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Wa☆Daフォトギャラリー

 旅紀行日本の祭り

2018年10月20日改訂

今 日

昨 日

♪海/邦楽鼓囃子

秋高く翳す屋台や灘祭  北舟

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 Nada festival,
people holding a wagon to the high sky of autumn.

2010年7月31日制作

豪快な木場の屋台!

灘のけんか祭り

豪快な木場の屋台!/松原八幡神社(兵庫県姫路市)

- 日本の伝統文化が息づく祭 -

 

日本祭百景【下巻】

神無月

海神社海上渡御祭
海神社
神戸市垂水区宮本町
平成14年(2002)10月12日(土)
撮影・制作:和田義男
毛獅子 B

 平成14年(2002)10月12日(土)、神戸市垂水区宮本町に鎮座する海神社(かいじんじゃ)で海上渡御祭(かいじょうとぎょさい)が行われた。JR三宮駅から下り15分ほどで垂水(たるみ)駅に着く。海神社は垂水駅の南隣りにある。
 海の神といえば金刀比羅宮か住吉大社が有名だが、海神社も古来よりこの地の海の守り神であった。10月の神無月(かんなづき 神の月)は、播州の17の神社で秋祭りが催される。神々が御旅所に行かれたり、海上に出かけられたりするからだ。海神社もこの17の神社の一つに数えられている。
   
 今から千数百年前の昔、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐を終えて帰途についたとき、明石海峡を過ぎたところで暴風雨となり御座船(ござぶね)を進めることができなくなった。
 そこで皇后みずからがこの地に井弉諾神(いざなぎのかみ)の御子(みこ)である綿津見大神(わたつみのおおかみ)を祀り、祈願されたところたちまち風波が治まり、無事に都に還られたという。それ以来、当地に社殿を建て御神徳を仰ぐこととなった。
 爾来、航海安全・漁業繁栄の神として崇(あが)められたばかりでなく、当地が海陸の交通の要所であったことから、交通安全の神として信仰を集めてきた。正規には「わたつみじんじゃ」と読む。
 「わたつみ」の「わた」は海を表わす古代朝鮮語「ばた」から来ており、「つみ」は精霊を表わす語で、「わたつみ」は「海の精霊」を意味するという。
船上の神輿 御座船 1番船
   
▲▼ 午前9時過ぎに神社に着くと、すぐ前の垂水漁港では既に漁船が幟(のぼり)や大漁旗を上げで準備していた。写真下の右の白い建物が神戸市漁業協同組合の建物で、浜大鳥居のすぐ前に建っており、海神社が神戸市漁協専用の氏神だと錯覚するほどである。 
 海神社は、東垂水、西垂水、塩屋(しおや)、東高丸(ひがしたかまる)、名谷(みょうだに)の旧5ヵ村の氏神で、東垂水と西垂水との境界線上に位置する
 海神社の海上渡御祭は、昭和初期から始まり、毎年、秋祭りの最終日に行われる。神輿の担ぎ手は、旧5ヵ村の輪番制で、今年は西垂水の約100名の氏子が務めた。
 祭りには氏子の家族が総出で参加する。小さな漁港の秋のお祭りである。派手さはないが、心のこもった暖かみのある和気あいあいとした雰囲気が漂う。
神戸市漁協前から出港する漁船群

神戸市漁協前から出港する漁船群

拡大写真(1600x1200)205KB

   
▲▼ 海神社の伊藤宮司(ぐうじ)に海上で写真を撮りたいとお願いしたところ快く応じて頂き守衛船(しゅえいせん)に乗せてもらった。守衛船は数隻配備され、雑踏警戒や特別な任務にあたる多目的船である。
 神輿が御座船(ござぶね)に乗せられ、伊藤宮司や各地区の総代などが乗船したのち、午前11時過ぎ海上渡御が始まった。神戸市漁協前の岸壁を離れた御座船は、猿田彦が乗り組む1番船に先導され、まず、垂水漁港内でお祓いを行い、海上安全と豊漁を祈願した。
 垂水漁港から明石海峡大橋がすぐそばに見える。神戸市漁協の漁師たちは、明石海峡とともに生きている。
 御座船は、海神丸(かいじんまる)という船名だった。素晴らしい名前だ。毎年同じ船が御座船役を務めるという。他の船を見ると、何と1番船も2番船も、いや全ての船の船尾に海神丸と表示されている。守衛船の船長は、こともなげに「垂水の漁船は全て海神丸だ」という。第○海神丸というのではなく、全てただの海神丸なのだ。どうして識別するのだろうか。船長に質問すると笑って答えてくれなかった。
須磨沖から明石海峡東口までをパレードする漁船群

