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湯殿山滝行 |
山形県鶴岡市 出羽三山神社 2011年8月6-8日 錬成修行道場 |
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出羽三山は、山形県庄内地方に広がる羽黒山(はぐろさん)(414m)・月山(がっさん)(1,984m)・湯殿山(ゆどのさん)(1,504m)の総称で、修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者や参拝者を集めています。 |
出羽三山の最奥の地・湯殿山の御神体は、女性の秘所に似た霊巌(れいがん)です。その頂上から流れ出る湯は梵字川に注ぎ、やがて赤川となって庄内平野の大地を潤し、日本海に注いでいます。この不思議な巌(いわお)が発見されて以来、湯殿山と名付けられた霊山の慈悲深い湯殿の大神により、新しい生命を賜って再生するという信仰が生まれたのは、日本人にとっては自然の成り行きでした。 |
山々に鎮座する神々の御加護を受けて、父母の厳粛な営みにより新しい命を賜った我々は、死後、その魂が山に還ってゆくという信仰は、六世紀半ばに中国から仏教が伝来すると、神仏習合の文化となり、修験道となって庶民の心を捉え、栄えてゆきました。現在もその思想に共感する人々が全国から出羽三山神社の錬成修行道場に集まり、山伏体験が行われています。 |
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▲
スライドショーCD写真集「湯殿山滝行」は226枚、上映時間19分。(1枚2000円
リピーター価格:1枚1500円)
日本の祭りCD・DVD写真集 |
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YouTube 湯殿山滝行(縮小版) |
↓画像をクリックするとスライドショー動画が始まります。 |
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はじめに |
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平成23年(2011)8月6日(土)から8日(月)迄の三日間、湯殿山参籠所に連泊して 山形県鶴岡市に鎮座する出羽三山神社で行われた錬成修行道場を密着取材した。
出羽三山神社公式サイト |
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【凡例】 ▲:上の画像の説明文 ▼:下の画像の説明文 〈画像の左クリック〉:別窓に拡大写真を表示 |
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山形県 |
鶴岡市 |
出羽三山 |
の位置 |
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Google Map |
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▲▼
出羽三山は、山形県庄内地方に広がる羽黒山(はぐろさん)(414m)・月山(がっさん)(1,984m)・湯殿山(ゆどのさん)(1,504m)の総称で、修験道を中心とした山岳信仰の場として、現在も多くの修験者や参拝者を集める。 |
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資料:出羽三山神社 |
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▲▼
8月6日(土)JR東京駅10:12発上越新幹線 Max とき 317号で新潟駅に行き、接続する特急いなほ5号に乗ると、14:23に鶴岡駅に着いた。山形新幹線など他のルートもあるが、このコースが接続が良く、最も早く着くが、特急の本数が少ないのは、やむを得ないところである。 |
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▼ 1,300km2に13万人が暮らす鶴岡市は、山形県の日本海沿岸南部に広がる庄内(しょうない)地方に位置し、山形市に次ぐ県内第2の都市である。江戸時代には、鶴岡藩(通称 庄内藩)の城下町として盛えた庄内南部の街であり、郊外には庄内米やだだちゃ豆の農地が広がる。出羽三山神社には東北地方で唯一の皇族・蜂子皇子(はちこのおうじ)の墓がある。 |
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鶴岡駅前から庄内交通の路線バスが出ており、2番乗り場から羽黒山頂行きに乗ると、30分ほどで出羽三山の表玄関・羽黒山大鳥居を通過し、それから10分ほどで出羽三山神社の参道入口のバス停「羽黒センター」に着く。そのまま乗っていれば、15分ほどで羽黒山頂(414m)に行くことができる。 |
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バスの進行方向の左手に出羽三山神社の入口がある。石鳥居の向こうに随神門があり、そこから2,446段の石段と3つの急坂(きゅうはん)が続く約2kmの参道を登ると、1時間ほどで羽黒山頂の本殿に至るが、かなりの体力を要する。入口の左手に社務所がある。 |
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←社務所 |
↓随神門 |
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▼ 出羽三山神社の創建は、推古元年(593)に蜂子皇子(はちこのおうじ)が羽黒大神を勧請した事が始まりという。彼は、羽黒山に寂光寺を開山すると、月山と湯殿山を次々に開いて出羽三山修験の祖となった。 |
