|
|
|
|
|
|
|
|
櫛来社のケベス祭 |
|
|
櫛来社 |
大分県国東市国見町 |
平成19年(2007)10月14日(日) |
撮影・原作:清 原浩 監修:和田義男 |
|
|
|
|
平成19年(2007)10月14日(日)、瀬戸内海の西部・周防灘(すおうなだ)に面する大分県国東市(くにさきし)国見町(くにみちょう)に鎮座する神社「櫛来社(くしくしゃ)」で炎の祭典・ケベス祭が行われた。 |
|
国東(くにさき)半島の北部に位置する国見町は、北に瀬戸内海の周防灘を望み、南の国東半島最高峰・両子山(ふたごやま/ふたごさん)(720.6m)を扇の要(かなめ)として広がる大自然と温暖な気候に恵まれた風光明媚な地である。古くは大和から九州へ通じる海上交通の要衝(ようしょう)として、また、中世には六郷満山(ろくごうまんざん)の仏教文化の栄華を誇った町として知られる。港の沖合には、姫島(ひめしま)が浮かぶ。 |
国見町櫛来字大谷に鎮座する櫛来社は、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(仲哀天皇の妃・神功皇后)など6柱の大神を祀る神社で、約1,100年の歴史を有する。明治4年(1871)に現在の呼び名となったが、以前は、磐坐社・岩倉八幡・岩倉社と呼ばれていたという。現在の氏子戸数は10区200余戸。 |
国見町の代表的な祭りが毎年10月14日に櫛来社(くしくしゃ)(旧・岩倉社)で行われるケベス祭(けべすまつり/けべすさい)である。起源や由来は一切不明で、謎のベールに包まれた祭りであるが、火の粉の舞う荒々しい奇祭として知られ、平成12年(2000)12月25日に国の選択無形民俗文化財に指定されている。 |
境内に積み上げられたシダの柴木の山に点火し、燃え盛る浄火を守る白装束の「トウバ」たちと、そこに突入しようとする奇怪な面を着けた「ケベス」が争う。ケベスは何度も突入を試み、ついに成功して棒でシダの山をかき回し火の粉を散らすと、その後はトウバも火のついたシダを持って境内を走り回り、参拝者を追い回す。このときに火の粉を浴びると厄が払われ、無病息災になるといわれる。 |
|
|
|
|
|
|
|
うらまつり ぜんらであびる よいのしお |
Beach ritual, nude bathing
in the evening tide. |
|
|
|
|
拡大写真(1600X1300)163KB
|
|
|
|
|
|
▲ トウバとケベスをつとめる白装束をまとった氏子たちは、日が暮れるのを待ち、午後6時になると、浜に降りて全裸となり、周防灘に入浴して「潮かき」と呼ばれる禊(みそぎ)を行った。 |
全国を見渡すと、現在の禊は、褌をしたままで行うことが主流となっているが、ここでは昔ながらの伝統が維持されている。現在でも銭湯では全裸で入浴する習慣がある日本では、古き良き時代においては、全裸禊は当たり前に行われていた。 |
|
|
|
|
祭のはじまり |
|
パノラマ写真(2000X970)396KB |
|
|
|
|
|
|
▲▼ ケベス祭は、火祭りであることから、火にまつわる厳格な決めごとがある。祭りが行われている6日から14日迄、ケベスとトウバ役の男たちは、一切、火と交わることが禁止される。煙草を吸うことも許されないし、お茶を煎れても駄目。火を加えた食べ物も口にできないというから徹底している。 |
|
更に、一週間前からは他人の触れたものは口にせず、トウバたちによる自給自足の生活に入る。また、女人禁制となり、女性に触れることも許されない。前浜の全裸禊はその仕上げとなるもので、厳しい掟が守られてきた。 |
