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松平天下祭 |
愛知県豊田市松平町 松平東照宮 2012年2月11・12日 |
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今から四半世紀前の昭和63年(1988)、町興しの熱意に燃えた若者たちが、かつて天下を制した徳川家康の祖先・松平親氏の出身地というビッグネームを生かしてプロデュースした裸祭がこの松平天下祭(まつだいら・てんかまつり)です。現代に生まれた裸祭ですが、内容は、江戸時代の裸褌文化を忠実に再現しており、「江戸時代から何百年も続く祭」だと説明されても誰も疑いを持たないでしょう。 |
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▲ スライドショーCD写真集「松平天下祭」の画像は365枚、上映時間は32分と見応え十分。(1枚2000円 リピータ
ー価格:1枚1500円)
日本の祭りCD・DVD写真集 |
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YouTube 松平天下祭(抜粋縮小版) |
↓画像をクリックするとスライドショー動画が始まります。 |
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はじめに |
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● 平成24年(2012)2月11日(土)・12日(日)の両日、愛知県豊田市(とよたし)松平町(まつだいらちょう)に鎮座する松平東照宮(まつだいらとうしょうぐう)(大河原^基 おおがわら えいき 宮司
84歳 TEL:0565-58-1621)で第25回天下祭(てんかさい)が開催されたので、天下祭実行委員会(原田好夫 はらだ よしお 委員長)の支援により、密着取材を行った。 |
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【凡例】 ▲:上の画像の説明文 ▼:下の画像の説明文 〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示 |
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Google Earth |
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▲▼ 約42万人を擁する豊田市(とよたし)は、愛知県北部の西三河地方に位置する中核都市で、トヨタ自動車が本社を置く企業城下町として知られる。平成17年(2005)に6町村が編入して市域が約920km2に広がり、愛知県下で最大の広さとなった。 |
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「とよだ」と誤読されることがあるが、正しくは「とよた」である。ただし、市名の由来であるトヨタグループの創始者豊田佐吉や一族の姓は「とよだ」と濁音なので、ややこしい。 |
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天下祭 |
の会場「 |
松平郷 |
」 |
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Google Earth |
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▲▼ 天下祭(てんかさい)が開かれる松平郷(まつだいらごう)は、豊田市中心部から東北東約10kmの山間部に位置し、三河国(みかわのくに)の戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展した松平氏・徳川氏の発祥地である。 |
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Google Earth |
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▲▼ 松平郷は、巴川ともえがわ(足助川あすけがわ)東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡に属し、現在の愛知県豊田市松平町にある。一帯に残る館跡、城跡等は、松平氏遺跡として国の史跡に指定されている。 |
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明治維新後、周辺の村々とあわせて松平村となり、次いで松平町に発展し、昭和45年(1970)に現在の豊田市に編入された。 |
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バス停「松平郷」が松平郷の入口(国道301号/新城街道) 2012.2.11 13:30 |
松平城址のある御城山 |
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▲▼ JR東京駅から東海道新幹線で名古屋駅に行き、名古屋市営東山線(地下鉄)でひと駅の伏見駅で舞鶴線に乗り換えると、名鉄に乗り入れているので、名鉄豊田線を経由して名鉄三河線・豊田市駅に着く。 |
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ここまでは便数も多く、スムーズに行けるが、松平郷へは「おいでんバス」しか運行しておらず、1〜2時間に1本と便数が少ない。片道10kmをタクシーで走ると宿代を超える料金となるので、余裕を持って旅行計画を立てねばならない。祭当日の日曜日には、豊田市駅〜松平郷を結ぶ無料のシャトルバスが出る。 |
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▲▼
