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■ 九日目
2013年6月24日(月) オアフ島 静養・ ビショップ博物館・パンチボール観光 ■ |
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▼ ツアー九日目は、ハワイ最後の日。ゆっくりと休養を取った後、ビショップ・ミュージアムとパンチボールを観光した。 |
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ビショップ・ミュージアムとパンチボール(国立太平洋記念墓地)
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ビショップ・ミュージアムは、ホノルル港の北方にあり、ワイキキからのアクセスには不便で、タクシーを利用して往復した。ワイキキ・パークホテルのフロントにタクシーを頼む際、このホテルはミュージアムの会員になっていて、宿泊客はカード・キーを見せれば無料で見学できると知り、超ラッキーだった。(入場料:大人一人19.95ドル) |
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ビショップ・ミュージアム入口 / ホノルル 2013.6.24 10:13
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ビショップ・ミュージアム
Bernice
Pauahi Bship Museum |
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▲▼ カメハメハ王家と深いつながりをもつ博物館ビショップ・ミュージアムは、ホノルル郊外にあるハワイ州最大の博物館で、1889年、カメハメハ・スクールの一画に建設された。カメハメハ・スクールを設立したカメハメハ王家最後の直系子孫(カメハメハ大王のひ孫)バニース・パウアヒ王女が癌を患って52歳で亡くなり、夫であるアメリカ人実業家チャールズ・リード・ビショップ
Charles Reed Bishop がその追悼のために建設したものである。 |
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玄武岩を積み上げて造られたビショップ・ミュージアム本館
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▲▼
1960年代にカメハメハ・スクールが丘の上に移転した後、ビショップ・ミュージアムは拡張を重ね、ポリネシアン・ホールとハワイアン・ホールを中心とした壮大なスケールの博物館へと発展した。現在、ハワイと太平洋諸島ポリネシア全域の文化に関する美術工芸品や文献、写真など、その数は200万点を超え、世界的にも価値の高い貴重な
コレクションとなっている。
ビショップ・ミュージアム日本語公式サイト |
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ビショップ・ミュージアムの説明パネル
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ポリネシア考古学の権威・篠遠喜彦博士 |
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ハワイへの移民がテ・ヘヌア・エナナ(マルケサス諸島)から行われたとの説は、ホノルルのビショップ・ミュージアムで活躍するポリネシア考古学の権威・篠遠喜彦(しのとう・よしひこ)博士(1924-)の説で、定説になっている。 |
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ビショップ・ミュージアムの人々 |
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ハワイ島のジャガー・ミュージアムに設置されたパネルは、「ハワイ発見」と題し、次のように説明されており、女神ペレの住む火を噴くハワイ島は、住むには最も厳しく、
移民最後の定住地だった。
ポリネシア人たちは、星や風向など自然の要素を彼らの道しるべとして使い、見事に広い太平洋を渡ることに成功した。定住してハワイ原住民となった人々の社会は、豊かなハワイの島々で繁栄していった。険しくて人を寄せ付けそうにないこの溶岩に被われたペレの島は、ハワイで定住することのできる最後の島だったといわれている。(和田訳) |
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ポリネシア人によるハワイ発見の様子を想像したパネル/ジャガー・ミュージアム(ハワイ島)
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受付を済ませて本館に入ると、丁度日本語ツアー(約1時間)が始まるというので、参加した。ガイドは、ハワイ在住の日本人で、早口の日本語で案内してくれた。 |
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王女が所有していた膨大な土地(全島のおよそ9分の1)やカメハメハ王家の宝物などは、全てビショップ財団に寄付されたが、王女の「遺産は、全てハワイアンの血を引く子供たちの教育に役立ててほしい」
との遺言により、この博物館がハワイの子供たちの教育を目的としてパウアヒ王女が築いたカメハメハ・スクールの敷地内に建てられた。 |
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ハワイアンの血を引く者だけが入学できるカメハメハ・スクールは、ホノルル市内を一望できる高台の広大な敷地に移転し、いまもハワイ文化復興の重要な担い手となっている
。現在、カメハメハ・スクール財団が運営するカメハメハ・スクールは、オアフ島の他にハワイ島とマウイ島にキャンパスがあり、幼稚園から12年生までの6,500人の生徒が通学している。 |
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しかし、ハワイアンの血を引くものであれば誰でも受け入れてもらえるわけではなく、成績優秀者でなければならないなど、底辺のハワイアンに十分な教育支援がなされていないという批判もある。 |
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ちなみに、ロイヤル・ハワイアンのある土地は、カメハメハ・スクール財団のもの。この土地は、もともとカメハメハ大王のものだったが、最終的にはカメハメハ王家末裔のパウアヒ王女の所有となった。ホテル名にロイヤル(国王の)がつくのはそのためだった。ロイヤル・ハワイアン関連施設での売上収益は、カメハメハ・スクールに還元され、地元ハワイアンの子供達の援助につながっている。 |
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日本人ガイドによるビショップ夫妻の説明 10:30
