明暦3年(1657)の江戸の大火事「明暦の大火」は、死者10万人を超えるといわれ、江戸城本丸まで焼失しましたが、江戸時代を通じて幾度となく大火事が発生しており、消防は幕府にとって大きな課題でした。 |
一旦、火事が発生してしまうと、木造家屋が中心の江戸の町は延焼が早く、現代のような消防設備のない時代であったため、破壊消防という手法をとり、延焼を食い止めるために防火線上にある家屋を取り壊して鎮火を待つという消極的なものでした。この破壊工作に鳶口(とびぐち)を持った火消(ひけし)が活躍しました。 |
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江戸の消防組織は大きく分けて「大名火消」「定火消(じょうびけし)」「町火消(まちびけし)」の3グループがありました。このうち「大名火消」は、江戸詰の大名が自藩邸の消火のために専属に抱えた火消(ひけし)のことで、守備範囲は藩の屋敷と江戸城付近でした。 |
「大名火消」で最も有名なのが、加賀百万石の「加賀鳶」で、今の東京大学のある本郷に本拠を構え、華麗で鯔背(いなせ)な装束で知られ、歌舞伎の「盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)(加賀鳶と町火消の喧嘩)」にも登場します。 |
ちなみに「定火消」は、旗本お抱えの火消のことで、火消役の下に与力(よりき)6人、同心30人、臥煙(がえん)(火消人足)100人を1組として組織されていました。全部で10組あって火消役が10人いたことから「十人火消」ともいわれます。 |
「町火消」は、町奉行大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の命令で享保年間(1720頃)に設置された町民たちの消防組織で、全部で48組ありました。「い組」「ろ組」などいろは44組(いろは47文字のうち「へ」「ひ」「ら」以外の組)に「本組」「百組」「千組」「万組」の4組を加えて48組としました。 |
この48組をさらに1番から10番までの10グループの大組に分けて江戸町内の分担を決めていました。「町火消」で最も有名なのが「め組」。「め組」は大組では2番組に所属し、芝増上寺、神明町、芝浜松町付近が担当で、歌舞伎では「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)(め組と角力取(すもうとり)の喧嘩)」で「め組」が登場します。 |