おいでんバスのバス停「松平郷」は、名鉄バスの運転手に聞いても知らなかったほどで、ここに到達するまでにかなり苦労した。箱根などと違って地域の交通ネットワークが整備されておらず、他社の路線には関心がないらしい。バス便が少ないため、早めに行ったお陰で、約束の時間までには数時間あったので、松平城址に行った。 |
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▲▼ 国指定史跡の松平城址は、松平東照宮の南に位置する御城山(おしろやま)(298m)にある。室町時代の初期三河国の武将で松平(徳川)氏の始祖となった松平親氏(まつだいら ちかうじ)が応永年間(1394-1427)に築いた山城の跡で、郷敷城(ごうしきじょう)ともいわれる。 |
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▲▼
松平城には、本丸のほか、二の丸、三の丸があったと推定され、本丸跡の下方約15mの山腹に、南・東・北の三方にわたり、幅3〜5mの空堀が約400m残っている。不時の夜襲に備えた室町時代の典型的な山城で、領主たちは、日頃は松平郷の居館に住み、いざ戦(いくさ)となると、この城にたてこもったという。 |
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パノラマ写真(2400X1200)1.11MB |
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ふゆびより てんかとりたる じょうしかな |
Fine day in winter, the ruins of the castle once conquered the
whole country. |
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▲▼ 城郭の規模は東西200m、南北150mで、尾根の東寄りの山頂に主郭を置き、西側には曲輪(くるわ)を三段に配している。主郭西側斜面の中位に井戸が開口している。城への大手口は西端に位置していたとみられている。 |
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主郭 |
より細長い |
曲輪 |
を望む 13:53 |
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▼ 国道301号の松平郷入口から松平東照宮までは、600mほど歩かねばならないが、その間には、間断なく「天下祭」の幟旗が立てられており、裸祭にかける地元氏子たちの意気込みが感じられた。 |
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▼ 松平東照宮は、徳川家康と松平氏の始祖松平親氏(まつだいら ちかうじ)を祀る神社である。松平親氏がこの地に居を構えた際、松平家の氏神として若宮八幡を勧請(かんじょう)したのにはじまるという。 |
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社務所 |
拝殿 |
松平郷館 |
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松平東照宮に現存する水濠や石垣は、松平太郎左衛門家九代尚栄(しょうえい)によって関ヶ原の戦いのあとに築かれた。最初は、八幡宮と称し、松平家の屋敷神だったが、元和5年(1619)に家康を合祀(ごうし)し、昭和40年(1965)に親氏(ちかうじ)を合祀した。 |
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▼ 神社の敷地は、かつては松平氏の屋敷があったところで、松平東照宮に向かって右手に松平郷館があり、松平家と徳川家ゆかりの品々が展示されている。 |
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松平郷館の入口には、豊田市教育委員会が作成した国指定史跡「松平氏遺跡」の説明板が立てられていた。 |
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国指定史跡「 |
松平氏遺跡 |
」の説明板 |
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▲▼
松平郷館は無料で見学でき、フラッシュ撮影もOKということだったので、館内の様子を撮影させて頂いた。 |
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↓松平親氏座像 |
↓徳川家康像 |
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松平郷館のパンフレットには、松平一族略系図が解説されており、始祖・親氏(ちかうじ)から天下人となった九代目の家康に至る系図がよく分かる。 |
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資料:松平郷館 |
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豊田市指定有形文化財である「木造 松平親氏坐像」は、パンフレットの最初に載せられた貴重な遺産で、実物の坐像に解説文が添えられているが、一部見えないところがあり、木像に重ならないように置くべきである。 |
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松平(徳川)氏の始祖 |
松平親氏 |
の木造坐像 |
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「徳川家康像」は、家康の晩年の姿をあらわした像で、江戸時代末期に松平家が将軍家から拝領したと伝えられている。足下に親氏座像と同じような解説が置かれているが、幸い、重なっておらず、レタッチにより除去した。 |
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▲▼
