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海神社海上渡御祭 |
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海神社 |
神戸市垂水区宮本町 |
平成14年(2002)10月12日(土) |
撮影・制作:和田義男 |
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平成14年(2002)10月12日(土)、神戸市垂水区宮本町に鎮座する海神社(かいじんじゃ)で海上渡御祭(かいじょうとぎょさい)が行われた。JR三宮駅から下り15分ほどで垂水(たるみ)駅に着く。海神社は垂水駅の南隣りにある。 |
海の神といえば金刀比羅宮か住吉大社が有名だが、海神社も古来よりこの地の海の守り神であった。10月の神無月(かんなづき
神の月)は、播州の17の神社で秋祭りが催される。神々が御旅所に行かれたり、海上に出かけられたりするからだ。海神社もこの17の神社の一つに数えられている。
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今から千数百年前の昔、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐を終えて帰途についたとき、明石海峡を過ぎたところで暴風雨となり御座船(ござぶね)を進めることができなくなった。 |
そこで皇后みずからがこの地に井弉諾神(いざなぎのかみ)の御子(みこ)である綿津見大神(わたつみのおおかみ)を祀り、祈願されたところ、たちまち風波が治まり、無事に都に還られたという。それ以来、当地に社殿を建て、御神徳を仰ぐこととなった。 |
爾来、航海安全・漁業繁栄の神として崇(あが)められたばかりでなく、当地が海陸の交通の要所であったことから、交通安全の神として信仰を集めてきた。正規には「わたつみじんじゃ」と読む。
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「わたつみ」の「わた」は海を表わす古代朝鮮語「ばた」から来ており、「つみ」は精霊を表わす語で、「わたつみ」は「海の精霊」を意味するという。 |
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▲▼ 午前9時過ぎに神社に着くと、すぐ前の垂水漁港では既に漁船が幟(のぼり)や大漁旗を上げで準備していた。写真下の右の白い建物が神戸市漁業協同組合の建物で、浜大鳥居のすぐ前に建っており、海神社が神戸市漁協専用の氏神だと錯覚するほどである。 |
海神社は、東垂水、西垂水、塩屋(しおや)、東高丸(ひがしたかまる)、名谷(みょうだに)の旧5ヵ村の氏神で、東垂水と西垂水との境界線上に位置する。
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海神社の海上渡御祭は、昭和初期から始まり、毎年、秋祭りの最終日に行われる。神輿の担ぎ手は、旧5ヵ村の輪番制で、今年は西垂水の約100名の氏子が務めた。 |
祭りには氏子の家族が総出で参加する。小さな漁港の秋のお祭りである。派手さはないが、心のこもった暖かみのある和気あいあいとした雰囲気が漂う。
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▲▼ 海神社の伊藤宮司(ぐうじ)に海上で写真を撮りたいとお願いしたところ、快く応じて頂き、守衛船(しゅえいせん)に乗せてもらった。守衛船は数隻配備され、雑踏警戒や特別な任務にあたる多目的船である。
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神輿が御座船(ござぶね)に乗せられ、伊藤宮司や各地区の総代などが乗船したのち、午前11時過ぎ、海上渡御が始まった。神戸市漁協前の岸壁を離れた御座船は、猿田彦が乗り組む1番船に先導され、まず、垂水漁港内でお祓いを行い、海上安全と豊漁を祈願した。
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垂水漁港から明石海峡大橋がすぐそばに見える。神戸市漁協の漁師たちは、明石海峡とともに生きている。
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御座船は、海神丸(かいじんまる)という船名だった。素晴らしい名前だ。毎年同じ船が御座船役を務めるという。他の船を見ると、何と1番船も2番船も、いや全ての船の船尾に海神丸と表示されている。守衛船の船長は、こともなげに「垂水の漁船は全て海神丸だ」という。第○海神丸というのではなく、全てただの海神丸なのだ。どうして識別するのだろうか。船長に質問すると笑って答えてくれなかった。 |