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カヒリ・ルーム
Kahiri
Room |
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ビショップ・ミュージアムの生い立ちを聞いたあと、カヒリ・ルームに行った。カヒリ・ルームには、実際に王家で使われていたカヒリが展示されいる。幸い、館内は、フラッシュ撮影を含め、全ての場所で撮影することができた。 |
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カヒリ・ルーム 1/2 〜カヒリ(鳥の羽で作られた王族のシンボル)
kahiri
〜
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カヒリは、鳥の羽根で作られた王族のシンボルで、長い棒の上に円筒状の羽があしらわれており、王族毎にデザインが異なっていいる。赤、黄色、黒などの鳥の羽根の色がまだ鮮やかに残っているものもある。カヒリは、一度作られたら二度と横に倒してはならず、必ずお付きが持つかスタンドに立てておかなくてはならない。 |
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鳥の羽根はとても貴重なもので、王族のマント、頭飾り、肩掛け、カヒリなどに使われている。 |
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カヒリ・ルーム 2/2
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ハワイ王家の系譜
The Royal
Lineages of Hawai'i |
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ハワイ王家は、ハワイ諸島を統一しハワイ王国を建国したカメハメハ1世を祖とする第一王朝カメハメハ家、カメハメハ王朝断絶後に選挙で選ばれたルナリロ国王一代限りの短い第二王朝ルナリロ家、ルナリロ王朝断絶後にまたも選挙で選ばれ実際に王国を統治した最後の王朝となった第三王朝カラカウア家、ハワイ最後の女王リリウオカラニによって後継とされた第四王朝カワナナコア家の4王朝に分かれている。 |
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ハワイ王家の系譜
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▲▼ カメハメハ1世による1810年のハワイ諸島統一によってハワイ王国が成立し、ハワイ王家が誕生。カメハメハ1世は多くの王妃を持ったが、正妃ではないカアフマヌ王妃が寵愛を受け、王の死後、副王としてカメハメハ2世と3世と共に王権を担った。このカアフマヌ王妃の治世下で、ハワイの伝統・習俗(カプ/タブー)の放棄とキリスト教化が進んだ。 |
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王妃の死後は、キナウ王女が副王の地位を受け継ぎ、弟王を補佐し、王位は彼女の息子たちに受け継がれ、カメハメハ3世の養子として4世が即位し、その死後に兄5世が即位した。しかし、近親婚や抗体のない伝染病によって王家は早くも衰亡へと向かっていき、1872年のカメハメハ5世の死によってカメハメハ王朝は終焉を迎えた。 |
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カメハメハ大王の肖像画(作者不明) / カヒリ・ルーム
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このとき、カメハメハ王家には王の異母姉のルース・ケエリコラニ王女と、かつての婚約者であったバーニス・パウアヒ王女という二人の女性が残されており、一説によれば、王は婚約者であったパウアヒ王女に王冠を託そうとしたものの、王女は自身の従姉であり王の異母姉であるケエリコラニ王女への継承を求めて固辞し、王は異母姉に王位を担うことは無理と判断したため次期国王を指名せずに死を迎えたといわれている。(カメハメハ3世の庶子クヌイアケア王子はキリスト教の洗礼を受けており、王族と認められなかった。) |
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カメハメハ5世の死によってハワイ王位は空位となったため、選挙によってハワイ諸侯(大酋長の家系)から新国王を選出することになり、1873年、カメハメハ1世の異母兄弟カライママフの孫になるウィリアム・チャールズ・ルナリロが選出され、第6代国王となった。 しかし、ルナリロ王は後継者を指名することなく翌年死亡。再び選挙による新国王選出となった。(参照:カメハメハの頁-第六代国王ルナリロ霊廟) |
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カメハメハ大王の説明パネル
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1874年の選挙の結果第七代国王に即位したカラカウア王は、ハワイ文化の再興に努め一定の成果を得たものの、政治的には親米勢力に圧迫され、王権の縮小、ハワイ人の権利喪失を余儀なくされていった。こうした状態を回避しようとカラカウア王は様々な方策を講じたが、その中には推定王位相続人である姪のカイウラニ王女を外国王族と結婚させることで、アメリカとの関係を再構築しようとするものもあった。(その候補には日本の皇族である山階定麿王(後の東伏見宮依仁親王)も入っていた。) |
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しかし、王のこういった行動はいずれも失敗に終わり、治世末期には、ハワイはアメリカ人のいいなりに陥っていた。失意のカラカウア王は、多くの課題を妹リリウオカラニに残して1891年に死亡した。 |
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三階吹き抜けのハワイアン・ホール(正面)
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第八代ハワイ王朝統治者として即位したリリウオカラニ女王は、失意の兄王の遺志を受け継ぎ、王国をハワイ人に取り戻そうと試みるが、その性急な姿勢は逆に親米勢力によるクーデターを招く結果となり、1893年にアメリカ海兵隊と結託した親米勢力によって廃位に追い込まれた。 |
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以後、姪で王太子であるカイウラニ王女はアメリカ政府に王政復古を訴え、リリウオカラニ女王は本国において王位奪回を図ろうと試みるが、いずれも失敗に終わり、1898年には形式的にハワイ共和国として維持していた独立をも失い、ハワイはアメリカの植民地となった。その後、ハワイ人の希望の星と称えられたカイウラニ王女が1899年に急死し、カラカウア王朝は後継者を失い、最後までハワイ人の心の女王であったリリウオカラニの死により1917年にハワイ王朝が滅んだ。 |