御座船船団

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▲▼ 我先に垂水漁港を出港する。守衛船もフルスピードだ。波の洗礼を受ける。神輿を担いでいた西垂水青年会の船が花火を打ち鳴らし、上半身裸になってのお祭り騒ぎである。
 神輿を乗せた御座船など約20隻の漁船は、2時間かけて海上を巡行した。御座船は、平磯灯標(ひらいそとうひょう)付近、塩屋漁港、マリンピアの船溜まりに行き、伊藤宮司が祝詞(のりと)をあげて海の安全を祈った。
 「景気が良いときには16番船までいた」と守衛船の船長がぽつりと言った。今年は8番船しかいない。お客が来なくなったのだという。報道船も今年からなくなった。船長は寂しげな表情を浮かべた。
 船団はなかなかまとまらない。船長にお願いして、隊列の周りを走ってもらい、先頭から最後尾まで色々な角度で撮影した。私の注文に気持ちよく応じて頂いた船長のご厚意が有り難かった。
 以前はタグボートが曳索(えいさく)を出して全船を曳航し、300m以上の長さになったという。毎年行事届けを出している神戸海上保安部から日本一船舶通行の多い明石海峡のそばを曳航して走るのは危ないといわれ、それ以来ばらばらに走るようになった。
 東垂水青年会の船が近くを追い抜いていった。船長が「素っ裸になっている」というので、カメラを向けた(写真下左端)。お祭り騒ぎの若衆が海に飛び込んだのだという。頼もしい後継者が育っていることを嬉しく思った。
 午後1時過ぎ元の岸壁に戻り、海上渡御祭は無事に終了。大任を果たした伊藤宮司の笑顔が印象的だった。
東垂水青年会の船 気勢を上げる西垂水青年会の船 談笑する伊藤宮司
 
櫛来社のケベス祭
櫛来社
大分県国東市国見町
平成19年(2007)10月14日(日)
撮影・原作:清 原浩 監修:和田義男

 平成19年(2007)10月14日(日)、瀬戸内海の西部・周防灘(すおうなだ)に面する大分県国東市(くにさきし)国見町(くにみちょう)に鎮座する神社「櫛来社(くしくしゃ)」で炎の祭典・ケベス祭が行われた。

 国東(くにさき)半島の北部に位置する国見町は北に瀬戸内海の周防灘を望み南の国東半島最高峰・両子山(ふたごやま/ふたごさん)(720.6m)を扇の要(かなめ)として広がる大自然と温暖な気候に恵まれた風光明媚な地である。古くは大和から九州へ通じる海上交通の要衝(ようしょう)として、また、中世には六郷満山(ろくごうまんざん)の仏教文化の栄華を誇った町として知られる。港の沖合には、姫島(ひめしま)が浮かぶ。
 国見町櫛来字大谷に鎮座する櫛来社は、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)(仲哀天皇の妃・神功皇后)など6柱の大神を祀る神社で、約1,100年の歴史を有する。明治4年(1871)に現在の呼び名となったが、以前は、磐坐社・岩倉八幡・岩倉社と呼ばれていたという。現在の氏子戸数は10区200余戸。
 国見町の代表的な祭りが毎年10月14日に櫛来社(くしくしゃ)(旧・岩倉社)で行われるケベス祭(けべすまつり/けべすさい)である。起源や由来は一切不明で謎のベールに包まれた祭りであるが、火の粉の舞う荒々しい奇祭として知られ、平成12年(2000)12月25日に国の選択無形民俗文化財に指定されている。
 境内に積み上げられたシダの柴木の山に点火し、燃え盛る浄火を守る白装束の「トウバ」たちと、そこに突入しようとする奇怪な面を着けた「ケベス」が争う。ケベスは何度も突入を試み、ついに成功して棒でシダの山をかき回し火の粉を散らすと、その後はトウバも火のついたシダを持って境内を走り回り、参拝者を追い回す。このときに火の粉を浴びると厄が払われ、無病息災になるといわれる。 
  浦祭全裸で浴びる宵の潮  北舟 

うらまつり ぜんらであびる よいのしお

Beach ritual, nude bathing in the evening tide.

