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■ 八日目
2011年07月05日(火):ロンドン〜南イングランド内観光〜ロンドン(泊) |
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▼ ツアー最終日の八日目は、オプショナル・ツアーで、カンタベリー、ドーバー、ライへの南イングランドの旅を楽しみ、ロンドンにとんぼ返りして、この旅の最後の夜を過ごした。(ロンドン三連泊)。 |
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八日目の観光地 / 南イングランド |
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画像:Google Earth |
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▲▼ 英国国教会の総本山を擁するカンタベリー Canterbury は、イギリス・イングランド南東部ケント
Kent 州東部に位置する都市で、中世から代表的な巡礼地として栄えてきた。 |
597年にローマ教皇グレゴリウス I
世(Gregorius I, 540 -
604)の命を受けて修道士アウグスティヌス(のちのカンタベリーのアウグスティヌス)を中心とした修道士団がブリタニア伝道に赴く。ケント王国(今のケント州)のエセルバート王は、彼らを好意的に迎え入れ、布教に助力したことから、ここがブリタニア布教の拠点となった。 |
601年に修道士アウグスティヌスが初代カンタベリー大司教に就任し、爾来、カンタベリーはイングランドのキリスト教の中心地となった。 |
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リトル・ベニスと呼ばれる美しい水路の街 カンタベリー |
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1164年、カンタベリー大司教トマス・ベケット Thomas Becket
(1118-1170)が裁判権を巡ってヘンリーII世と対立して一時亡命したが、1170年に帰国後、カンタベリー大聖堂の祭壇で祈っているところをヘンリーII世の騎士に暗殺された。 |
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ローマ教皇はトマス・ベケットを殉教者として列聖したことから、以後、カンタベリーは、聖トマス・ベケット殉教の地として、「カンタベリー詣で」と呼ばれる巡礼地に位置付けられ、多くの巡礼者が訪れるようになった。 |
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カンタベリー市内を流れる美しいスタウア川 Great Stour |
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▼ 6人の女性と結婚したことで知られるチューダー朝のイングランド王ヘンリーVIII世は、ルターの宗教改革を批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、ローマ教皇レオ
X 世から「信仰の擁護者 Defender of the Faith
」の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であった。 |
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しかし、世継ぎとなる王子が生まれないことを理由としたキャサリン・オブ・アラゴンとの「離婚」とアン・ブーリンとの「再婚」を巡る問題から、教皇クレメンスVII世と対立した。イングランド王は、1534年に国王至上法(首長令)を発布し、自らをイングランド国教会の長とするとともに、ローマ・カトリック教会から離脱した。 |
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6人の女性と結婚したチューダー朝のイングランド王ヘンリーVIII世(1491 - 1547) |
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▲ このとき、カンタベリー大司教は、ヘンリーVIII世の離婚を許可する独自の判断を出し、ローマ教会から事実上分離し、独自の路線を歩むこととなった。 |
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1559年、エリザベス I
世の「統一令」により、カンタベリー大司教座は、カンタベリー大主教座と改められ、英国国教会の総本山の地位を獲得した。 |
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カンタベリーの舟遊び |
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▼ クライストチャーチ・ゲート Christchurch Gateの奥に位置するカンタベリー大聖堂 Canterbury Cathedral
は、イギリスのイングランド南東部ケント州のカンタベリーにある教会で、イギリス国教会の総本山である。7世紀にカンタベリーのアウグスティヌスがイギリスに布教し、修道院として建設されたことに始まる。 |
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カンタベリー大聖堂の門・クライストチャーチ・ゲート Christchurch Gate |