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▲▼ 我先に垂水漁港を出港する。守衛船もフルスピードだ。波の洗礼を受ける。神輿を担いでいた西垂水青年会の船が花火を打ち鳴らし、上半身裸になってのお祭り騒ぎである。 |
神輿を乗せた御座船など約20隻の漁船は、2時間かけて海上を巡行した。御座船は、平磯灯標(ひらいそとうひょう)付近、塩屋漁港、マリンピアの船溜まりに行き、伊藤宮司が祝詞(のりと)をあげて海の安全を祈った。
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「景気が良いときには16番船までいた」と守衛船の船長がぽつりと言った。今年は8番船しかいない。お客が来なくなったのだという。報道船も今年からなくなった。船長は寂しげな表情を浮かべた。 |
船団はなかなかまとまらない。船長にお願いして、隊列の周りを走ってもらい、先頭から最後尾まで色々な角度で撮影した。私の注文に気持ちよく応じて頂いた船長のご厚意が有り難かった。 |
以前はタグボートが曳索(えいさく)を出して全船を曳航し、300m以上の長さになったという。毎年行事届けを出している神戸海上保安部から日本一船舶通行の多い明石海峡のそばを曳航して走るのは危ないといわれ、それ以来ばらばらに走るようになった。
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東垂水青年会の船が近くを追い抜いていった。船長が「素っ裸になっている」というので、カメラを向けた(写真下左端)。お祭り騒ぎの若衆が海に飛び込んだのだという。頼もしい後継者が育っていることを嬉しく思った。
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午後1時過ぎ元の岸壁に戻り、海上渡御祭は無事に終了。大任を果たした伊藤宮司の笑顔が印象的だった。
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櫛来社のケベス祭 |
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櫛来社 |
大分県国東市国見町 |
平成19年(2007)10月14日(日) |
撮影・原作:清 原浩 監修:和田義男 |
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平成19年(2007)10月14日(日)、瀬戸内海の西部・周防灘(すおうなだ)に面する大分県国東市(くにさきし)国見町(くにみちょう)に鎮座する神社「櫛来社(くしくしゃ)」で炎の祭典・ケベス祭が行われた。 |
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国東(くにさき)半島の北部に位置する国見町は、北に瀬戸内海の周防灘を望み、南の国東半島最高峰・両子山(ふたごやま/ふたごさん)(720.6m)を扇の要(かなめ)として広がる大自然と温暖な気候に恵まれた風光明媚な地である。古くは大和から九州へ通じる海上交通の要衝(ようしょう)として、また、中世には六郷満山(ろくごうまんざん)の仏教文化の栄華を誇った町として知られる。港の沖合には、姫島(ひめしま)が浮かぶ。 |
国見町櫛来字大谷に鎮座する櫛来社は、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(仲哀天皇の妃・神功皇后)など6柱の大神を祀る神社で、約1,100年の歴史を有する。明治4年(1871)に現在の呼び名となったが、以前は、磐坐社・岩倉八幡・岩倉社と呼ばれていたという。現在の氏子戸数は10区200余戸。 |
国見町の代表的な祭りが毎年10月14日に櫛来社(くしくしゃ)(旧・岩倉社)で行われるケベス祭(けべすまつり/けべすさい)である。起源や由来は一切不明で、謎のベールに包まれた祭りであるが、火の粉の舞う荒々しい奇祭として知られ、平成12年(2000)12月25日に国の選択無形民俗文化財に指定されている。 |
境内に積み上げられたシダの柴木の山に点火し、燃え盛る浄火を守る白装束の「トウバ」たちと、そこに突入しようとする奇怪な面を着けた「ケベス」が争う。ケベスは何度も突入を試み、ついに成功して棒でシダの山をかき回し火の粉を散らすと、その後はトウバも火のついたシダを持って境内を走り回り、参拝者を追い回す。このときに火の粉を浴びると厄が払われ、無病息災になるといわれる。 |
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うらまつり ぜんらであびる よいのしお |
Beach ritual, nude bathing
in the evening tide. |
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▲ トウバとケベスをつとめる白装束をまとった氏子たちは、日が暮れるのを待ち、午後6時になると、浜に降りて全裸となり、周防灘に入浴して「潮かき」と呼ばれる禊(みそぎ)を行った。 |