夜の全裸禊・潮かき
夜の全裸禊・潮かき

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▲ トウバとケベスをつとめる白装束をまとった氏子たちは、日が暮れるのを待ち、午後6時になると、浜に降りて全裸となり、周防灘に入浴して「潮かき」と呼ばれる禊(みそぎ)を行った。
 全国を見渡すと、現在の禊は、褌をしたままで行うことが主流となっているが、ここでは昔ながらの伝統が維持されている。現在でも銭湯では全裸で入浴する習慣がある日本では、古き良き時代においては、全裸禊は当たり前に行われていた。

祭のはじまり

祭のはじまり

パノラマ写真(2000X970)396KB

▲▼  ケベス祭は、火祭りであることから、火にまつわる厳格な決めごとがある。祭りが行われている6日から14日迄、ケベスとトウバ役の男たちは、一切、火と交わることが禁止される。煙草を吸うことも許されないし、お茶を煎れても駄目。火を加えた食べ物も口にできないというから徹底している。
 更に一週間前からは他人の触れたものは口にせずトウバたちによる自給自足の生活に入る。また、女人禁制となり、女性に触れることも許されない。前浜の全裸禊はその仕上げとなるもので、厳しい掟が守られてきた。
 宮司は神事の最後に、ケベスドンにケベス面をつけ、背中をドンと一突きしたときからケベスが乗り移り、ケベスが生まれる。ケベス面は、得体の知れない奇妙な面で、とても神秘的である。ケベスは、白頭巾に、荒縄で襷がけをした白装束をまとい、白の地下足袋を履き、扇子と棒を手にして現れた。
 境内ではトウバたちが十数人、うずたかく積み上げたシダの柴木を焚き上げて待ち構えており、ケベスとトウバとが戦いを始めた。棒術による独特の足さばきが見ものだという。ケベスは、火の中へ突入しようとし、それを阻止するトウバとの攻防戦が繰り返され、最後にはケベスが棒を火に突っ込み、火の粉を散らすことになるが、それまでは次々とトウバが入れ替わり、ケベスと棒術の戦いが続けられる。
  秋の宵ケベストウバの鬩ぎ合ひ  北舟 

あきのよい けべすとうばの せめぎあい

Autumnal evening, fighting between Kebes and Tobas.

ケベスとトウバのせめぎ合い

社殿に入るトウバたち

ケベスとトウバのせめぎ合い 社殿に入るトウバたち

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いよいよトウバたちが火のついた生のシダを棒で持ち上げ、境内を徘徊しはじめ、ケベス祭は佳境に入った。櫛来社の境内は、生シダの燃える炎と白煙が充満し、視界が狭まり、炎の祭典は一気に盛り上がりをみせた。
 トウバ衆は社殿になだれ込み、厄払いをすべく参拝者を追いかけ始め、社殿のあちこちで悲鳴が上がった。社殿の中でトウバ衆は火のついたシダの柴木を振り回し、逃げ惑う参拝者の頭上に容赦なく浄火の火の粉を浴びせかける。服に焼き焦げができるのは必至でタオルやショールで衣服を守る人も見られた。午後8時半ころまで続けられた炎の祭典は、喧噪のうちに幕を閉じた。
  トウバ衆の浄火を浴びる村祭  北舟 

とうばしゅの じょうかをあびる むらまつり

The village ritual, bathing holy fires scattered by Tobas.

激しい火の粉の洗礼!

激しい火の粉の洗礼!