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▼
現在の建物は、1070年から1180年にかけてロマネスク様式で建設され、1379年から1503年にかけてゴシック様式で建設された歴史的建造物である。1988年、カンタベリーに残る他の二つの重要なキリスト教建築(聖オーガスティン修道院と聖マーティン教会)とともに、ユネスコの世界遺産に登録された。 |
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イギリス国教会の総本山・カンタベリー大聖堂 Canterbury Cathedral |
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ベル・ハリー・タワー |
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▼ 写真下は、1498年、大聖堂に最後に追加された高さ約72mのベル・ハリー・タワー
Bell Harry Tower の天井。 |
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カンタベリー大聖堂ベル・ハリー・タワー Bell
Harry Tower (中央塔)の内部 |
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▼ 12世紀にヘンリーII世と対立した大司教トマス・ベケットが殉教したことから、イギリス国教会の聖地として多くの巡礼者が訪れるようになった。写真下は、大司教が
4人の騎士に刺殺された場所で、当時の刀剣がその位置を指し示している。 |
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カンタベリー大司教トマス・ベケット暗殺の場 |
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▼ カンタベリー大聖堂の床に一本の蝋燭が灯され、その下に大司教トマス・ベケットが永遠の眠りについている。巡礼者
pilgrim たちは、今もこの大司教の遺体に祈りを捧げるために、全国からやってくる。 |
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一本の蝋燭の下に永眠する大司教トマス・ベケット |
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14世紀にイングランドの詩人ジェフリー・チョーサー Geoffrey Chaucer (1343頃 - 1400)によって書かれた「カンタベリー物語 The
Canterbury Tales
」は、カンタベリー巡礼者の物語である。カンタベリー大聖堂への巡礼の途中、たまたま宿で同宿した様々な身分や職業の人々が旅の退屈しのぎに自分の知っている物語を順に語っていく「枠物語」の形式を取っている。これはイタリアの詩人ボッカッチョ
Boccaccio の全100話からなる「 デカメロンDecameron 」と同じスタイルである。 |
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神に祈りを捧げる司教 bishop と騎士 knight の像 |
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▼ ドーヴァー(ドーバー)海峡 Strait of Dover は、イギリスとフランスを隔てるイギリス海峡 English Channel の最狭部である。フランスではカレー海峡 Pas de Calais と呼ばれる。国際水路機関 IHO は、ドーバー海峡とカレー海峡を併記するかたちをとっている。最短区間は34km。 |
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ドーヴァー海峡 |
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▼ 約10万5千人を擁するドーヴァー
Dover は、ドーヴァー海峡に面したイングランド・ケント州の主要な港湾都市でグレート・ブリテン島で最も大陸と近い場所にある。ドーヴァーは、遙か昔からイギリスと大陸とを結ぶ町として栄えてきたが、軍事上の要衝でもあった。 |
今日でも、依然としてフランスに渡る主要な中継地点だが、飛行機の発達や、1994年に開通した英仏海峡トンネル the Channel Tunnel の開通などにより、もはやイギリスの表玄関とは呼べないかもしれない。 |
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ドーヴァー海峡最狭部に位置する港湾都市ドーヴァー
Dover |
港→ |
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▲▼
大陸からドーヴァー海峡を隔てた最短地にあるドーヴァーは、常に大陸からの脅威に晒されてきた。ドーヴァー城 Dover Castle が陥落することはイギリス全土に敵の脅威が広がることを意味するため、戦時にあっては、ドーヴァー城は「イギリスの鍵」といわれて注目された。 |
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後背地から臨むドーバー城
Dover Castle (北面) |
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▲▼ 城内には、紀元1世紀にローマ人によって建てられたファロス Faros と呼ばれる燈台をはじめ、地下トンネルなど、古い時代の遺跡が数多く残されている。 |
