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 旅紀行日本の裸祭り

2018年10月20日改訂

今 日

昨 日

♪獅子/邦楽鼓囃子

ふんどしを締めて燃え立つ秋祭  北舟

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A loincloth brings you energy for the autumn festival.

2010年7月31日制作

浜の宮天満宮を目指す練り子たち

播州秋祭/浜の宮天満宮

浜の宮天満宮を目指す練り子たち/港・中細江・南細江(兵庫県姫路市)

- 日本の伝統文化が息づく祭 -

 

日本裸祭百景【上巻】

神無月

神輿一体走り
勝岡八幡神社
愛媛県松山市勝岡町
平成16年(2004)10月7日(水)
撮影・原作:ちばあきお 監修:和田義男

 平成16年(2004)10月7日(水)愛媛県松山市勝岡町に鎮座する勝岡八幡神社で「一体走り(いったいばしり)」が開催された。
 一体走りは、勝岡八幡神社が朝廷から宮号と菊花の紋章を下賜(かし)された際、当時、勝岡の特産品であった塩を朝廷に献上した。以来、勝岡の塩は珍重され、和気浜(わけはま)の裸の若者たちが塩を担いで御用船(ごようせん)まで運んだことから、神事として伝承されてきたものであるという。

太山寺の走り

太山寺の走り 1

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  さやけしや裸の健児疾走す  北舟 

さやけしや はだかのけんじ しっそうす

 The refreshing air, the naked young men dashing.

太山寺の走り 2

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▲▼ 一体走りは、お旅所から東に向かって一直線の参道を駆け抜ける。距離は120mほどあり、現在はアスファルトの舗装道路で、ゴールは神社と反対方向の石灯籠のある勝岡橋付近である。
 午前7時45分過ぎから一体走りが始まった。最初に黄色の布(御絹)で覆われた神輿を担いだ安城寺の裸の青年たちが裸足で走ってきた。御絹と同じ黄色の後ろ鉢巻に、黄色の帯を白い越中褌の上に兵児帯のように締めている。越中褌の代わりに六尺褌を締めたグループもある。褌であれば種類や色は問わないようだ。
 神輿は、左右の揺れも見せず、上下の動揺もなく、一直線に滑るように走ることが賞賛される。どのチームも観衆の盛大な拍手を受けながら、きれいなフォームで鈴を鳴らさないように、あっという間に駆け抜けて行った。

ゴール後神輿を練り上げる若者たち

ゴール後神輿を練り上げる若者たち

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安城寺川狩り
久万川・川狩り場
愛媛県松山市安城寺
平成16年(2004)10月7日(水)
撮影:ちばあきお 監修:和田義男

 松山市安城寺で行われる川狩りは、勝岡八幡神社秋季例祭当日の宮入り前に、神輿青年頭取や一体走りの青年たちが褌姿になり、神輿を久万川に担ぎ入れて、流水で祓い清める行事で、勝岡八幡神社の旧神主(かんぬし)柳原家の伝承に由来するものだという。

 昔、安城寺にあった柳原神主家の屋敷一隅の小社に金無垢の御神体が祀られていた。ある年この御神体を勝岡八幡神社に合祀することになり、神遷(しんせん)*しようとしたところ、神社石段下までは事無く進んだが、それより上へは一歩も進み得ず、幾度か試みた挙げ句、神輿を洗い清めて出直すことを思い立ち、川狩りして出直したところ、今度は不思議にも御神体がやすやすと石段を上がることができたという。
 以来、昭和42年(1967)までは久万川でこの行事が行われていたが、川の汚染のため中断されていた。平成12年(2000)10月、地元の粘り強い要望が実を結び、「愛媛県のふるさとの川づくり事業」による施設が竣工し、伝統行事である「川狩り」が33年ぶりに復活した。現在は、一体走りが終わった日の夕方に行われている。
* 神遷(しんせん):御神体を神輿で遷すこと。
  川狩りや褌衆の頬被 北舟 

かわがりや ふんどししゅうの ほおかむり

Kawagari festival, the naked guys of fundoshi loincloth cover their heads and cheeks with a hand towel. 

水中の神輿

水中の神輿

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播州秋祭/浜の宮天満宮
浜の宮天満宮
兵庫県姫路市
平成13年(2001)10月8日(月)
撮影・制作:和田義男
いざ拝殿へ 拝殿を一周

 

裸祭りの嚆矢

 平成13年(2001)10月8日(月)の休日、家内と二人で兵庫県姫路市飾磨区須加に鎮座する浜の宮天満宮で開かれた秋季例大祭の宵宮に行った。平成13年(2001)10月20日に発表したこの作品は、裸祭りにカメラを向けた嚆矢(こうし)であり、そのロマンと感動に触発されて、以後、取材を重ね、日本一の裸祭りシリーズへと発展した。その記念として、10月15日(月)に取材した「灘のけんか祭り」と共に、筆者の顔写真を埋め込んでいる。

 兵庫県南西部、播磨灘に臨む肥沃な平野は、播州平野と呼ばれる。その中心部に位置する姫路市の海岸一帯では、10月の祭り月になると、祭り一色で盛り上がる。1年をこの日のために暮らしていると思われるほど、人々は血湧き肉踊る秋祭りに熱中する。「祭一色播州の秋」というポスターが沿線の駅構内に張られている。姫路市内だけでも約30の神社で秋祭りが執り行われ、10月は祭りで明け暮れる。
  ふんどしを締めて燃え立つ秋祭 北舟 

ふんどしを しめてもえたつ あきまつり

A loincloth brings you energy for the autumn festival.