全国を見渡すと、現在の禊は、褌をしたままで行うことが主流となっているが、ここでは昔ながらの伝統が維持されている。現在でも銭湯では全裸で入浴する習慣がある日本では、古き良き時代においては、全裸禊は当たり前に行われていた。 |
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祭のはじまり |
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▲▼ ケベス祭は、火祭りであることから、火にまつわる厳格な決めごとがある。祭りが行われている6日から14日迄、ケベスとトウバ役の男たちは、一切、火と交わることが禁止される。煙草を吸うことも許されないし、お茶を煎れても駄目。火を加えた食べ物も口にできないというから徹底している。 |
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更に、一週間前からは他人の触れたものは口にせず、トウバたちによる自給自足の生活に入る。また、女人禁制となり、女性に触れることも許されない。前浜の全裸禊はその仕上げとなるもので、厳しい掟が守られてきた。 |
宮司は、神事の最後に、ケベスドンにケベス面をつけ、背中をドンと一突きしたときからケベスが乗り移り、ケベスが生まれる。ケベス面は、得体の知れない奇妙な面で、とても神秘的である。ケベスは、白頭巾に、荒縄で襷がけをした白装束をまとい、白の地下足袋を履き、扇子と棒を手にして現れた。 |
境内ではトウバたちが十数人、うずたかく積み上げたシダの柴木を焚き上げて待ち構えており、ケベスとトウバとが戦いを始めた。棒術による独特の足さばきが見ものだという。ケベスは、火の中へ突入しようとし、それを阻止するトウバとの攻防戦が繰り返され、最後にはケベスが棒を火に突っ込み、火の粉を散らすことになるが、それまでは次々とトウバが入れ替わり、ケベスと棒術の戦いが続けられる。 |
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あきのよい けべすとうばの せめぎあい |
Autumnal evening, fighting
between Kebes and Tobas. |
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ケベスとトウバのせめぎ合い |
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社殿に入るトウバたち |
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▼ いよいよトウバたちが火のついた生のシダを棒で持ち上げ、境内を徘徊しはじめ、ケベス祭は佳境に入った。櫛来社の境内は、生シダの燃える炎と白煙が充満し、視界が狭まり、炎の祭典は一気に盛り上がりをみせた。 |
トウバ衆は社殿になだれ込み、厄払いをすべく参拝者を追いかけ始め、社殿のあちこちで悲鳴が上がった。社殿の中で、トウバ衆は火のついたシダの柴木を振り回し、逃げ惑う参拝者の頭上に容赦なく浄火の火の粉を浴びせかける。服に焼き焦げができるのは必至で、タオルやショールで衣服を守る人も見られた。午後8時半ころまで続けられた炎の祭典は、喧噪のうちに幕を閉じた。 |
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とうばしゅの じょうかをあびる むらまつり |
The village ritual, bathing holy fires
scattered by Tobas. |
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激しい火の粉の洗礼! |
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飫肥城下まつり |
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目抜き通り |
宮崎県日南市 |
平成17年(2005)10月15日(土)・16(日) |
撮影・原作:上平 明 監修:和田義男 |
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平成17年(2005)10月15日(土)・16(日)の両日、宮崎県日南市において開催された「第28回飫肥(おび)城下まつり」に行き、市内の名所旧跡と祭りのメインイベントである泰平(たいへい)踊りを撮影してきた。 |