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三階吹き抜けのハワイアン・ホール(後面)
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カラカウア王朝時代に、カピオラニ王妃の妹キノイキ妃の家系であるカワナナコア家に、カラカウア家に次ぐ王位継承権が与えられた。キノイキ妃の長男カハレポウリ王子は、カイウラニ王女の政略結婚が断念された後は、その夫君候補とされ、カラカウア家とカワナナコア家の婚姻による新たなハワイ王家の創設が図られたものの、王女の早すぎる死によりその未来図が失われた。皮肉なことに王女の死によりカハレポウリ王子はリリウオカラニ女王の後継者となり、カワナナコア王朝の成立が確定した。 |
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ただし、王子自身は女王より先に亡くなったため、カワナナコア王朝の初代となったのは王子の息子であるカラカウア2世だったが、カラカウア2世は未成年であったため、成人までは叔父クヒオ王子が王家の代表となった。以後、ハワイ王家の相続人は、カラカウア2世に子がなかったことから姉のカピオラニ、その子ケリアオヌイ、その子クヒオ(現在の王家家長)とカワナナコア家によって続いている。(既にハワイ王朝はカラカウア王朝で絶滅しているので、カワナナコア王朝という表現は不適切と思われるが、ここでは文献に従った。) |
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ハワイの草の家(Grass House)ハレピリ
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草の家ハレピリ
Hale Pili |
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▲ ハワイアン・ホールの一階には、ハワイ先住民が住んでいた草の家(
Grass House )ハレピリ
Hale Pili
が展示されている。200年以上も前の古い住居で、今日までかろうじて残されていた残骸から再構築した貴重なものである。 |
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ハワイの住居カウハレ
Kauhale |
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▼ 草の家ハレピリの近くにカウハレの説明があった。カウ Kau とは家のことで、カウハレとは住居全般を指す。ハレムア
Hale Mua は男性が住む家のことで、男たちが集まり、食事し、家事を采配した。ハレクケ
Hale Kuke とは料理する家
Cooking house である。ハレペア
Hale Pe'a は、月経のある間女性が暮らす家。ハレノア Hale Noa は、家族全員が集まって寝る家である。それぞれの家は、完全に藁で葺かれ、三方が開かれており、裕福なところは石の壁があった。 |
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ハワイの住居カウハレの説明
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戦いの神クー
Kū
/ Kū-ka-ili-moku / Kūka'ilimoku |
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ハワイホール一階には、日本の前垂れ式六尺褌とそっくりのマロ
Malo (褌)をした戦いの神クーの木像が飾られていた。世界で三体しか現存しないという貴重なもので、他の二体は、英国の大英博物館と米マサチューセッツ州のピーボディ・エセックス博物館にあるという。3体ともパンの木で作られており、展示像は
タパ
Tapa (ハワイ語でカパ
Kapa )のマロ(褌)を締めている。
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17年前にもこゝを訪れたが、そのときはクーは褌を着けていなかった。ポリネシア・文化センターでも褌はしていなかった。褌をして展示するかしないかで議論があったようで、褌の布が像を傷つける恐れがあるとか、子孫を残す大事な所はやはりつけた方がいいなどと議論があったようで、結局、かつてのハワイ男性と同じ格好をさせることになったらしい。 |
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ハワイの土産物店や、最近ではグアムなどでも売られているTiki
像は、たいていクーの像をモデルにしたもので、見るからに恐ろしい形相をしている。ただし、褌はつけていない。(笑) |
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カバの褌(マロ)をした戦いの神クー像
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▲▼ ハワイの四大神とは、(1)戦いの神であり、山や海の神でもある「クー
Kū
」、(2)農耕の神、豊饒の神である「ロノ
Lono
」(3)万物の根源、生命の神である「カネ
Kāne
」、(4)海の神、死者の世界の神である「カナロア
Kanaloa
」の4神で、これらの神々は古代ハワイの人々の生活と結びついた存在で、昔のハワイの暦(太陰暦)では、新月から数えて毎月3日〜6日がクーの日、24日〜26日がカナロアの日、27日がカネ、28日がロノの日、4日が神々共通の日と定まっていた。 |
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このうち、国を護る最も大事な神が戦いの神クー(クー・カイリモク)
Kū / Kū-ka-ili-moku
だったが、1820年、それまでハワイアンの社会規範として守られてきた「カプ/タブー」という制度が崩壊した後、像は他の神像と共に置き去られ、あるものは海外に持ち出され、地に埋もれて朽ち果てた。ビショップ・ミュージアムが所有するクーは、何者かがボストンに船で運ぶところをある宣教師が発見し、ハワイに戻されたものだという。 |
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戦いの神クーは、ルアキニタイプ(人身御供ひとみごくう)といわれる生贄(いけにえ)が必要なタイプのヘイアウ(祭祀場)に祀られていた。オアフ島最大のプウ・オ・マフカ・ヘイアウ
Pu'u O Mahuka Heiau
は、ノースショアーのワイメア湾を望む神聖な丘の上に位置し、ハワイアンにとって、神々への崇拝と儀式に使われる神聖な場所として、かつては戦いの神「クー」が祀られていた。1792年、バンクーバー船長の部下の船員たちが生け贄にされたことで有名で、生垣には奴隷が人身御供として埋められたという。 |