宮司は、神事の最後に、ケベスドンにケベス面をつけ、背中をドンと一突きしたときからケベスが乗り移り、ケベスが生まれる。ケベス面は、得体の知れない奇妙な面で、とても神秘的である。ケベスは、白頭巾に、荒縄で襷がけをした白装束をまとい、白の地下足袋を履き、扇子と棒を手にして現れた。 |
境内ではトウバたちが十数人、うずたかく積み上げたシダの柴木を焚き上げて待ち構えており、ケベスとトウバとが戦いを始めた。棒術による独特の足さばきが見ものだという。ケベスは、火の中へ突入しようとし、それを阻止するトウバとの攻防戦が繰り返され、最後にはケベスが棒を火に突っ込み、火の粉を散らすことになるが、それまでは次々とトウバが入れ替わり、ケベスと棒術の戦いが続けられる。 |
|
|
|
|
|
|
|
あきのよい けべすとうばの せめぎあい |
Autumnal evening, fighting
between Kebes and Tobas. |
|
ケベスとトウバのせめぎ合い |
|
社殿に入るトウバたち |
|
|
|
拡大写真(1600X1470)417KB |
|
拡大写真(1800X1230)340KB |
|
|
|
|
|
▼ いよいよトウバたちが火のついた生のシダを棒で持ち上げ、境内を徘徊しはじめ、ケベス祭は佳境に入った。櫛来社の境内は、生シダの燃える炎と白煙が充満し、視界が狭まり、炎の祭典は一気に盛り上がりをみせた。 |
トウバ衆は社殿になだれ込み、厄払いをすべく参拝者を追いかけ始め、社殿のあちこちで悲鳴が上がった。社殿の中で、トウバ衆は火のついたシダの柴木を振り回し、逃げ惑う参拝者の頭上に容赦なく浄火の火の粉を浴びせかける。服に焼き焦げができるのは必至で、タオルやショールで衣服を守る人も見られた。午後8時半ころまで続けられた炎の祭典は、喧噪のうちに幕を閉じた。 |
|
|
|
|
|
とうばしゅの じょうかをあびる むらまつり |
The village ritual, bathing holy fires
scattered by Tobas. |
|
|
激しい火の粉の洗礼! |
|
拡大写真(1400X1050)207KB |
|
|
|
|
|
|
|
|
灘のけんか祭り |
|
|
松原八幡神社 |
兵庫県姫路市 |
平成13年(2001)10月15日(月) |
撮影:制作:和田義男 |
|
|
|
|
|
「ヨーイヤサー」の勇ましいかけ声と太鼓の音が抜けるような秋晴れの空に吸い込まれていく。上気した赤い肌に白い祭りまわしをキリリと締め込んだ男たち。神輿がぶつかり屋台が揺れる。21世紀最初の平成13年(2001)10月15日(月)、兵庫県姫路市において、「灘のけんか祭り」と呼ばれる松原八幡神社秋季例祭の本宮が開かれ、15万人の大観衆が裸の男たちの熱い祭典を見守った。 |
★☆★彡 |
灘祭りとも呼ばれる灘のけんか祭りは、神輿を荒々しくぶつけ合う特異な神事のため、天下の奇祭だとか、全国の数あるけんか祭りの中で最大規模の祭りだといわれ、戦前から播州播磨を代表する祭りとして知られてきた。 |
応仁元年(1467)から始まった応仁の乱で松原八幡神社が焼失した際、領主・赤松正則は、社殿の再建に尽力し、その竣工祭に米200俵を寄進した。喜んだ氏子たちが木組みに米俵を積み上げて御旅山へ担ぎ上げたのが祭りの始まりだといわれている。 |
松原八幡神社の秋祭りは、神輿同士がお互いに激しくぶつけ合う「神輿合わせ」で全国的に有名となった。そのさまが喧嘩をしているように見えることから、灘のけんか祭りと呼ばれるようになった。 |
激しく神輿をぶつけ合うのは、神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓出兵の際、風待ちのために白浜の沖で停泊していた軍船が、波に揺られてぶつかり合う様子を表したものだという。また、これらの軍船に付着したゴイナ(牡蠣 かき)を削ぎ落とそうとする様子を表したものだともいわれている。いずれにせよ、神と人とが一体となり、五穀豊穣を願って行われる極めて特異な神事である。 |