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飫肥は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、飫肥城を中心に武家屋敷をはじめとする飫肥藩の史跡が当時の面影をとどめ、本町商人通りには昔ながらの本瓦に漆喰の壁をもつ商家造りの建物が並ぶ。 |
▲ 本町保存会の面々が続々大手門前に集合してきた。みな一様にこれから披露する泰平踊りへの思いからか、さわやかな緊張感が伝わって来る。三味線、太鼓、尺八の伴奏方も事前の音あわせに余念がない。刀を差しており、武士の踊りのようである。 |
長くて太い朱紐は深編笠と一体になっている。何のためにこんなに長く太い紐をぶら下げるのか良く分からないが、一説によると、朱紐が踊りと一体となってゆっくり揺れることで優雅な踊りをなお一層優雅に見せるためのものであるという。 |
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▲▼ 平成17年(2005)の飫肥城下祭りは、10月15日(土)、狼煙(のろし)と早馬に続いて、三味線、太鼓、尺八の伴奏の中を飫肥城大手門前から本町保存会(亀組)による泰平踊りの行列が出発してはじまった。泰平踊りは、戦国・江戸時代の情緒を色濃く残す飫肥の地に相応しい優雅な踊りである。 |
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先頭は、折編笠(おりあみがさ)を目深にかぶり、青紫色の羽二重(はぶたえ)の着流し、太刀の落とし差し、腰に印籠を下げ、白足袋・白緒の草履履きという伊達(だて)な元禄武士集団。その後に奴(やっこ)が続く。侍の着流しは、飫肥藩の家紋である月星九曜紋(げっせい・くようもん)が印されている。 |
▼ 飫肥小学校は、飫肥城本丸跡地にある。毎年、伝統を受け継ぐために飫肥小学校6年生児童による泰平踊りが行われてきた。飫肥小学校6年生による泰平踊りは伝統を担う意気込みがあり、大人の踊りにないひたむきさと情熱を感じた。 |
児童の奴(やっこ)姿は、男女ともに水色の前垂れが見えているが、褌を締めているわけではなく、半ズボンの上に前掛けのように布を垂らしている。他の衣装は完璧に伝統を継承しているのに、腰回りの衣装だけが変質・改悪されており、無形民俗文化財の価値を損ねているのはとても残念である。 |
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飫肥小6年生の泰平踊り |
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▼ 今町保存会(鶴組)の泰平踊りは、二日目の10月16日(日)に本町商人通りのパレードで披露された。今町保存会の侍の着流しは紫、奴は黒。着流しの家紋は伊藤家の最初の家紋である庵木瓜(いおり・もっこう)。 |
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飫肥の泰平踊りは、元禄の初めより伝わる郷土舞踊で、かつては飫肥藩の一大行事として旧暦7月の孟蘭盆(うらぼん)に催された格式ある踊りで、今日に至るまで完全な形で伝承されている珍しい芸能である。 |
初めは町衆によって踊られていた盆踊りであったが、宝永4年(1707)、対立していた島津藩と和解したことを祝って武士にも盆踊りへの参加が許された。 |
踊りは「鶴」と「亀」の二流あり、姿勢の高低によって泰平の世の象徴である鶴と亀をあらわしている。「鶴」は鶴のように腰が高く動きの切れが良いことから、「亀」は腰が低く動きが柔らかいということからきており、今町保存会が鶴組、本町保存会が亀組として、「鶴」と「亀」を継承している。 |
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今町組の泰平踊り |
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灘のけんか祭り |
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松原八幡神社 |
兵庫県姫路市 |
平成13年(2001)10月15日(月) |
撮影:制作:和田義男 |
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「ヨーイヤサー」の勇ましいかけ声と太鼓の音が抜けるような秋晴れの空に吸い込まれていく。上気した赤い肌に白い祭りまわしをキリリと締め込んだ男たち。神輿がぶつかり屋台が揺れる。21世紀最初の平成13年(2001)10月15日(月)、兵庫県姫路市において、「灘のけんか祭り」と呼ばれる松原八幡神社秋季例祭の本宮が開かれ、15万人の大観衆が裸の男たちの熱い祭典を見守った。 |
★☆★彡 |
灘祭りとも呼ばれる灘のけんか祭りは、神輿を荒々しくぶつけ合う特異な神事のため、天下の奇祭だとか、全国の数あるけんか祭りの中で最大規模の祭りだといわれ、戦前から播州播磨を代表する祭りとして知られてきた。 |