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カメハメハが叔父からもらった戦いの神「クー
Kū-ka-ili-moku
」のフェザー・イメージ(羽毛像)〈実物〉
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▲ 写真上の羽毛で作られた像は、カメハメハ I 世が叔父からもらったクーの実物で、この戦いの神と共に激しいバトルを戦い抜き、遂に勝利してハワイ全島を統一したのであった。 |
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カメハメハの叔父で、当時のハワイ島の王であったカラニオプウが息を引き取るに際して、その遺言でハワイ島そのものは息子のキワラオに譲ったものの、主神であったクー・カイリモクは、見るからに強く、将来の見込みもありそうな甥のカメハメハに譲ってしまった。 |
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そのことに腹を立てたキワラオは、カメハメハに戦いを挑むが、逆に簡単に敗れてしまい、ここからカメハメハのハワイ全島統一に向けての戦いが始まったという。 |
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▼ 写真下は、1790年マウイ島カアナパリの戦いを描いたものであるが、兵士たちは殆どマロ(褌)一丁で戦っている。常夏のハワイでは、年中マロ一丁で生活できる環境であり、日本と同じような裸褌文化が定着していた。貴重なタロ芋の水田の中での激しい戦いは、右側が優勢で、赤いケープ姿がカメハメハ
I
世なのだろうか。 |
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▼ 昔のルア(格闘技)の師範は、相手に掴まれないように体中の毛を剃り、ココナッツ・オイルを薄く塗っていた。そのため、ルアの師範はオロヘ
Olohe (毛がない)と呼ばれる。 |
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写真下は、ビショップ・ミュージアムによるルアの説明資料だが、マロ(褌)一丁で訓練する戦士たちの姿が描かれている。スキンヘッドの男がオロヘと呼ばれる師範である。まるで日本の江戸時代に六尺褌一丁で武術の訓練をする武士とそっくりであることに驚く。 |
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▼ 下の資料も平素、兵士たちの鍛錬法を図示したもので、カヌーを漕いだり、棒で谷を飛び越えたり、滝の上から飛び降りたり、重い石を担いだりして訓練した。全てマロ(褌)一丁である。 |
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普段の鍛錬法
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カパ
Kapa |
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ワウケ Wauke
樹皮を打ち伸ばして作るポリネシアンの伝統的な布「タパ」をハワイ語では「カパ」と呼ぶ。男性のマロ(褌)はカパで作られたものである。 |
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ワウケの樹皮を打ち伸ばしてつくる布カパ
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木製の押し型などで独特の模様をつけた草木染めも行われており、模様には日本の家紋のような家系のシンボル的な意味もあったという。 |
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素朴な模様をつけたカパ
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モオモオ
Mo'omo'o
/ Wauke Stripes |
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▼ ワウケ Wauke
は、アジアの熱帯、亜熱帯から日本にまで広く分布する落葉潅木。高さ4〜10mになり、大きなものでは15mに達する。幹や枝の表面は灰色がかった緑色で滑らか。ハワイでは古代より布や紙の材料として栽培されおり、日本でも和紙の材料として同じクワ科カジノキ属のコウゾが有名。 |
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ハワイアンがワウケの樹皮を叩き延ばして作った繊維は、モオモオと呼ばれ、皮のように丈夫で長もちし、暖かく、洗濯もできた。これがカパと呼ばれる樹皮布で、褌やスカート、ケープ、毛布、死に装束などに使われた。 |
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カパの材料となるワウケ樹皮「モオモオ」
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マロ(褌)をした男女像が展示されていた。かつての女性は、トップレスで、パレオ(腰布)かフラなどの際はモレ(腰蓑)を巻くだけの裸褌文化である。褌は腰布Loincloth
の一種であり、男女ともに褌をしたとしてもおかしなことではない。日本でも海女(アマ)褌サイジがある。 |
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マロ(褌)をした男女像
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マカヒキ祭
Makahiki
Festival |
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▼ マカヒキ祭は、古代ハワイにおける1年で最大の行事で、農耕・豊穣の神 ロノ神
Lono を祭神とする4ヶ月にも及ぶ祭礼だった。10月中旬、日没にプレアデス(マカリイ)が東の空に見えるようになるとカフナ
Kahuna (司祭)によってマカヒキのはじまりが宣言される。 |
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マカヒキの間は、戦争行為がカプ(タブー/禁止)とされた。寺院での儀式も中止され、食事の用意などを除き、家作りやカヌー作り、カパやラウハラ作りといった不急の仕事も休みになり、農作業は、4ヶ月間も休みになった(農閑期)。 |
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マカヒキには年貢が集められ、酋長に献納された。酋長の代理人が巡回するが、食べ物は腐りやすかったのでいったん年貢として収められるや否やすぐにカフナや酋長、同行者の間で分配されたという。 |