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飫肥城下まつり
目抜き通り
宮崎県日南市
平成17年(2005)10月15日(土)・16(日)
撮影・原作:上平 明 監修:和田義男

 平成17年(2005)10月15日(土)・16(日)の両日、宮崎県日南市において開催された「第28回飫肥(おび)城下まつり」に行き、市内の名所旧跡と祭りのメインイベントである泰平(たいへい)踊りを撮影してきた。

 飫肥は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、飫肥城を中心に武家屋敷をはじめとする飫肥藩の史跡が当時の面影をとどめ、本町商人通りには昔ながらの本瓦に漆喰の壁をもつ商家造りの建物が並ぶ。
▲ 本町保存会の面々が続々大手門前に集合してきた。みな一様にこれから披露する泰平踊りへの思いからか、さわやかな緊張感が伝わって来る。三味線、太鼓、尺八の伴奏方も事前の音あわせに余念がない。刀を差しており、武士の踊りのようである。
 長くて太い朱紐は深編笠と一体になっている。何のためにこんなに長く太い紐をぶら下げるのか良く分からないが、一説によると、朱紐が踊りと一体となってゆっくり揺れることで優雅な踊りをなお一層優雅に見せるためのものであるという。
本町組と飫肥小6年生との泰平踊り

本町組と飫肥小6年生との泰平踊り 1

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▲▼ 平成17年(2005)の飫肥城下祭りは、10月15日(土)、狼煙のろし)と早馬に続いて三味線太鼓、尺八の伴奏の中を飫肥城大手門前から本町保存会(亀組)による泰平踊りの行列が出発してはじまった。泰平踊りは、戦国・江戸時代の情緒を色濃く残す飫肥の地に相応しい優雅な踊りである。
 先頭は、折編笠(おりあみがさ)を目深にかぶり、青紫色の羽二重(はぶたえ)の着流し、太刀の落とし差し、腰に印籠を下げ、白足袋・白緒の草履履きという伊達(だて)な元禄武士集団。その後に奴(やっこ)が続く。侍の着流しは、飫肥藩の家紋である月星九曜紋(げっせい・くようもん)が印されている。
▼ 飫肥小学校は、飫肥城本丸跡地にある。毎年、伝統を受け継ぐために飫肥小学校6年生児童による泰平踊りが行われてきた。飫肥小学校6年生による泰平踊りは伝統を担う意気込みがあり、大人の踊りにないひたむきさと情熱を感じた。
 児童の奴(やっこ)姿は男女ともに水色の前垂れが見えているが褌を締めているわけではなく半ズボンの上に前掛けのように布を垂らしている。他の衣装は完璧に伝統を継承しているのに、腰回りの衣装だけが変質・改悪されており、無形民俗文化財の価値を損ねているのはとても残念である。

飫肥小6年生の泰平踊り

飫肥小6年生の泰平踊り

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▼ 今町保存会(鶴組)の泰平踊りは、二日目の10月16日(日)に本町商人通りのパレードで披露された。今町保存会の侍の着流しは紫、奴は黒。着流しの家紋は伊藤家の最初の家紋である庵木瓜(いおり・もっこう)
 飫肥の泰平踊りは元禄の初めより伝わる郷土舞踊でかつては飫肥藩の一大行事として旧暦7月の孟蘭盆(うらぼん)に催された格式ある踊りで、今日に至るまで完全な形で伝承されている珍しい芸能である。
 初めは町衆によって踊られていた盆踊りであったが、宝永4年(1707)、対立していた島津藩と和解したことを祝って武士にも盆踊りへの参加が許された。
 踊りは「鶴」と「亀」の二流あり、姿勢の高低によって泰平の世の象徴である鶴と亀をあらわしている。「鶴」は鶴のように腰が高く動きの切れが良いことから「亀」は腰が低く動きが柔らかいということからきており今町保存会が鶴組、本町保存会が亀組として、「鶴」と「亀」を継承している。

今町組の泰平踊り

今町組の泰平踊り

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灘のけんか祭り
松原八幡神社
兵庫県姫路市
平成13年(2001)10月15日(月)
撮影:制作:和田義男
神輿の屋根を壊す男たち