松平東照宮の東側の鎮守の杜の中に、「産八幡の宮」の表札のかかる八幡神社がある。天下祭実行委員会作成の資料には、「産八幡うぶはちまん」「八幡社はちまんしゃ」と書かれている。天下祭(てんかさい)最大のイベントである玉競り(たませり)に使われる水玉(すいぎょく)は、この社(やしろ)に安置されている。 |
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八幡神社 |
と |
産湯 |
の井戸 14:27 |
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▲▼
八幡社の境内には「松平家・家康公産湯(うぶゆ)の井戸」と表示された井戸があり、在原信盛が掘ったものと伝わるが、歴代の松平氏が産湯として使ってきたもので、現在は、不老長寿や安産に霊験あらたかな御神水として参拝者に授与されている。 |
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▼
天文11年(1542)12月26日、岡崎城で家康が生まれたとき、この水を竹筒に詰めて速馬で送り、産湯に用いた記録が残っていることから、家康公産湯の井戸として崇(あが)められている。 |
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松平太郎左衛門親氏 |
像 |
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八幡社の南方約100mに松平氏の始祖・松平太郎左衛門親氏の銅像が立っている。銅像に行くには、天下池の小川に架かる石橋を渡らねばならないが、欄干がなく、夜は暗いので注意を要する。前夜祭の大禊(おおみそぎ)の取材中、裸男たちを追って橋に差しかかったときにつまずいて転びそうになり、危うく川に転落するところだった。 |
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親氏 |
銅像前の |
大禊 |
会場 14:50 |
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↓小川に転落しそうになった石橋 |
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松平親氏公願文 |
の碑 |
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▲▼ 石橋の右手前に松平東照宮の先代宮司の書による「松平親氏公(まつだいらちかうじこう)願文*(がんもん)の碑」が置かれている。今から600年余の昔、松平家の始祖である親氏が天下泰平の祈願祭を斎行した際、自ら作成した32文字の漢文による願文が今に残っており、それを記念して碑文としたものである。 |
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【願文】 天下和順 日月清明 風雨以時 災癘不起 国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 努修禮穣 |
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【読み】 天下和順し 日月清明なり 風雨時を以て 災癘(さいれい)起らず 国豊かに民(たみ)安んじ 兵戈(へいか)
用ふることなし 徳を崇(あが)め仁を興(おこ)し 努めて禮穣(れいじょう)を修すべし |
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【直訳】 戦乱の世が和やかになり、日月も清らかで明るく、恵みの気候により災害や疫病が起こらず、国が豊かになって民衆が安心して暮らすことができ、武器を用いることもなく、仁徳の向上に努め、礼節を身につけるよう修行すべきである。(和田訳) |
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*願文(がんもん):発願の文。堂塔の建立や造仏・写経、追善・逆修などの法会(ほうえ)を行うに際して、神仏に施主の祈願内容を申し述べる文章。 |
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松平親氏公願文 |
の碑(宮司書) |
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親氏像に至る細長い遊歩道の両サイドには、石柱が立てられており、注連縄(しめなわ)で囲まれた区画の中央に水槽が置かれ、土曜日の前夜祭の夜に行われる「大禊」の禊場(みそぎば)の準備が行われていた。 |
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▼ 家康は松平氏の九代目にあたり、その始祖が親氏(ちかうじ)である。彼の出自は諸説あるが、松平郷館に展示されている僧形坐像にあるように、関東からやってきた徳阿弥(とくあみ)と名乗る遊行僧だったといわれている。 |
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松平太郎左衛門親氏 |
像 |
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▲▼ 彼は豊田市の山間部で勢力を持っていた松平太郎左衛門家の婿養子となって家督を継ぎ、親氏(ちかうじ)と名乗った。その子孫は、代を重ねるごとに平地へと進出し、現在の岡崎市に築いた岡崎城で家康が誕生し、やがて、親氏が祈願した「天下和順」が実現する。 |
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ブロンズ像の台座の右横に建立趣意書が掲げられている。この像は、親氏没後600年を記念して建立されたもので、僧形坐像とは異なり、裸足で粗野な着物をまとい、未来を指さす壮年のハンサムな親氏像は、風雲児信長の若い頃をモチーフに作成されたものだろうか。 |
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