でペースト状のポイと、焼いたタロ芋は、ハワイ村内のハラウ(学びの小屋)で調理され、皆様にも体験していただけます。 |
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また、ハワイ村には、ラウハウの葉を編んでバスケット、うちわ、玩具などを作る家、ハレ・ウラナが建てられています。皆様にもハワイの工芸品作りにチャレンジしていただけます。 |
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ハワイの文化でもっとも有名なものは、何と言ってもあの優美な動きで知られるフラダンスです。”Keep
your eyes on your hands”(手元にご注意)というハワイアン・ソングにあるように、フラの指先は物語を語ってくれます。 |
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ハラウ・フラと呼ばれるフラダンスの学校で生徒が伝統を受け継ぎ、言葉と動きでダンスの歴史を伝えてくれます。大きく広がったハウの木陰で、皆様に参加していただけるような基本的なフラのレッスンも実施しております。 |
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▼ ハワイ村にココナッツをつけた椰子の木があった。道路やビーチ、ホテルの庭などに観賞用に植えられた椰子の木は、実が落ちて下を通る人を直撃し、怪我をさせさないよう、実が大きくなる前に切り取られてしまうので、たわわに実をつけた椰子の木を見る機会は少ない。 |
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ココナッツをつけた椰子の木 / ハワイ村 15:52
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タビビトノキ
Traveller's Tree
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▼ タビビトノキ(旅人の木、学名 Ravenala madagascariensis
)は旅人ヤシとしても知られるマダガスカル原産のバナナに似た植物である。オウギバショウ(扇芭蕉)とも旅人木(りょじんぼく)ともいう。ヤシではなくゴクラクチョウカ科に属する。茎に雨水を溜めるため非常用飲料として利用され、この名前が付いた。 |
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巨大な櫂状の葉が長い茎の先に扇状に並ぶ。ストレリチア(ゴクラクチョウカ)の仲間だが、花は小さく目立たない。その特性や葉の特徴から世界の熱帯・亜熱帯地域で広く栽培されている。マダガスカル航空の尾翼に図案化されている。 |
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フィジー村
FIJI
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ハワイ村の見学を終えてフィジー村に入った。フィジーは、あたかもコロ海を抱きかかえるかのように、322の島々が青い太平洋に蹄鉄(ていてつ)のような形に散在している群島で、ポリネシアに面したメラネシアの独立国である。 |
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マンゴーの木 |
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古代のフィジー人たちは、ポリネシアにはなかった陶器を使っていた。そのラピタ陶器の破片から、考古学者はフィジーへのラピタ人の到来は、紀元前1500年頃だと推定した。フィージー民族は優れた船乗りで、建築にも秀で、ヤシの葉や組縄を編む技術にも優れていて、古くからポリネシア各地との交流が盛んだった。1643年以来300年間に渡り、ヨーロッパ人はフィジー諸島を次から次へと発見していった。 |
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ポリネシアとメラネシアの交わるところ |
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1643年オランダのキャプテン・アベル・タスマンが、そして1774年にキャプテン・クックがフィジー諸島に属する小さな島を見つけたことを報告しています。1789年にはキャプテン・ウィリアム・ブライが境界線を無視してフィジーを航海して通りました。2001年7月当時フィジーの人口は約84万4200人で、ポリネシア人とメラネシア人の混血で成っています。フィジー諸島は約322の島々があり、その内約110の島に人間が住んでいます。1970年に独立国となるまで約1世紀程フィジーはイギリス領でした。1987年にはイギリスとのつながりを切り共和国となりました。最近フィジーでは政府体制の改革が行われました。
【▲ パネル説明文】
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フィジーの民家プレ・カロウ / フィジー村 〜カヌー・ツアーにて撮影〜
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武器を持つ不気味なフィジー戦士 / フィジー村
〜カヌー・ツアーにて撮影〜
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♪ ハワイ島で生まれたCD
2枚のテーマ曲 |
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● この頁に流れるBGMは、Gathering
Of The Kings - Mele Nu Hano - Aloha Aina - Keu Mau Mana Nui
の4曲である。最初の「
Gathering Of The Kings
王たちの集い」 と、3曲目の「
Aloha Aina 愛の島」
は、ハワイ島で購入したCD2枚のそれぞれのテーマ曲で、雰囲気が良く出ていて素晴らしい。 |
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ククイ
Kukui
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▼ ククイ (ハワイ語
kukui ) は、トウダイグサ科の樹木である。学名
Aleurites moluccanus
。キャンドルナッツ (英語 candlenut
)、クミリ (インドネシア語 kemiri
)、トゥイトゥイ (タヒチ語・トンガ語 tuitui
)とも呼ばれる。 |
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原産地は東南アジア。人間によって広まり、太平洋諸島を始め、熱帯地域に広く分布する。樹高10〜20mの落葉樹。白く小さい五弁花で、直径5cmほどの丸い果実をつける。種子は油に富み、50%以上が脂肪分である。 |
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油はニス、シャンプー、接着剤などさまざまな製品の原料となる。現在は儀礼用などに限られるが、かつては灯火としても使われ、英語名キャンドルナッツの元となった。 |
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果実の中の種子はハート形をしており、ハワイでは、中味を取りだし、殻(から)を磨いて着色し、レイやペンダントとして人気がある。 |
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