 「ヨーイヤサー」の勇ましいかけ声と太鼓の音が抜けるような秋晴れの空に吸い込まれていく。上気した赤い肌に白い祭りまわしをキリリと締め込んだ男たち。神輿がぶつかり屋台が揺れる。21世紀最初の平成13年(2001)10月15日(月)、兵庫県姫路市において、「灘のけんか祭り」と呼ばれる松原八幡神社秋季例祭の本宮が開かれ、15万人の大観衆が裸の男たちの熱い祭典を見守った。

★☆★彡

 灘祭りとも呼ばれる灘のけんか祭りは、神輿を荒々しくぶつけ合う特異な神事のため、天下の奇祭だとか、全国の数あるけんか祭りの中で最大規模の祭りだといわれ、戦前から播州播磨を代表する祭りとして知られてきた。
 応仁元年(1467)から始まった応仁の乱で松原八幡神社が焼失した際、領主・赤松正則は、社殿の再建に尽力しその竣工祭に米200俵を寄進した。喜んだ氏子たちが木組みに米俵を積み上げて御旅山へ担ぎ上げたのが祭りの始まりだといわれている。
 松原八幡神社の秋祭りは、神輿同士がお互いに激しくぶつけ合う「神輿合わせ」で全国的に有名となった。そのさまが喧嘩をしているように見えることから、灘のけんか祭りと呼ばれるようになった。
 激しく神輿をぶつけ合うのは、神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓出兵の際、風待ちのために白浜の沖で停泊していた軍船が、波に揺られてぶつかり合う様子を表したものだという。また、これらの軍船に付着したゴイナ(牡蠣 かき)を削ぎ落とそうとする様子を表したものだともいわれている。いずれにせよ、神と人とが一体となり、五穀豊穣を願って行われる極めて特異な神事である。

 阪神三宮駅から姫路行きの直通特急に乗車すると、1時間ほどで山陽電鉄・白浜の宮駅に着く。祭りの日だけは(1000頃〜1700頃)特急が臨時停車する。駅の直ぐ南に松原八幡神社がある。その西方に約1kmほど歩くと、御旅山(おたびやま)山麓にある広畑(広畠 ひろばたけ)と呼ばれる練り場(ねりば)に着く。
 「灘のけんか祭り」に参加する町は旧灘七村である。現在の地名でいえば、姫路市南東部海岸地域のうち東山(ひがしやま)(旧東山村)、八家(やか)(旧八家村)、木場(きば)(旧木場村)、白浜町(旧宇佐崎(うさざき)村・旧中村(なかむら)・旧松原(まつばら)村)及び飾磨区妻鹿(めが)(旧妻鹿村)を合わせた地域で、一般に灘地域とか灘地区などと呼ばれる。
三基のけんか神輿

三基のけんか神輿

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▲▼ 灘のけんか祭りだけでなく、播州の秋祭りでは、男はみな白の祭り褌を締めている。相撲まわしと同じような綾織・帆布の締め込みで、地元では泥まわしと呼んでいる。相撲まわしよりも生地が薄くて柔らかい褌の人も見かける。
 後日、お便りをいただいた地元の人によると、昔は絹の締め込みだったが、高価なために泥まわしに変わってきたという。その人は、昭和40年(1965)に初めてヤッサ(屋台)を練ったときには、物資に不自由していた時代に父親があつらえて使用していた人絹の褌を受け継いだ。その頃は相撲経験者など少数ではあったがまだ絹の褌をしていたらしい。
 褌の代わりにネルの腰巻きをしている人たちはシデ方を務める人たちである。シデ方は屋台を支える役割で練り子を卒業した年配の人が担当する。シデ方でもその下に褌を締めている人がいるのは、祭り褌にこだわりがあるからだという。
 褌のほかに地下足袋と鉢巻、そろいの法被が定番の衣装である。腕や褌に腕守り(うでまもり)と呼ばれる細長い布製のお守りを結んでいる人も多い。