応仁元年(1467)から始まった応仁の乱で松原八幡神社が焼失した際、領主・赤松正則は、社殿の再建に尽力し、その竣工祭に米200俵を寄進した。喜んだ氏子たちが木組みに米俵を積み上げて御旅山へ担ぎ上げたのが祭りの始まりだといわれている。 |
松原八幡神社の秋祭りは、神輿同士がお互いに激しくぶつけ合う「神輿合わせ」で全国的に有名となった。そのさまが喧嘩をしているように見えることから、灘のけんか祭りと呼ばれるようになった。 |
激しく神輿をぶつけ合うのは、神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓出兵の際、風待ちのために白浜の沖で停泊していた軍船が、波に揺られてぶつかり合う様子を表したものだという。また、これらの軍船に付着したゴイナ(牡蠣 かき)を削ぎ落とそうとする様子を表したものだともいわれている。いずれにせよ、神と人とが一体となり、五穀豊穣を願って行われる極めて特異な神事である。 |
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阪神三宮駅から姫路行きの直通特急に乗車すると、1時間ほどで山陽電鉄・白浜の宮駅に着く。祭りの日だけは(1000頃〜1700頃)特急が臨時停車する。駅の直ぐ南に松原八幡神社がある。その西方に約1kmほど歩くと、御旅山(おたびやま)山麓にある広畑(広畠 ひろばたけ)と呼ばれる練り場(ねりば)に着く。
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「灘のけんか祭り」に参加する町は旧灘七村である。現在の地名でいえば、姫路市南東部海岸地域のうち東山(ひがしやま)(旧東山村)、八家(やか)(旧八家村)、木場(きば)(旧木場村)、白浜町(旧宇佐崎(うさざき)村・旧中村(なかむら)・旧松原(まつばら)村)及び飾磨区妻鹿(めが)(旧妻鹿村)を合わせた地域で、一般に灘地域とか灘地区などと呼ばれる。
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▲▼ 灘のけんか祭りだけでなく、播州の秋祭りでは、男はみな白の祭り褌を締めている。相撲まわしと同じような綾織・帆布の締め込みで、地元では泥まわしと呼んでいる。相撲まわしよりも生地が薄くて柔らかい褌の人も見かける。 |
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後日、お便りをいただいた地元の人によると、昔は絹の締め込みだったが、高価なために泥まわしに変わってきたという。その人は、昭和40年(1965)に初めてヤッサ(屋台)を練ったときには、物資に不自由していた時代に父親があつらえて使用していた人絹の褌を受け継いだ。その頃は相撲経験者など少数ではあったがまだ絹の褌をしていたらしい。 |
褌の代わりにネルの腰巻きをしている人たちは、シデ方を務める人たちである。シデ方は、屋台を支える役割で練り子を卒業した年配の人が担当する。シデ方でもその下に褌を締めている人がいるのは、祭り褌にこだわりがあるからだという。 |
褌のほかに地下足袋と鉢巻、そろいの法被が定番の衣装である。腕や褌に腕守り(うでまもり)と呼ばれる細長い布製のお守りを結んでいる人も多い。 |
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▲▼ 神輿や屋台が御旅山の山頂にある御旅所(おたびしょ)に向かう前に、御旅山の山麓にある三角形の練り場で神輿合わせや屋台練りが披露される。この会場を広畑(広畠 ひろばたけ)という。御旅山の段々畑がやぐらを組んだように見える事から櫓畠(櫓畑
やぐらばたけ)とも呼ばれる。
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最初に登場した獅子屋台が御旅山に登っていくと、今年14年ぶりに屋根を新調し、漆を塗った神輿3基がそれぞれ幟(のぼり)を先頭に登場し、神輿合わせが行われた。「一の丸」は応神天皇(おうじんてんのう)、「二の丸」は神功皇后(じんぐうこうごう)、「三の丸」は(ひめおおかみ)の神輿で、練り子(ねりこ)たちは年齢別に決まった神輿を練る。神輿に丸がついているのは、故事により、神輿を船に見立てたもの。 |
神輿合わせでは、3台の神輿を相互に激しくぶつけ合う。神輿がぶつかるたびに大歓声が轟く。神輿同士が喧嘩しているようにみえることから、灘のけんか祭りと呼ばれるようになったが、同じ町のもの同士が神輿を練り合うだけなので、喧嘩しているわけではない。 |
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あきひてる けんかまつりに もえつきぬ |
Autumn
sun shining on the Kenka festival, a
man has breathed his last.