天満宮を目指す練り子たち(港・中細江・南細江)

天満宮を目指す練り子たち

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▲▼ 播州の秋祭りでは男たちは上気した赤い肌にふんどしをキリリと締め込み鉢巻を締め地下足袋を履き練り子(ねりこ)や乗り子(のりこ)、シデ方(しでかた)として祭りに臨む。粋な腕守りが揺れる。地元の女性は、そうした男性のいでたちがたまらなく魅力的だという。
 肩車した親子のふんどし姿は、実に微笑ましい。播州では、未だに日本古来の裸文化が息づいている。日本の高温多湿の気候風土には、裸祭りがよく似合う。若者は、盆暮れには帰ってこなくても、秋祭りには必ず帰ってくる。祭りが平日にかかると、地元の市役所は閑散となる。職員が休みを取り、祭りに参加するからである。
  秋祭揺らぐ屋台に稚児二人 北舟 

あきまつり ゆらぐやたいに ちごふたり

Two children on a wagon, swaying up and down in an autumn festival.

浜の宮天満宮秋祭

浜の宮天満宮秋祭

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▲▼ 浜の宮天満宮の秋祭りは、赤、黄、青、桃色、柿色といったカラフルなシデを先端につけたシデ棒を持つシデ方に守られながら、頭巾をかぶり豪華な襦袢を着て太鼓を叩く乗り子を乗せた屋台を練り子が担き、「ヨーイヤサー」の掛け声も勇ましく練り歩く。男性は全員白のふんどしを締め込んでいる。シデ棒は、魔よけの他に屋台を支えたり景気付けや合図など多彩な働きをする。シデの紙は町の色を用いるためシデと練り子の鉢巻でどこの町の屋台かわかるようになっている。
 浜の宮天満宮では、須加(すか)(みや)天神(てんじん)の3地区から大屋台が、大浜(おおはま)川内細江(かわちほそえ)西細江にしほそえ)中細江(なかほそえ)(みなと)南細江(みなみほそえ)の6地区から小屋台が繰り出す。大屋台は、乗り子4人を乗せ、重さ2tonほどもある屋台を練り子50〜60人で担ぐ。小屋台は乗り子2人を乗せ、1tonを超える屋台を練り子30〜40人で担ぐ。各屋台は午前11時頃から順番に宮入りし、拝殿前で屋台練りを披露し、拝殿を一周する。各屋台が宮入りを果たすと、境内は身動きできないほど群衆で一杯となる。
  播州の男はふどし秋祭 北舟 

ばんしゅうの おとこはふどし あきまつり

Men of Bansyu each wearing a loincloth for autumn festivals.

拝殿前の晴舞台(南細江)
古武士のような指揮者
拝殿前の晴舞台 古武士のような指揮者

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▲▼ 播州の祭り屋台は、大きく分けて漆塗りの屋根に錺(かざり)金具を装飾した「神輿屋根型屋台」と、布団を重ねた屋根の「布団屋台」に大別される。浜の宮天満宮の屋台は、播州の各地で多く見られる神輿屋根型屋台である。しかし、細かく見ると、泥台(どろだい)が広く、伊達綱(だてづな)の根元を弦の綱に巻くなど他地区では見られない造りになっている。この地域では屋台を「ヤッサ」と呼ぶが、姫路市の南西部に位置する網干(あぼし)方面では「ヤッタイ」と呼ぶようである。

次々に拝殿へ(中細江)

次々に拝殿へ(中細江)

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▲▼ 練り子たちは、肩当てもせず、練り棒の内側の本棒や外側の脇棒を直接肩に当てて屋台を担いでいる。法被を羽織ったまま担いでいる練り子も見られるが中細江などは、全員法被を脱ぎ捨て、ふんどし一丁で担いでいる。指揮者の美学の違いが感じ取れるところである。
 重さ2トンといわれる大屋台ともなると、ズッシリと重く、肩に食い込む。男たちのむき出しの肩はみるみる赤くなり、思わず顔が歪む。翌日には肩が腫れ上がるのだという。

肩の痛みに堪えて(南細江)

境内で屋台練り(港)
肩の痛みに堪えて 境内で屋台練り

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坂越の船祭り
大避神社
兵庫県赤穂市
平成16年(2004)10月10日(日)
撮影・原作:ちばあきお 監修:和田義男

 平成16年(2004)10月10日(日)兵庫県赤穂市坂越(あこうし・さこし)に鎮座する大避(おおさけ)神社で船渡御祭が開催された。赤穂市を流れる千種川(ちくさがわ)の東、坂越湾に向かって建つ大避神社は、JR播州赤穂駅から東方4
kmに鎮座する。