死亡事故直前の神輿

死亡事故直前の神輿

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▲▼ 神輿や屋台が御旅山の山頂にある御旅所(おたびしょ)に向かう前に、御旅山の山麓にある三角形の練り場で神輿合わせや屋台練りが披露される。この会場を広畑(広畠 ひろばたけ)という。御旅山の段々畑がやぐらを組んだように見える事から櫓畠(櫓畑 やぐらばたけ)とも呼ばれる。
 最初に登場した獅子屋台が御旅山に登っていくと、今年14年ぶりに屋根を新調し、漆を塗った神輿3基がそれぞれ幟(のぼり)を先頭に登場し、神輿合わせが行われた。「一の丸」は応神天皇(おうじんてんのう)、「二の丸」は神功皇后(じんぐうこうごう)、「三の丸」は(ひめおおかみ)の神輿で、練り子(ねりこ)たちは年齢別に決まった神輿を練る。神輿に丸がついているのは、故事により、神輿を船に見立てたもの。
 神輿合わせでは、3台の神輿を相互に激しくぶつけ合う。神輿がぶつかるたびに大歓声が轟く。神輿同士が喧嘩しているようにみえることから、灘のけんか祭りと呼ばれるようになったが、同じ町のもの同士が神輿を練り合うだけなので、喧嘩しているわけではない。
  秋日照る喧嘩祭に燃え尽きぬ 北舟 

あきひてる けんかまつりに もえつきぬ

Autumn sun shining on the Kenka festival, a man has breathed his last.

神輿から転落して下敷きに!

神輿から転落して下敷きに!

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▲ 最初の練り合わせで、大変な事故が起こった。何万人という大観衆の見守る前で、神輿同士がぶつかった瞬間、神輿に乗っていた57歳の白装束の男性が転落した。その直後、重さ350kgの神輿が倒れ、下敷きになった。直ぐに救出され、病院に運ばれたが、翌日の新聞で死亡したことが報じられた。
 死因は胸を圧迫されたことによる心臓破裂だという。10年前にも神輿を担いでいた18歳の男子高校生が死亡する事故が起きている。今回亡くなられた人は、現地で案内していただいた方の同僚の兄だという。心からご冥福をお祈りする。灘のけんか祭りの怪我人は毎度のことで、今年も宵宮・本宮あわせて22人の負傷者が出ている。祭りで大いに盛り上がるのは結構だが、事故だけは避けたいものである。 

破壊した神輿から転落!

破壊した神輿から転落!

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▲ 初っぱなに事故が発生したものの、祭りは何事もなかったかのように続行された。改めて神輿合わせが行われ、神輿がぶつかるたび、倒れるたびに練り場を囲む大観衆から歓声が沸き上がる。会場は興奮の坩堝(るつぼ)と化し、その歓声に勇気付けられたかのように、練り子たちは益々エスカレートし、横転した神輿によじのぼりはじめた。
 一の丸の男たちが、倒れた神輿を起こして地面に据えた後神輿に登り屋根を足でばんばん蹴破りはじめた。これでもかこれでもかといわんばかりに執拗だ。14年ぶりに新調された屋根の一部があっという間に破壊された。そして神輿の上で揉み合っていた男が仰向けに転落したが、大事には至らなかった。
 神輿には神様が乗っておられるのに、どうしてこのような狼藉を働くのか理解できない。景気よくぶつけ合うのはよしとして、足で屋根を蹴破るのはいかがなものか。
 聞けば、神輿合わせは、激しければ激しいほど、神意に叶うとされているという。神と一体となった裸の男たちは自らに課された使命を忠実に果たそうとしているのだった。それが証拠に、神輿は毎年修復する必要があるため簡素な造りになっているのである。

豪快な木場の屋台

豪快な木場の屋台!

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▲▼ 神輿合わせを終えた3台の神輿が御旅山の坂道を上っていくといよいよ6台の豪華な屋台が次々に練り場に登場し祭りは最高潮に達した。灘祭りの屋台は豪華で大きい。4人の乗り子を乗せた重さ2トンの大屋台を支える練り子は、100人を超える。妻鹿に至っては600人という大勢力を誇る。勢い余った木場の屋台が転覆しそうになった。バランスが崩れると、元に戻すのは至難の業である。
 屋台が3台になると、練り場は超満員となる。これまで4台の屋台が一度にそろったことがあるそうだが、この日は3台が最高だった。1台が御旅山へ向かい、場所が空くたびに、次の屋台が登場するという形で、総勢6台の屋台が披露された。