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▲ 最初の練り合わせで、大変な事故が起こった。何万人という大観衆の見守る前で、神輿同士がぶつかった瞬間、神輿に乗っていた57歳の白装束の男性が転落した。その直後、重さ350kgの神輿が倒れ、下敷きになった。直ぐに救出され、病院に運ばれたが、翌日の新聞で死亡したことが報じられた。 |
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死因は胸を圧迫されたことによる心臓破裂だという。10年前にも神輿を担いでいた18歳の男子高校生が死亡する事故が起きている。今回亡くなられた人は、現地で案内していただいた方の同僚の兄だという。心からご冥福をお祈りする。灘のけんか祭りの怪我人は毎度のことで、今年も宵宮・本宮あわせて22人の負傷者が出ている。祭りで大いに盛り上がるのは結構だが、事故だけは避けたいものである。
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▲ 初っぱなに事故が発生したものの、祭りは何事もなかったかのように続行された。改めて神輿合わせが行われ、神輿がぶつかるたび、倒れるたびに練り場を囲む大観衆から歓声が沸き上がる。会場は興奮の坩堝(るつぼ)と化し、その歓声に勇気付けられたかのように、練り子たちは益々エスカレートし、横転した神輿によじのぼりはじめた。 |
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一の丸の男たちが、倒れた神輿を起こして地面に据えた後、神輿に登り、屋根を足でばんばん蹴破りはじめた。これでもかこれでもかといわんばかりに執拗だ。14年ぶりに新調された屋根の一部があっという間に破壊された。そして神輿の上で揉み合っていた男が仰向けに転落したが、大事には至らなかった。 |
神輿には神様が乗っておられるのに、どうしてこのような狼藉を働くのか理解できない。景気よくぶつけ合うのはよしとして、足で屋根を蹴破るのはいかがなものか。 |
聞けば、神輿合わせは、激しければ激しいほど、神意に叶うとされているという。神と一体となった裸の男たちは自らに課された使命を忠実に果たそうとしているのだった。それが証拠に、神輿は毎年修復する必要があるため簡素な造りになっているのである。 |
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▲▼ 神輿合わせを終えた3台の神輿が御旅山の坂道を上っていくと、いよいよ6台の豪華な屋台が次々に練り場に登場し、祭りは最高潮に達した。灘祭りの屋台は、豪華で大きい。4人の乗り子を乗せた重さ2トンの大屋台を支える練り子は、100人を超える。妻鹿に至っては600人という大勢力を誇る。勢い余った木場の屋台が転覆しそうになった。バランスが崩れると、元に戻すのは至難の業である。 |
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屋台が3台になると、練り場は超満員となる。これまで4台の屋台が一度にそろったことがあるそうだが、この日は3台が最高だった。1台が御旅山へ向かい、場所が空くたびに、次の屋台が登場するという形で、総勢6台の屋台が披露された。 |
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「死ぬまでに一度は見て欲しい。」と地元の人は言う。イタリア旅行で知った「ナポリを見て死ね」という諺が脳裏を横切る。死亡事故は名誉の戦死で、祭りは平然と続けられる。地元民の灘のけんか祭りへの思いはそれほどまでに強く、ロマンあふれるものがある。 |
灘のけんか祭りを頂点とした播州の秋祭りは、昔からの伝統をかたくなに守り、世紀を超えても変わらない。地域の和。支える人々の心意気。ふる里への強い思い入れ...。播州から発せられるこの祭りの強烈なメッセージは、これからも人々の熱い思いを蘇らせてくれることだろう。 |
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私は、家内と二人で、二階席から「灘のけんか祭り」を見て、今まで眠っていたDNAが目覚めたのか、これから先、日本古来から変質することなく続けられてきた日本の裸祭りを激写し、ホームページに発表していこうと決意した。Wa☆Daフォトギャラリー10周年の節目まで、裸祭りシリーズ108作を発表し、日本一のサイトになり得たのはこのときの感動が引き金になっており、「灘のけんか祭り」は、私の裸祭りに取り組む原点となった。 |
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灘のけんか祭り2002 |
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松原八幡神社 |
兵庫県姫路市 |
平成14年(2002)10月15日(火) |
撮影・制作:和田義男 |
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平成14年(2002)10月15日(火)、昨年に引き続き灘のけんか祭りの本宮に行った。午前10時頃、山陽電鉄・白浜の宮駅に到着。帰りの切符を購入後、駅の直ぐ南にある松原八幡神社で地元・東山の南澤さんと落ち合った。 |
南澤さんは、昨年アップした灘のけんか祭りを見てお便りをいただき、メル友となった方で、今年の祭りでお会いする約束をし、私にとって初めてのオフ会となった。 |
今年の本宮の宮入りは、東山・木場・松原・八家・妻鹿・宇佐崎・中村の順で、既に東山は屋台の宮入りを済ませ、本殿裏に待機していた。拝殿にまわると、丁度東山の獅子舞の奉納が行われている最中だった。笛や太鼓にあわせ、生きているが如く、獅子が舞っていた。獅子舞を見た後、楼門の南に出た。広い練り場があり、その周りに観覧席がある。昨年もお世話頂いた友人の鈴木さんに観覧席を確保していただいていたので、楼門前の観覧席から宮入りの様子を撮影することができた。 |
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