 大避神社船渡御祭は、「坂越の船祭り」と呼ばれ、今から300年ほど前の江戸時代、坂越が繁栄を極めた時期に始まったといわれる。「坂越の船祭り」は平成4年(1992)国の無形民俗文化財に選定され、使用する船も兵庫県有形民族文化財に指定されている。
 生島(いきしま)は坂越の沖合100mほどに浮かぶ周囲わずか1.6kmの小島で古来より大避神社の神地として人の入ることが禁じられていたため、樹相が原始のままの状態を保っており、国の天然記念物に指定されている。
 生島には大避神社の御旅所と樹林の奥に祭神・奏河勝の墓と伝えられる円墳があり、本祭の前日には墓参が行われる。生島の名は秦河勝が生きてこの地に着いたので名づけられたと伝えられる。船渡御祭は、この御旅所への船による神幸祭である。
  天高し坂越の浦の櫂伝馬  北舟 

てんたかし さこしのうらの かいでんま

The sky is high, large paddle boats at Sakoshi beach.

大きな櫂で梶を取る船頭
大きな櫂で梶を取る船頭

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▲▼ 若衆組が乗り組む2隻の和船は、この地に伝わる櫂伝馬と呼ばれる伝馬船(てんません)である。「かいでんま」又は「かいてんま」といい、片舷6本づつ、両舷12本の櫂(かい)を取り付けた手漕ぎ船である。
 2隻の伝馬船は、常に併走しながら生島周辺や坂越湾を巡り、何度も何度も漕走競争に興じた。赤い法被姿が白砂青松の背景に映えて美しい。遠くから見ると赤く華やかな伝馬船は、子供たちの夢を乗せているようだ。
赤い伝馬船
赤い伝馬船

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▼ やがて若衆組は赤い法被を脱ぎ捨て漕ぎ手全員が褌一丁の裸形になり、赤い伝馬が裸の伝馬に変わった。
 神の鎮座する神輿に近づくには裸詣り同様、裸形でなくてはならず、船を浜に乗り付けてからでは遅いので、あらかじめ裸になって準備していたのである。
 黄色の鉢巻をきりりと締めた二番船の裸の漕ぎ手たちが近くに見えてきた。朝から太陽の下で一日中漕いでいたので、身体には日焼けのあとがクッキリとつき、赤く晴れ上がっている人もいて、精悍さが増していた。
二番船の漕ぎ手たち
二番船の漕ぎ手たち

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▼ 裸の男たちは、坂越の浜に上陸すると、渡御組や大勢の観客に囲まれた砂浜で、アトラクションをはじめた。
くす玉割り
くす玉割り

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▼ 裸の若衆たちにより7枚のバタ板が海水で浄められたあと、午後3時45分、祭神・秦河勝(はたの・かわかつ) の御霊を乗せた神輿が無事にバタ板を渡り、御神輿船に移され、海上渡御が始まった。
 バタ板を掛ける役割を終えた櫂伝馬の褌一丁の男たちは、赤い法被を羽織って配置に付き、赤の伝馬が一番船、黄色の伝馬が二番船として船団の先頭に立ち、生島御旅所まで渡御船団を曳航した。
 渡御船団は、一番・二番が櫂伝馬、三番が獅子船、四番から八番までが頭人船、九番が楽船、十番が御神輿船、十一番が警護船、十二番が歌船となる。今年は警護船が見あたらず、全部で11隻の船団となった。
 櫂伝馬に曳航される船渡御の櫓櫂船(ろかいぶね)が一直線に並んだ。御神輿船の前に9隻の船が先導している。楽船には「国家太平 雅音成就」の大幟が見える。雅な音曲で国家太平を実現したいとの願いなのだろう。
  秋の暮伝馬曳きゆく渡御船団  北舟 

あきのくれ でんまひきゆく とぎょせんだん

The evening late in autumn, rowboats towing the convoy carrying a portable shrine.

雅な渡御船団
雅な渡御船団

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▼ 坂越から目と鼻の先にある生島には、大避神社の御旅所があり、大きな幟が立つ。渡御船団は、この砂浜に船を着けて上陸する。神域として人跡未踏地だった生島は、昔ながらの佇まいを今に伝える。
 櫂伝馬の男たちは上陸に先立ち例によって法被を脱いで裸となった。神輿の上陸に備え御神輿船を引き寄せ、砂浜に平行に固定したあと、7枚のバタ板を掛けた。今度は悪ふざけもなく、作業は淡々と進められた。
 櫂伝馬の男たちは、御神輿船にバタ板を掛け終わると、海上に退避した。男たちは既に赤い法被を着込んでいる。猿田彦と二頭の獅子に続いて、神輿が生島に上陸し、頭人の付き人たちに見守られながら御旅所入っていった。中では着御祭が執り行われる。人の動きが途絶えると、生島御旅所は、深い夕闇に包まれていった。
  秋の海島の御旅所暮れゆきぬ  北舟 

あきのうみ しまのおたびしょ くれゆきぬ

 Autumn sea, the lodging shrine on the island darkening.

御旅所に入る獅子
御旅所に入る獅子

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