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年貢を納めた者は、その見返りに酋長からの祝福(酋長を通じた神からの祝福)が授けられた。来年の豊作と、良い雨、そして諸々の幸福が約束された。年貢を納めた後は皆リラックスし、ゲームやスポーツ、踊りに興じた。とにかくこの4ヶ月間はカプの厳しい掟から自由で、ハワイの人々にとって大いなる気分転換となった。 |
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マカヒキは収穫祭でもあった。犬や鶏や魚の肉が捧げられた。ただし豚は、ロノ神の化身であるとされていたので用いられなかった。タロ、サツマイモ、バナナ、ブレッドフルーツ、ヤムイモ、葛根、ココナッツ、サトウキビなど数々の食物と、カパやラウハラのマットなどさまざまな工芸品が納められた。 |
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下のパネルでは、マカヒキの説明欄の下に、小さく、「1778年、マカヒキ祭にボクシングやレスリングが行われた」との記載があり、この博物館は、1950年の写真がそのときの様子を示していると判断しているようだ。 |
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ロノマクア↓ ハワイ最大の祭「マカヒキ」
裸の群像 撮影:1950年 |
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ロノマクア↑ 拡大写真(1600X1200)248KB |
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ロノマクア
Lonomakua |
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マカヒキ祭の開催中は、ロノ神を象徴した「ロノマクア」が飾られる。1950年に撮影された写真上は、十字の棒が立てられ、横木から様々なものが垂らされている。生け贄の鳥などが吊されているようにも見える。下の図はその一形態で、白布が飾られており、長い棒が「T」の字に組み合わされ、棒の交点には、ロノ神の木像が飾られ、横木からは鳥の羽のレイやシダが垂らされていたという。 |
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キャプテン・クックがマカヒキ祭の最中にカウアイ島ワイメア Waimea
湾に来航し、ロノ神と間違われて崇拝されたというのは有名な話である。クックが乗っていたレゾリューション号の帆は、下図のロノマクアそっくりなので、それを見た住民が海からロノ神がやってきたと錯覚し、神に祭り上げられたのである。→
キャプテン・クックとハワイ王国 |
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▼ ジェームズ・クック(J1728年10月27日 -
1779年2月14日)は、英国の海軍士官、海洋探検家、海図製作者。通称キャプテン・クック
Captain Cook。太平洋の地理的全貌は、彼によってほぼ明らかにされた。 |
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ヨークシャーに生まれ、1746年に見習水夫となったのち、1755年に海軍に身を投じた。1763‐1767年、ニューファンドランド島の沿岸測量に従事し、その成果によって海軍軍人としてのみならず、科学者としての高い評価を得た。
その後、ローヤル・ソサエティの要請により3回にわたって太平洋の探検航海を試みた。 |
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ジェームズ・クック(キャプテン・クック) 1729-1779
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フリー百科事典ウィキペディア |
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第1回航海(1768‐1771)では、タヒチ島で金星の太陽面通過を観測したのち、ニュージーランドの沿岸を測量し、また、オーストラリア東岸を発見した。 |
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第2回航海(1772‐1775)は、当時、その存在を信じられていたテラ・アウストラリス(南方大陸)の探索を使命として南氷洋を航海し、また、これまで誤り知られていた太平洋の島々を地図上に正確に記入した。 |
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第3回航海(1776‐1779)は、北大西洋と北太平洋を連絡する北西航路の探索を目的とし、これには成功しなかったが、ハワイ諸島を発見した。しかし、1779年2月14日、原住民との争いにより、ハワイ島西岸のケアラケクア湾で戦死した。 |
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3回の太平洋航海を通じて、クックは多くの島を発見もしくは再発見し、南方大陸と北西航路の迷信を打破した。また、多くの貴重な民族学的・博物学的な資料を収集して学界に大きな貢献をした。通算10年におよぶ航海中、当時の船乗りを悩ませた壊血病での死者を1人も出さなかったことも、特筆されるべきクックの功績である。 |
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キャプテン・クックの海洋探検図 1768-1779
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電子版世界大百科事典 |
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キャプテン・クック記念碑 Captain
Cook Monument
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1979年、3度目の航海の途中にハワイ島ケアラケクア湾に錨を降ろしたクックは、ハワイの先住民との争いで殺害された。その不慮の死を遂げた場所近くに白亜のキャプテンクック記念碑が立てられている。 |
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【碑文】
In memory of the great circumnavigator, Captain James Cook, R. N., who discovered these islands on the 10th of January, A.D. 1770, and fell near this spot on the 14th of February, A.D. 1779. This monument was erected in November A.D. 1874 by some of his fellow countrymen.