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羽黒山は現世を司る正観世音菩薩(羽黒権現/伊氐波神いではのかみ・稲倉魂命うかのみたまのみこと)を、月山は死後の世界を司る阿弥陀如来(月山権現/月読神つくよみのかみ)を、湯殿山は未来を司る大日如来(湯殿山権現/大山祇命おおやまづみのみこと・大己貴命おおなむちのみこと・少彦名命すくなびこなのみこと)を祀り、平安時代以降、神仏習合の修験道が栄えた。江戸時代になると、羽黒山修験は、本山派や当山派と並んで、日本三大修験のひとつとして江戸幕府に公認された。 |
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しかし、明治維新後の神仏分離令と修験道廃止令によって、仏教はこの地を追われ、修験道は禁止された*ため、三山に鎮座する出羽(いでは)神社・月山(がっさん)神社・湯殿山(ゆどのさん)神社を基盤として神道化することで、修験道の命脈が継承された。これら三神社を総称して出羽三山神社という。 |
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羽黒山頂には、三社の神を併せて祀る三神合祭殿(さんじんごうさいでん)があり、宗教法人としての社務所は、羽黒山麓(鶴岡市羽黒町はぐろまち手向とうげ7)に置かれている。これは、月山と湯殿山が冬季間豪雪のため、司祭や参拝が困難なことから、出羽三山神社の社殿で合祭するようにしたものである。 |
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第二次世界大戦の後、日本国憲法により信教の自由が保障されると、修験道は息を吹き返し、出羽三山では、荒澤寺(こうたくじ)を本山とする羽黒山修験本宗が成立し、かつての仏教寺院を中心とした羽黒修験が復活している。
荒澤寺 |
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▲▼ 筆者が出羽三山神社から特別許可を得て密着取材したのは、出羽三山神社錬成修行道場の前期道場(8月6日(土)〜8月8日(月)の2泊3日)である。後期道場は、8月19日(金)〜8月21日(日)の2泊3日で、修行の内容は前期と変わらない。
出羽三山神社錬成修行道場
後期道場の様子(個人サイト) |
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出羽三山神社錬成修行道場の日程 平成23年8月6日(土)・7日(日)・8日(月)
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資料:出羽三山神社 |
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▲▼ 前期道場の参加者は男性30人、女性24人の合計54人。今年から抽選で参加者を決めることになり、約200人の応募者から60人が選抜され、実際に参加したのは54人という狭き門である。 |
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錬成道場は、吉住登志喜・禰宜(ねぎ)が祭主をつとめ、道彦(みちひこ)の太田慶春・権禰宜(ごんねぎ)と助彦(すけひこ)の佐藤敬幸・権禰宜の二人の神職による引率指導で実施された。 |
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▲▼
初日、参加者たちは、午前9時までに社務所に集合し、行衣に着替えて錬成修行道場に臨んだ。随神門を通り、最もきついという表参道を登拝し、羽黒山頂の斎館で昼食。三神合祭殿(さんじんごうさいでん)に正式参拝したのち、専用バスで月山八合目に移動し、御田原(みだはら)神社(月山中乃宮)に正式参拝後、御田原参籠所(みだはらさんろうしょ)に一泊した。 |
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↓天拝石 |
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随神門より内は、出羽三山の神域となり、遠く月山を越え、湯殿山まで広がる。随神門はこの広い神域の表玄関である。この門は、当初、仁王門として元禄年間(1688〜1704)に秋田矢島藩主より寄進されたが、明治の神仏分離令により随身像を祀り、随神門と名付けられた。 |
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▼ 随神門のそばにある天拝石(てんぱいせき)は、昔、修験者がこの上で行法を行ったといわれる奇岩である。市内の安藤家前にあったものを昭和16年(1941)にこの地に移設したもの。 |
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▼ 随神門から始まる表参道は、全長1.7km、2,446段の長い石段が続く。両側には樹齢350〜500年の杉並木が400本ほどあり、国の特別天然記念物に指定されている。その中にひっそりと立つ国宝・五重塔は、一の坂のそばにあり、随神門から徒歩5分ほどで行ける。 |
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写真:フリー百科事典 |
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▲ 高さ29.9mの五重塔は、平安時代の920年代に平将門が創建したものといわれ、現在の塔は、長慶(ちょうけい)天皇の御代(1368-83)、庄内の領主で羽黒山の別当であった武藤政氏の再建と伝えられている。東北地方では最古の塔である。 |
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古くは瀧水寺(りゅうすいじ)の五重塔(ごじゅうのとう)といわれ、附近には多くの寺院があったが、新生明治政府の神仏分離・廃仏毀釈政策により打ち壊され、五重塔だけが残された。素木造り(しらきづくり)、柿葺(こけらぶき)、三間五層の優美な姿である。 |