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堅固な要塞ドーヴァー城(西面) |
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▲
地下トンネルは、中世に掘られたものと、第二次世界大戦のときに掘られたものとがあり、後者には、海軍司令部が置かれ、1940年の大戦初期、ダンケルク
Dunkerque でドイツ軍に包囲された約34万人の英仏軍兵士の撤退作戦は、この地下トンネルで指揮されたという。 |
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白い断崖 ホワイト・クリフ White Cliff |
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▲▼ ドーヴァーは、「ドーバーの白い崖 White Cliffs of Dover
」で有名で、その崖は石灰質でできている。 崖は英国の通称「アルビオン Albion 」の由来にもなっており、アルビオンは、ラテン語で白色という意味である。 |
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ドーヴァーとフランスのカレー Calais
との距離は34km。定期フェリーは、ドーヴァーとカレー及びダンケルクとの間を、年間、約180万人の乗客を乗せて行き交っているという。 |
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ようさいの はくあのがけや なつのうみ |
Summer sea, the white Cliffs of strongholds. |
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ドーヴァー海峡で海水浴を楽しむ人たちとホワイト・クリフ
White Cliffs |
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▼ イギリスで最も美しい町のひとつに挙げられるライ Rye は、ドーヴァーの西南西約50kmのイギリス南東部に位置し、中世の町並みがそのまま残された小さな村である。中世には港であったが、その後、徐々に海岸線が後退し、現在は町の3q南に港がある。 |
1329年、エドワードIII世の命によって建てられたランド ゲイト Land Gate
は、北の入口で、フランスの攻撃を防御するため建てられた4つの門の一つである。 |
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北側の入口ランド・ゲイト Land Gate /
ライ Rye
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▼ ライのマーメイド・ストリート Mermaid Street は、急な坂道が続くためか、丸石が敷き詰められた石畳で、中世の家並みが残されている。蔦の絡まる家は、ライが港町だった1420年にオープンしたマーメイド・イン
Marmaid Inn という旅籠で、当時は、ホークハースト・ギャングという海賊 pirate たちの溜まり場になっていたという。600年経った現在も営業している老舗である。 |
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1156年創業のマーメイド・イン Marmaid Inn / マーメイド・ストリート |
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▼ 海賊といえば、ここ南イングランド出身のフランシス・ドレーク船長 Captain
Francis Drake(1543? - 1596)が歴史に名を残している。彼は、スペインの植民地や船を対象とした海賊行為を行い、その戦利品をイギリスに持ち帰ってエリザベス女王
I 世 Queen Elizabeth I (1533-1603)からサー Sir
の称号を与えられた。最後は海軍提督に任命され、イギリス人として初めて世界一周を達成した偉人である。当時、海賊は、国益に叶うもので、決して違法な行為ではなかった。 |
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1588年のアルマダ海戦ではイギリス艦隊副司令官に叙任され、イングランド艦隊の実質的な指揮をとり、火のついた船を敵艦隊に送り込むという海賊らしい戦法により、スペインの無敵艦隊アルマダ
Armada
を壊滅させて制海権を奪い、小さな島国イギリスが世界帝国になる礎を築いた。 |
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世界帝国イギリスの礎を築いた
海賊キャプテン・ドレーク
Captain Drake |
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▼ ライのライオン・ストリート Lion Street をのぼって行くと、正面にセント・メアリー教会の時計塔が見える。1377年のフランスの侵略にも堪えた
この塔には、稼働している時計としてはイギリス最古の時計があり、感動する。 |
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セント・メアリー教会の時計塔 /
ライオン・ストリート |