偉大なる世界一周を成し遂げた キャプテン・ジェームス・クック R. N. は、西暦1778年1月18日にこれらの島々(ハワイ諸島)を発見し、1779年2月14日にこの地点の近くで倒れた。この記念碑は、1874年11月に同国人(英国)の有志によって立てられた。(和田訳 ()は訳者註) |
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フラ・カヒコ
Hula
Kahiko |
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▼ マロ(六尺褌)一丁の男性が、円形の鳥の羽根飾りをつけた瓢箪でマラカスのように音が出るウリウリを持って踊っている。
マカヒキ祭の様子を描いたものだろうか。男たちは日本の脚絆(きゃはん)に似たものをつけている。 |
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▼ 西洋文化が流入し
て裸褌文化が野蛮だとされるまでは、男性はマロ(褌)、女性はモレ(腰蓑)一丁のトップレスで踊っていた。これを古典フラ(フラ・カヒコ)と呼んでいるが、現在、リバイバルの機運が高まっている。ただし、女性のトップレスは、難しい。(笑) |
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ウリウリ(羽根のついたマラカス)を持って踊るマロ(褌)一丁の男たち
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カルア・ピッグ
Kalua Pig |
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▼ ハワイには、イノシシが今もあちこちに棲んでいる。feral
pig や wild pig
(野ブタ)と呼んでいる。ハワイ語ではプアア
pua'a という。 地面に穴を掘り、イム
Imu
というかまどを作って土の中でプアアを蒸し焼きするのがカルア・ピッグというハワイの伝統的な調理法である。 |
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イム
Imu を使って作るカルア・ピッグは、男性の役割だった。写真下は、1890年にその様子を撮影したもので、男性は、まさしくマロ(褌)一丁である。この二人は、前垂式六尺褌を締めている。 |
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カルア・ピッグは、タヒチなどの南方ポリネシアからハワイに住み着いた先住ハワイアンたちの料理だった。Kalua
はハワイ語で焼くという意味で、まさに豚の蒸し焼きである。かつては祝いや儀式のときなどのハレの食事であった。 |
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地面に4ft(1.2m)X3ft(90cm)深さ6ft(1.8m)の穴を掘り、その穴の底にキアベ Kiawe
の木で真っ赤に焼いた石を敷き、その上にバナナの葉やティーという葉っぱで重ね包んだ丸ごと一頭の豚を置き、土を被せて8時間ほど蒸し続ける。期が熟すると、代表者が神官を伴い、神々に感謝の言葉を捧げながら豚を取り出す。その後のルアウ(宴会)では、この豚の蒸し焼きがメインディシュとして振る舞われる。ネイティヴ・ハワイアンの最大のご馳走である。 |
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イムを使ってカルア・ピッグ(豚の蒸し焼き)を作る 撮影:1890年
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パンチボール
/
国立太平洋記念墓地
National
Memorial Cemetery of The Pacific |
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▼ 帰りにパンチボールに立ち寄った。パンチボールは、約47万m2のクレーター内に第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで戦死した3万人以上の兵士らか眠る国立太平洋記念墓地で、その形がフルーツパンチなどを入れるボールの形に似ていることからパンチボールと呼ばれている。毎年5月の最終月曜日はメモリアルデーで、追悼式が営まれる。 |
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パンチボール( 国立太平洋記念墓地)の入口
12:13 |
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▲▼ ここには第二次世界大戦のイタリア前線で戦った日系二世だけで編成された大隊と連隊の戦死者も眠っている。日本軍の真珠湾攻撃で厳しい立場になった彼らは、そんな偏見を打ち返すべく、アメリカ軍隊のなかで最も活躍し、多くの勲章を受ける戦果をあげたが、同時に隊の戦死傷者率もアメリカ軍隊の中で最も高かったという。 |
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▲▼
記念墓地正面には、国の歴史的建造物に指定された高さ30ft(9m)の女神像があり、女神像に至る階段の両側に石板が並び、戦没者の名前が刻まれている。 |
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パンチボールでは、軍人だけでなく、1986年にスペースシャトル「チャレンジャー」号の事故で亡くなったハワイ出身の宇宙飛行士エリソン・オニヅカ氏などの魂
も眠っている。 |
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女神像のある中央祭壇 |
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▼