|
阪神三宮駅から姫路行きの直通特急に乗車すると、1時間ほどで山陽電鉄・白浜の宮駅に着く。祭りの日だけは(1000頃〜1700頃)特急が臨時停車する。駅の直ぐ南に松原八幡神社がある。その西方に約1kmほど歩くと、御旅山(おたびやま)山麓にある広畑(広畠 ひろばたけ)と呼ばれる練り場(ねりば)に着く。
|
「灘のけんか祭り」に参加する町は旧灘七村である。現在の地名でいえば、姫路市南東部海岸地域のうち東山(ひがしやま)(旧東山村)、八家(やか)(旧八家村)、木場(きば)(旧木場村)、白浜町(旧宇佐崎(うさざき)村・旧中村(なかむら)・旧松原(まつばら)村)及び飾磨区妻鹿(めが)(旧妻鹿村)を合わせた地域で、一般に灘地域とか灘地区などと呼ばれる。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x1050)461KB
|
|
|
|
|
|
|
▲▼ 灘のけんか祭りだけでなく、播州の秋祭りでは、男はみな白の祭り褌を締めている。相撲まわしと同じような綾織・帆布の締め込みで、地元では泥まわしと呼んでいる。相撲まわしよりも生地が薄くて柔らかい褌の人も見かける。 |
|
後日、お便りをいただいた地元の人によると、昔は絹の締め込みだったが、高価なために泥まわしに変わってきたという。その人は、昭和40年(1965)に初めてヤッサ(屋台)を練ったときには、物資に不自由していた時代に父親があつらえて使用していた人絹の褌を受け継いだ。その頃は相撲経験者など少数ではあったがまだ絹の褌をしていたらしい。 |
褌の代わりにネルの腰巻きをしている人たちは、シデ方を務める人たちである。シデ方は、屋台を支える役割で練り子を卒業した年配の人が担当する。シデ方でもその下に褌を締めている人がいるのは、祭り褌にこだわりがあるからだという。 |
褌のほかに地下足袋と鉢巻、そろいの法被が定番の衣装である。腕や褌に腕守り(うでまもり)と呼ばれる細長い布製のお守りを結んでいる人も多い。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1400x1050)356KB |
|
|
|
|
|
|
▲▼ 神輿や屋台が御旅山の山頂にある御旅所(おたびしょ)に向かう前に、御旅山の山麓にある三角形の練り場で神輿合わせや屋台練りが披露される。この会場を広畑(広畠 ひろばたけ)という。御旅山の段々畑がやぐらを組んだように見える事から櫓畠(櫓畑
やぐらばたけ)とも呼ばれる。
|
|
最初に登場した獅子屋台が御旅山に登っていくと、今年14年ぶりに屋根を新調し、漆を塗った神輿3基がそれぞれ幟(のぼり)を先頭に登場し、神輿合わせが行われた。「一の丸」は応神天皇(おうじんてんのう)、「二の丸」は神功皇后(じんぐうこうごう)、「三の丸」は(ひめおおかみ)の神輿で、練り子(ねりこ)たちは年齢別に決まった神輿を練る。神輿に丸がついているのは、故事により、神輿を船に見立てたもの。 |
神輿合わせでは、3台の神輿を相互に激しくぶつけ合う。神輿がぶつかるたびに大歓声が轟く。神輿同士が喧嘩しているようにみえることから、灘のけんか祭りと呼ばれるようになったが、同じ町のもの同士が神輿を練り合うだけなので、喧嘩しているわけではない。 |
|
|
|
|
|
|
|
あきひてる けんかまつりに もえつきぬ |
Autumn
sun shining on the Kenka festival, a
man has breathed his last.