 
 「死ぬまでに一度は見て欲しい。」と地元の人は言う。イタリア旅行で知った「ナポリを見て死ね」という諺が脳裏を横切る。死亡事故は名誉の戦死で、祭りは平然と続けられる。地元民の灘のけんか祭りへの思いはそれほどまでに強く、ロマンあふれるものがある。
 灘のけんか祭りを頂点とした播州の秋祭りは昔からの伝統をかたくなに守り世紀を超えても変わらない。地域の和。支える人々の心意気。ふる里への強い思い入れ...。播州から発せられるこの祭りの強烈なメッセージは、これからも人々の熱い思いを蘇らせてくれることだろう。
 私は、家内と二人で、二階席から「灘のけんか祭り」を見て、今まで眠っていたDNAが目覚めたのか、これから先、日本古来から変質することなく続けられてきた日本の裸祭りを激写し、ホームページに発表していこうと決意した。Wa☆Daフォトギャラリー10周年の節目まで、裸祭りシリーズ108作を発表し、日本一のサイトになり得たのはこのときの感動が引き金になっており、「灘のけんか祭り」は、私の裸祭りに取り組む原点となった。

八家・妻鹿・東山の三台練り

八家・妻鹿・東山の三台練り

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灘のけんか祭り2002
松原八幡神社
兵庫県姫路市
平成14年(2002)10月15日(火)
撮影・制作:和田義男
松原八幡神社 拝殿の神輿

 平成14年(2002)10月15日(火)昨年に引き続き灘のけんか祭りの本宮に行った。午前10時頃、山陽電鉄・白浜の宮駅に到着。帰りの切符を購入後、駅の直ぐ南にある松原八幡神社で地元・東山の南澤さんと落ち合った。
 南澤さんは、昨年アップした灘のけんか祭りを見てお便りをいただき、メル友となった方で、今年の祭りでお会いする約束をし、私にとって初めてのオフ会となった。
 今年の本宮の宮入りは、東山・木場・松原・八家・妻鹿・宇佐崎・中村の順で、既に東山は屋台の宮入りを済ませ、本殿裏に待機していた。拝殿にまわると、丁度東山の獅子舞の奉納が行われている最中だった。笛や太鼓にあわせ、生きているが如く、獅子が舞っていた。獅子舞を見た後、楼門の南に出た。広い練り場があり、その周りに観覧席がある。昨年もお世話頂いた友人の鈴木さんに観覧席を確保していただいていたので、楼門前の観覧席から宮入りの様子を撮影することができた。
 width= 東山の長老 妻鹿の獅子壇尻と毛獅子
▼ 宮入り順に次々と屋台が登場し、屋台練りを披露した後、楼門をくぐり、拝殿で御祓いを受ける。屋台が大型化してしまったため、そのままでは楼門を通過できないので、擬宝珠(ぎぼし)やそれを支える露盤(ろばん)を取り外してから宮入りする光景が見られた。 妻鹿の宮入りには、雌雄2頭の毛獅子を乗せた獅子壇尻が露払い役を務める。午後、広畑の御旅山にも毛獅子が登場する。
松原の宮入り

松原の宮入り

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▼ 八家と宇佐崎の屋台は宮入りの際オリンピックのウイニング・ランのように観覧席の前を特別に練り歩いてくれた。おかげで、練り子たちの姿を屋台の真上からのぞき込むように撮影することができた。
宇佐崎屋台

宇佐崎屋台

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▲▼ 昨年練り番で見ることができなかった宇佐崎は殿(しんがり)で登場。黄色のシデに黄色の鉢巻・法被と、黄金を表す黄で衣装を統一しており、会場は熱気に包まれた。秋本番の10月半ばではあるが、日中は夏のように気温が上がり、練り子たちの身体からは汗が噴き出ている。2トンもある屋台は想像以上に重い。歯を食いしばり、必死に支えるその姿に、播州の男衆の真骨頂を見る。感動した。
宇佐崎の屋台練り 1  width=  width=
▼ 練り子全員が法被を脱ぎ捨て褌一丁で屋台を担いでいる男たちは八家の氏子たち。観覧席の前を練り歩き勇壮な屋台練りの迫力を間近に見せてくれた。松原八幡神社の境内での前哨戦ですらこれだけの盛り上がりを見せているとは思ってもいなかった。
八家の屋台練り 八家 八家
  秋祭揺らぐ屋台に稚児二人 北舟 

あきまつり ゆらぐやたいに ちごふたり

Two children on a wagon, swaying up and down in an autumn festival.