記念墓地までの登坂道からは、ダイヤモンドヘッドの西側(手前)に広がるホノルル市内が一望できる。40年ほど前、遠洋航海でホノルルに寄港した際にパンチボールを訪れたことがあるが、そのときは、高層ビルが殆どなく、ダイヤモンドヘッドが眼前に聳え、感動したことを覚えているが、今は、ビル群に阻まれて余りよく見えない。ただ、発展するホノルルの状況がよく分かるので、時間があれば、行きたいスポットである。 |
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ホノルル市街とダイヤモンドヘッド / パンチボール 12:15 |
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ヌアヌ・パリ
Nuuanu
Pali |
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▼ 17年前に夫婦で初めてオアフ島に来たとき、国道61号(パリ・ハイウエイ)を北東に走ってヌアヌ・パリ行った。カイルアからカネオヘにかけての街並みと、それに続く
オアフ島北東岸の太平洋が一望できる。崖の高さはおよそ900mあり、コオラウ山脈がこの地で切れているため、一年中強い風が吹き抜けている。 |
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Google Map |
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▲▼
この地は古戦場としても知られ、カメハメハ1世がオアフ軍を撃破し、ハワイ諸島統一を成し遂げた歴史的な場所でもある。負けたオアフ軍は、全員この崖から突き落とされたともいわれ、現在は心霊スポットとしても知られている。 |
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写真下は、フィルム時代の写真をスキャナーで取り込んだもので、今のデジカメが如何に画質が高いかが分かる。 |
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ヌアヌパリ展望台からの景観 1996.7.21 |
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ハレクラニ
Halekulani |
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ワイキキ・パーク・ホテルの目の前にあるハレクラニのレストランで昼食を取っていると、「夜6時からナイトショーがあります」とウエイトレスが教えてくれたので行ってみた。専属のダンサーが一人、ハワイアン・バンドをバックにフラ・アウアナを披露してくれた。「プロの踊りは素人と違って色気がある」と感心しながら観賞した。バックのダイヤモンドヘッドが西日に輝き、ワイキキは夕暮れどきを迎えようとしており、ハワイの絶景に感動した。 |
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ダイヤモンドヘッドを背景にフラショー / ハレクラニ 18:05 |
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▲▼ ハレクラニは、約2万m2の敷地に5棟が建っており、客室は453室ある。土地や建物は三井不動産の所有で、ハレクラニはハワイ語で「天国にふさわしい家」という意味。宿泊料金は、1泊5万円からと、最低料金はロイヤル・ハワイアンよりも高い。 |
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ふらしょーの はまのにぎわい なつゆうべ |
Summer
evening, the bustling beach of the hula show. |
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笑顔を絶やさないプロダンサー |
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それもそのはず、ハレクラニは、高級ホテルグループである「ザ・リーディングホテルズ・オブ・ザ・ワールド」と「帝国ホテル」のメンバーで、これまで、トラベル&レジャー誌の
World’s Best 2005
をはじめ、多くの賞を受賞をしている。また、モビル・トラベル・ガイドの四つ星やアメリカ自動車協会
AAA
の4ダイアモンズという格付けを得ている。 |
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芝生で遊ぶ親子 / ハレクラニ 18:12 |
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▲▼
ハレクラニは1907年(明治40年)、ロバート・ルワーズが所有するレジデンシャル・ホテル、ホー・ツリー
Hau Tree
として開業した。ホテルの所有者がジュリエット・キンベルとクリフォード・キンベルに代わり、1962年(昭和37年)からはノートン・クラップ家の所有となった。その後は米国三井不動産に買収され、アメリカを拠点とする運営会社「ハレクラニ・コーポレーション」が設立された。三井不動産は1981年(昭和56年)からハレクラニを再開発し、1984年(昭和59年)に現在の姿で再開業した。 ハレクラニ公式サイト
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顔なじみ客との楽しいトーク / ハレクラニ 18:16 |
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♪ ハワイアン・ベスト・セレクション
Hawaiian
Best Selections |
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● この頁に流れるBGMは、これまでに流したハワイアンの中から選んだベス・セレクション7曲で、どれも良く知られた曲ばかりである。 |
「珊瑚礁の彼方に Beyond The Reef 」「ブルーハワイ
Blue Hawaii 」「アロハ・オエ
Aloha Oe 」「ハワイアン・ウエディング・ソング
Hawaiian Wedding Song 」「スイート・レイラニ