|
|
|
|
|
拡大写真(1400x1050)335KB |
|
|
|
|
|
|
▲ 最初の練り合わせで、大変な事故が起こった。何万人という大観衆の見守る前で、神輿同士がぶつかった瞬間、神輿に乗っていた57歳の白装束の男性が転落した。その直後、重さ350kgの神輿が倒れ、下敷きになった。直ぐに救出され、病院に運ばれたが、翌日の新聞で死亡したことが報じられた。 |
|
死因は胸を圧迫されたことによる心臓破裂だという。10年前にも神輿を担いでいた18歳の男子高校生が死亡する事故が起きている。今回亡くなられた人は、現地で案内していただいた方の同僚の兄だという。心からご冥福をお祈りする。灘のけんか祭りの怪我人は毎度のことで、今年も宵宮・本宮あわせて22人の負傷者が出ている。祭りで大いに盛り上がるのは結構だが、事故だけは避けたいものである。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1400x1050)531KB |
|
|
|
|
|
|
▲ 初っぱなに事故が発生したものの、祭りは何事もなかったかのように続行された。改めて神輿合わせが行われ、神輿がぶつかるたび、倒れるたびに練り場を囲む大観衆から歓声が沸き上がる。会場は興奮の坩堝(るつぼ)と化し、その歓声に勇気付けられたかのように、練り子たちは益々エスカレートし、横転した神輿によじのぼりはじめた。 |
|
一の丸の男たちが、倒れた神輿を起こして地面に据えた後、神輿に登り、屋根を足でばんばん蹴破りはじめた。これでもかこれでもかといわんばかりに執拗だ。14年ぶりに新調された屋根の一部があっという間に破壊された。そして神輿の上で揉み合っていた男が仰向けに転落したが、大事には至らなかった。 |
神輿には神様が乗っておられるのに、どうしてこのような狼藉を働くのか理解できない。景気よくぶつけ合うのはよしとして、足で屋根を蹴破るのはいかがなものか。 |
聞けば、神輿合わせは、激しければ激しいほど、神意に叶うとされているという。神と一体となった裸の男たちは自らに課された使命を忠実に果たそうとしているのだった。それが証拠に、神輿は毎年修復する必要があるため簡素な造りになっているのである。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x1200)433KB |
|
|
|
|
|
|
▲▼ 神輿合わせを終えた3台の神輿が御旅山の坂道を上っていくと、いよいよ6台の豪華な屋台が次々に練り場に登場し、祭りは最高潮に達した。灘祭りの屋台は、豪華で大きい。4人の乗り子を乗せた重さ2トンの大屋台を支える練り子は、100人を超える。妻鹿に至っては600人という大勢力を誇る。勢い余った木場の屋台が転覆しそうになった。バランスが崩れると、元に戻すのは至難の業である。 |
|
屋台が3台になると、練り場は超満員となる。これまで4台の屋台が一度にそろったことがあるそうだが、この日は3台が最高だった。1台が御旅山へ向かい、場所が空くたびに、次の屋台が登場するという形で、総勢6台の屋台が披露された。 |
|
|
|
「死ぬまでに一度は見て欲しい。」と地元の人は言う。イタリア旅行で知った「ナポリを見て死ね」という諺が脳裏を横切る。死亡事故は名誉の戦死で、祭りは平然と続けられる。地元民の灘のけんか祭りへの思いはそれほどまでに強く、ロマンあふれるものがある。 |
灘のけんか祭りを頂点とした播州の秋祭りは、昔からの伝統をかたくなに守り、世紀を超えても変わらない。地域の和。支える人々の心意気。ふる里への強い思い入れ...。播州から発せられるこの祭りの強烈なメッセージは、これからも人々の熱い思いを蘇らせてくれることだろう。 |
|
|
私は、家内と二人で、二階席から「灘のけんか祭り」を見て、今まで眠っていたDNAが目覚めたのか、これから先、日本古来から変質することなく続けられてきた日本の裸祭りを激写し、ホームページに発表していこうと決意した。Wa☆Daフォトギャラリー10周年の節目まで、裸祭りシリーズ108作を発表し、日本一のサイトになり得たのはこのときの感動が引き金になっており、「灘のけんか祭り」は、私の裸祭りに取り組む原点となった。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
拡大写真(1600x1200)481KB |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
灘のけんか祭り2002 |
|
|
松原八幡神社 |
兵庫県姫路市 |
平成14年(2002)10月15日(火) |
撮影・制作:和田義男 |
|
|
|
|
|
平成14年(2002)10月15日(火)、昨年に引き続き灘のけんか祭りの本宮に行った。午前10時頃、山陽電鉄・白浜の宮駅に到着。帰りの切符を購入後、駅の直ぐ南にある松原八幡神社で地元・東山の南澤さんと落ち合った。 |
南澤さんは、昨年アップした灘のけんか祭りを見てお便りをいただき、メル友となった方で、今年の祭りでお会いする約束をし、私にとって初めてのオフ会となった。 |
今年の本宮の宮入りは、東山・木場・松原・八家・妻鹿・宇佐崎・中村の順で、既に東山は屋台の宮入りを済ませ、本殿裏に待機していた。拝殿にまわると、丁度東山の獅子舞の奉納が行われている最中だった。笛や太鼓にあわせ、生きているが如く、獅子が舞っていた。獅子舞を見た後、楼門の南に出た。広い練り場があり、その周りに観覧席がある。昨年もお世話頂いた友人の鈴木さんに観覧席を確保していただいていたので、楼門前の観覧席から宮入りの様子を撮影することができた。 |
|
|
|
|
|