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▼ 羽黒山頂には、芭蕉の銅像と三山巡礼句を記した句碑がある。「奥の細道」の中でも7泊8日逗留した出羽三山は、旅の最も重要な場所のひとつとして記述されている。 |
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最上川を下って狩川経由で羽黒山に入った芭蕉は、続いて月山、湯殿山にも登拝して、それぞれ、「涼しさやほの三日月の羽黒山」「雲の峰いくつ崩れて月の山」「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」の三山巡礼句を残している。 |
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↑バス停・駐車場・売店 |
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↓蜂子皇子御墓 |
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りょくいんの とうせいみあぐ はぐろさん |
Mt. Haguro, looking up Tohsei in the shade of trees. |
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出羽三山は、古くから山岳修験の山として知られている。開山は、約1,400年前、第32代崇峻(すしゅん)天皇の第三皇子である蜂子皇子(はちこのおうじ)(562-641)が三本足の烏(八咫烏やたがらす)に導かれ、羽黒山に登拝し、羽黒権現を感得、山頂に祠(ほこら)を創建したのが始まりとされている。 |
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今も宮内庁が管理する |
蜂子皇子 |
の墓 |
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皇子は、更に月山権現と湯殿山権現を感得し、三山の開祖となり、爾来、羽黒派(古)修験道として全国に広がった。葛城山や熊野、大峯など、主要な修験の地の開祖が役行者(えんのぎょうじゃ)であるのに対し、出羽三山だけは、蜂子皇子という天才が修験道の開山となっている。 |
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残された皇子の絵は、目つきが鋭く、口が頬まで裂けた強烈な風貌で描かれているが、実際にこのような面相だったのだろうか。羽黒山頂にある蜂子皇子の墓は、現在も宮内庁が管理しており、彼が皇族であったのは、間違いなさそうである。 |
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資料 |
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▼ 羽黒山頂に鎮座する出羽(いでは)神社本殿は、参集殿と三神合祭殿から成り、参集殿の前には鐘楼がある。 |
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鐘楼・大鐘(国重文) |
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↓三神合祭殿(国重文) |
参集殿 |
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切妻造り・萱葺きの鐘楼は鏡池の東にあり、最上家信の寄進によるもので、元和4年(1618)に再建された。山内では国宝・五重塔に次ぐ古い建物で、鐘楼と鐘は共に国の重要文化財に指定されている。鐘は、建治元年(1275)の銘があり、東大寺・金剛峰寺に次いで古く、且つ、大きい。 |
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三神合祭殿(さんじんごうさいでん)は、合祭殿造りと呼ぶべき羽黒派(古)修験道独自のもので、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)で、主に杉材を使用している。内部は総朱塗りで、屋根の厚さが2.1m(7尺)に及ぶ萱葺きの豪壮な建物である。 |
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三神合祭殿 |
(国指定重要文化財) |
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/ 出羽三山神社 |
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▲▼ 現在の合祭殿は、文政元年(1818)に完成したもので、社伝によると、工事に動員された大工は35,138人半、木挽・塗師・葺師・石工・彫物師その他の職人が合わせて55,416人、手伝人足が37,644人、これに要した米は976石、建設費は5,275両となった。この外に多くの特志寄付を始め、山麓郷中の手伝人足56,726人が動員された。 |
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合祭殿の正面には、向かって左から湯殿山(ゆどのさん)神社、月山(がっさん)神社、出羽(いでは)神社の扁額が掛けられている。それぞれ、湯殿山、月山、羽黒山に鎮座する神社であり、この社殿に三神が祀られていることを示している。 |
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建設当時は赤松脂塗(あかまつやにぬり)であったが、昭和45年〜47年(1970-72)に開山1,380年記念奉賛事業の一環として塗替修復工事が行われ、現在に見るような朱塗りの社殿となった。平成12年(2000)には、国の重要文化財に指定された。 |
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