Sweet Leilani 」「カイマナヒラ(ダイヤモンドヘッド)
Kaimana Hila 」「アカカの滝
Akaka Falls 」と続く。 |
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美人ダンサーの接客 |
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ハワイ最後の夜
The Last
Night at Hawai'i |
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▼ ワイキキは、南に向いているため、夕日を見ることができないが、夕焼けを楽しむことができる。ワイキキ・パーク・ホテル20階 2017号室のバルコニーからハレクラニのフラ・ショーを見下ろしながら、空と海が茜色に変わり始めたハワイ最後の夜を堪能した。 |
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この日でハワイの旅は終わり、翌日、ホノルル国際空港から成田に向かった。最後までご覧頂き、感謝します! |
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ハワイ最後の夜 19:30 |
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撮 影
2013年6月16-26日
OLYMPUS
E-5
12-60mm 70-300mm
1230万画素 6700枚 16.8GB
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この作品は、平成25年(2013)6月16日(日)〜26日(水)の11日間、家内と二人でアメリカ合衆国ハワイ州の避暑地として知られるハワイ島とオアフ島を旅したときの記録である。 |
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原画6,700枚 16.8GBの中から傑作を抽出し、9月26日(木)、ハワイの旅前編「感動のハワイ島」に引き続き、9頁336枚、ハワイの旅後編「魅惑のオアフ島」が完成した。 |
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前後編を通算すると、17頁593枚の感動巨編となった。BGM も私の知りうるハワイアンの名曲を散りばめた。完成度の高い作品に仕上がったものと自負している。 |
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● 今回は、ゆっくりと静養する目的で出掛けたハワイ旅行だったが、結果的には殆どの観光名所を廻り、この作品がハワイ島とオアフ島を巡る観光旅行のバイブル的存在となるほど内容豊かな作品となった。しかし、あれほどの時間と体力があったので、あそこもここも行けたのではないかと、悔やむことも多々あり、欲をいえばきりがない。貧乏性なのだから仕方あるまい。(笑)
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前編の「ハワイ島の光と影」で書いたように、ハワイ先住民がアメリカ人に国土の全てを乗っ取られた歴史が未だになまなましく残されていた。 カメハメハ大王が築き上げたハワイ王朝の財産を運営するカメハメハ財団がカメハメハ・スクールを経営し、ネイティブ・ハワイアンのバックアップを行っているが、伝統文化の根幹が破壊され、西洋文化に翻弄され、人脈や財力などに乏しい彼らは、現在、アメリカ社会の底辺に甘んじているように思える。
国が滅びるということは、そういうことなのだと、改めて思い知った。そして、日本が先の大戦で無条件降伏し、敗戦国となったが、日本人の日本人による日本人のための主権国家として再建することができた。誠に幸運としかいいようがなく、ハワイ王国のように異国民に国土が奪われなかったことを率直に喜びたい。
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ビショップ・ミュージアムは、ポリネシア文化を収蔵する一大博物館だったが、今回は、ハワイ先住民の歴史文化をテーマに取材した。その結果、日本人の裸褌文化と共通する側面が多くみられ、親しみを覚えた。日本人のルーツは何処なのかという議論のなかで南方からの移民説があるのは、頷けることである。
日本人の多くがハワイにあこがれるのは、観光資源が沢山あるほかに、滅びた王国の人々が逞しく生きている楽園であるという側面があるように思われる。これからもネイティブ・ハワイアンたちが、現状に満足することなく、アメリカン・ドリームを求めて美しい楽園を造り上げていくことを願って止まない。
ハワイの旅後編 「魅惑のオアフ島」 〈 完 〉 2013.09.26 和田義男 |
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特集!旅紀行〈第115集〉 ハワイの旅後編「魅惑のオアフ島」 |
撮影・制作 : 和田義男 |
平成25年(2013)9月26日 作品:第11作 画像:(大274+小62) 頁数:9 ファイル数:638 ファイル容量:264MB
平成12年(2000)〜平成25年(2013) 作品数:459 頁数:1,865 ファイル数:84,082 ファイル容量:16,475MB |
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さーふぁーや はとうくずれて のみこまる |
The surfer,
being swallowed by the collapsing wave crest. |
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【編集子が選ぶ名作】
名作アニメーション |
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拡大写真(3000x1700)874KB/比較的高い波に乗るサーファーたち / ワイキキ・ビーチ(オアフ島) |
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