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▼ 村を一望できる高台に建つセント・メアリー教会 St Mary's Church は、1150年に建てられた古い教会である。 |
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2003年に900歳を祝ったセント・メアリー教会 / ライ |
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セント・メアリー教会の内部
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▼ セント・メアリー教会の鐘楼にのぼった。赤屋根と白壁を中心とした美しい村の家並みを見渡すことができた。 |
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ライの町並み /
セント・メアリー教会の鐘楼より東方を臨む
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▼ 1249年、フランスからの侵略に備えて、セント・メアリー教会のそばのライで最も高い場所に建設された塔がイプラ・タワー Ypres Tower である。 |
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小さな石積みの要塞イプラ・タワー |
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塔の前面には、英仏海峡に向けて据えられた大砲と球形の砲弾が展示されている。当時は、海からの侵略を防ぐ重要な軍用施設だったが、現在では海岸線が3kmほど後退してしまったので、単なる遺物となってしまった。 |
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かつての大砲と丸い砲弾 |
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住居:兵庫県明石市 |
昭和11年(1936)生まれ |
趣味:音楽鑑賞 旅行 ウォーキングなどの運動 |
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感動写真集〈 第165集 〉/
特集!旅紀行〈 第107集
〉 「英国への旅」 |
撮影・原作 :
小池淳二 監修:和田義男 |
平成23年(2011)11月8日 作品:第30作 画像:(大209+小41) 頁数:11 ファイル数:528 ファイル容量:191MB
平成12年(2000)〜平成23年(2011) 作品数:418 頁数:1,652 ファイル数:70,287 ファイル容量:11,692MB |
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英国旅行の感想
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私ども夫婦が英国へ旅行するのは今回が2度目で、最初は15年前の秋でした。当時、英仏海峡の海底トンネルが出来て、まだ間もないころで、パリまで新しいユーロスターに乗ることも目的のひとつでした。
その時の観光先としてロンドンとウィンザー城は見ていたので、今回の英国旅行では、もっと広い範囲のイギリスを見たいと思い、ロンドンでの自由行動日は南イングランドなどへのオプショナル・ツアーに参加することにしました。
実は、このことが今回の旅の心残りになっているのです。そのうえ、パッキンガム宮殿の衛兵交代式もロンドン名物の交通渋滞のために遅刻し、式の終わり頃、遠くから観客の背後でカメラを持ち上げての撮影でした。
旅行後に旅の写真を見ていると肝心の首都ロンドンが手薄になっておりました。その代わり、カンタベリーなど素晴らしい場所もあるのですが、我儘でしょうか?それ以外は十分満足できる旅だったと思います。
☆★☆彡
今回の旅も出かける前から色々と準備がありました。旅先の歴史・文化などを調べるほかに、イギリス文学、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」を読みました。登場人物の名前がカタカナばかりで、その人間関係が判りにくいので、主な家の家系図を作り、それを見ながら読みました。おかげでブロンテ一家の故郷ハワーズ観光では、小説の中の雰囲気が分かりました。
そのほか、湖水地方の文学としては、ワーズワースの詩の「水仙」、「郭公」、「虹」や、ビアトリックス・ポターの絵本「ピーター・ラビット」や「あひるのジマイマ」などを読みました。
シェイクスピアは読みませんでしたが、ラジオの朗読で「ヴェニスの商人」を聞いていましたので、文豪の生家をストラトフォード・アポン・エイボンで見たときには、小説が書かれた時代を感じました。しかし、「カンタベリー物語」は読んでおらず、トマス・ハーディの「アリシャの日記」も読み返しておらず、若干準備不足でした。
☆★☆彡
やむを得ないことですが、観光時の光線の具合は、私の希望通どおりとは行かず、逆光で真っ黒になったりするので、忙しい中、走り回って良いアングルを捜したりしました。それでもダメな時が多く、撮影条件を多少いじったりしています。
テレビの天気予報は、毎日「クール&シャワー」と報じていましたが、こちらは幸運にも雨には殆どあいませんでした。
英国の印象ですが、ナショナル・トラスト運動で田舎の風景や民家を残すなど、至る所で英国らしさを感じました。広い牧場の中に設けられた旅行者用のフット・パスを歩く若者たちや自転車専用道を利用して旅をする人々、運河や河川で小さい舟を利用した家族の旅など、英国人の余裕を感じました。旅先でちょっと話した英国人たちは、幸せそうでした。
