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莫高窟は、前秦領であった366年に僧の楽溢(がくそん)が最初の洞窟を掘り、6世紀の前半、北魏(ほくぎ)の末期に瓜州刺史(かしゅう・しし)(瓜州長官)となった東陽王の元太栄らが拡張したと伝えられ、それ以後1000年頃まで開掘と補修が続けられ、仏教の聖地となった。 |
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第103窟(盛唐) 帝王 |
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第112窟(中唐) 琵琶弾塑像 |
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資料 |
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塑像の仏・菩醍像と四囲の壁画群からなる莫高窟は、日本の法隆寺の塑像や壁画の源流ともなっている。 |
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各階の高さがまちまちの莫高窟 |
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莫高窟は、俗に千仏洞と呼ばれ、南北の長さは1,610m。現存の492の洞窟に総計45,000m2余りの絵画や2,400以上の彩色彫像などが残されている。1,600年もの長きに渡る東西の文化交流を反映する完全な形に保たれた芸術の宝庫であり、1991年に世界文化遺産に登録された。 |
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第159窟(中唐) 菩薩 |
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第45窟(盛唐) 天王 |
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資料 |
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残念ながら洞窟内は撮影禁止で、照明もないため、観光客は、懐中電灯を借りて見物することになる。 |
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敦煌莫高窟観光記念 |
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砂漠に再現された敦煌古城 |
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敦煌からシルクロードを西に向かうと、天山(てんざん)山脈をはさみ道は二つに分かれる。玉門関から入る西域北道は天山山脈北麓の天山北路となり、陽関から入る西域南道は天山山脈南麓の天山南路につながる。天山北路には、新彊(しんきょう)ウィグル自治区の区都・ウルムチがある。 |
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天山南路は、タクラマカン砂漠の北の縁を大小幾つものオアシスを点から点へ繋ぎながら西方へ延び、タクラマカン砂漠の果てるところに、中国最西端の町・カシュガルがある。 |
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城壁に守られた敦煌の街(敦煌古城) |
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カシュガルは中央アジアのオアシス都市で、タリム(塔里木)盆地の西端に位置する。古くからシルクロードの要衝として、またイスラムの拠点都市として発展してきた。長安(今の西安)の西方約3,000kmの地にあり、人口25万の大半をウイグル人が占める。敦煌は、長安とカシュガルのほぼ中間に位置する。 |
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敦煌の土の家(敦煌古城) |
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西遊記で知られる玄奘(げんじよう)がカシュガルを通過した8世紀には、その富に支えられて、小乗系の仏教文化が栄えていたが、10世紀に入ってこの地がトルコ・イスラム王朝であるカラ・ハーン朝の一首都となると、急速にトルコ化、イスラム化が進展した。 |
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1882年、新疆省(しんきょうしょう)の成立とともにこの地は清朝治下の一地方都市となり、1955年以降は中国の新疆ウイグル自治区の一地方都市となって今日に至っている。 |
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カシュガルの中心にあるエイティガール寺院は中国最大のモスクとして知られるほか、モスクの数は五百を超え、イスラム文化が今日も盛んであるという。 |
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城壁の外に広がるゴビ砂漠(敦煌古城) |
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タクラマカン砂漠は、中国西北の天山山脈(北)と崑崙(こんろん)山脈(南)に挟まれた新疆ウイグル自治区北西部にあるタリム(塔里木)盆地中央部の砂漠で、日本の国土に匹敵する広さをもつ。タクラマカンはウイグル語で「入ると出られない」の意。 |
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かつての湖底が砂漠になったもので、大半は細かい砂から成り、高さ数十m、高いもので150〜200mの砂丘を形成する。また、強い風が砂を動かし、南部では1年のうち3ヵ月余りは砂が空を覆うという。 |
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