しかし、7月6日にロンドン・ヒースロー空港を離陸してから1箇月後の8月6日、ロンドンで若者たちによる暴動が発生し、私たちが訪問したバーミンガムなどへも飛び火しました。ちょっと見ただけでは中々その国の実情は判らないということでしょう。でも、私には人々は幸せに見えました。私たちも幸せな旅でした。
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【編集子が選ぶ名作】 |
美しいスワン・ホテルと庭園のそばを流れるコルン川 /
バイブリー |
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10月20日(木)丹下誠司さんの第11作「バリ島再訪!」に引き続き、11月8日(火)、
感動写真集同人・小池淳二さんの第8作となる「英国への旅」が完成した。
この間、一泊二日の熊本・阿蘇山の取材旅行を行ったので、それを差し引いても、完成までに17日間を要した感動大作となった。 |
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並みの作品であれば、普通、1週間くらいでできあがるのだが、お送り頂いた画像は、900枚を越え、良く撮れているものをあれもこれもと選んでいくうちに、11頁250枚という巨編になった。 |
歴史・文化が豊かな大国がテーマであるため、枚数が多いだけでなく、解説には正確を期し、話題を広く集めたことから、かなりの時間がかかった。internetを検索しても、質・量ともにこれほど充実した作品は見当たらないので、イギリス旅行の決定版となることは間違いない。 |
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編集に当たっては、観光地がどこにあるかを示すため、グーグル・アース
Google Earth を多用した。そのお陰で、実際に行ったことがなくても、地理だけでなく、建物の姿かたちまで分かるので、画像と照らし合わせることで、どこからどの方向に何を写したかまで知ることができた。グーグル・アースのお陰で、お送り頂いた解説文の中に方角が誤っている箇所があっても、被写体を確認しながら正確な解説を書くことができた。車1台をはっきりと識別できる航空写真が無料で使えるのだから、本当に有り難い世の中になったものである。 |
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【編集子が選ぶ名作】 |
国会議事堂とビッグ・ベン / ロンドン |
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日本では、明治維新以降、急速に西洋化が進んだが、皇太子徳仁親王(こうたいし
なるひとしんのう)がイギリスに留学されたことからも分かるように、皇室はイギリス式を導入し、海軍は当初からイギリスの軍制に倣(なら)った。現在も日本とイギリスとは親密な関係にあり、知らず知らずのうちに、イギリス文化が日本に浸透している。たとえば洋食のマナーで、日本人がフォークの背にご飯を載せて食べるのはイギリス式であり、フォークの腹に乗せるフランス式とは明らかに違っている。フランス人は、今もイギリス式マナーを受け入れない。 |
ライ Rye の旅籠(はたご)マーメイド・イン
Marmaid Inn の解説で、イギリスの海賊
pirate を紹介したが、現在では海賊行為
piracy
は野蛮な犯罪であるが、当時は、国益に叶う活動だった。 |
イギリスでは、現在もキャプテン
Captain
(船長)は、ひとつの称号として尊敬されている。南イングランド出身の海賊キャプテン・ドレーク
Captain Drake
が国を救い、日本よりも小さな島国を大国に発展させた功労者であったからだろう。 |
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日本の海賊といえば、国内の水軍を別にすれば、国外では13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部で活動した和冦(わこう)が有名だが、歴史的な評価は低い。日本は、基本的に稲作中心の農耕民族であり、長い鎖国状態にあった江戸時代に海外に雄飛する機運が削がれてしまったことが大きい。 |
明治維新以後、資源小国の日本は、イギリスに倣って商船隊を育成し、海外から原料を輸入し、魅力的な商品をつくり付加価値をつけて輸出する加工貿易で国を発展させてきた。イギリスのようにキャプテン(船長)が指揮するシーマン Seaman (船乗り)が国益を背負う檜舞台に立ったものの、海洋国日本とは掛け声だけで、イギリスほど大切にされていないのが現状である。 |
現在、日本では、慢性的な円高により、生産拠点が海外に移されて、国内の雇用機会が奪われつつあることに加え、海運の優遇策をとらない国策のために船籍を海外に移す便宜置籍船が増え、商船大学を卒業しても乗る船がないほど衰退した日本の商船隊の現状をみると残念でならない。(現在、日本の商船大学は、国立大学に吸収されて、消滅している。) |
イギリスでは、税制面などで商船を優遇する政策をとり、今やイギリスの国旗ユニオン・ジャック Union Jack を掲げた台湾などの外国船が世界の物流を担っている。海運立国イギリスの国策で、英国船籍船は、海賊に襲われないよう、イギリス海軍が守ってくれるという。日本は、船と船乗りを大事にするイギリスをもう少し見習ってみてはいかがだろうか。 〈 完 〉 2011.11.8 監修 和田義男 |
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