 
 
 
▲▼ 午前の宮入りが終わった後、休憩となった。街角を観察すると、大人と同じ締め込み姿のちびっ子がいる。お尻を出して歩いている姿は、なんとも微笑ましい。小さい頃からまわしを締めていれば、違和感はなくなることだろう。海神社のお祭りでは、稚児の衣装が大変だった。用便を訴えるたびに袴を脱がしてやらねばならない。母親が汗だくで対応に追われていたが、ここではその必要はない。
 白浜小学校には、大勢の氏子が陣取っていた。特に妻鹿が大きな幟を建てて本拠地を構えている。お陰で屋台や獅子壇尻など、じっくりと見学することができた。本番では乗せてもらえない妻鹿の屋台にちびっ子二人が座っていた。(写真下)首に巻いているのは腕守りで、ネクタイのように締めている。あちこちで散見されるので、今年の流行となっているのだろうか。
 妻鹿屋台は、他の2tonの屋台に比べ、2.5tonもある。「胴つき」と呼ばれる独特の練り上げ方のために屋台を強固な仕様にしたので、重量が増加した。そのため泥台の痛みが激しく、4年毎に取り替えるという。妻鹿屋台の胴つきは、ずしんずしんと凄い地響きがして、迫力満点である。

妻鹿屋台のちびっ子

妻鹿屋台のちびっ子(灘のけんか祭り/姫路市)

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  腕守り腰に自慢の秋祭 北舟 

うでまもり こしにじまんの あきまつり

A man proudly wearing an arm charm on his waist for the autumn festival.

▼ 練り子たちは、向う鉢巻にまわしをきりりと締め込み、短い法被をはおり、黒い地下足袋を履く。細長い腕守りはこの地特有のもので、中にお守りが入っている。お守りは神社でいただけるが、腕守り自体は神社にはない。妻や恋人が夫や彼氏のために着物の襟布を使って縫ってくれるものなのだという。祭りの朝、男衆は風呂で身体を清め、これらの装束を身につける。妻や彼女は夫や彼氏の無事を祈りながら塩をかけて送り出す。昔ながらのしきたりが現代に息づく。
 日中は暑いため、尻からげをしている人や法被を脱いでいる人が多い。昔から女子衆はこのような男衆の裸姿を頼もしく見守ってきた。明治維新以後、素肌を露出して街頭を歩くのは野蛮だとする教育がはじまり、戦後はアメリカ文化が流入し、日本人の美意識が変わってきた。
 しかし、伝統にこだわる人々は全国におり、播州・播磨の国では、現代においても高温多湿の日本の気候風土にはぐくまれた裸の美学をかたくなに守り続けている。せめて祭りの日だけでもこの伝統衣装を堂々と身にまとって街頭を闊歩してもらいたい。
御守 龍の刺繍

御守

龍の刺繍

腕守り

姫路の鈴木さんからいただいた名入りの腕守り。125cmx7cm 袋状に縫ってあり、裏の中央に御守を入れる切り口がある。御守は南澤さんから御子息が身に付けておられたものを撮影してお送りいただいた。
 

転覆した神輿

転覆した神輿

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▲▼  午後1時頃神社を後にし、国道250号線を西に向かい、15分ほどで広畑に着いた。南澤さんの桟敷席は北側中段にあった。去年は東側の観覧席に陣取ったので夕方の西日で逆光となったが、今年は大丈夫だった。途中で南澤さんの友人も来られ、色々と説明を受けながら高見の見物を楽しむことができた。
 width=  width= 練り場から御旅山へ向かう八家
▲▼ 去年は神輿の下敷きになり、心臓破裂で死亡するという事故があった。それだけに関係者が事故防止に注意している様子がうかがえた。大勢がケンゴーと呼ばれる竹製のつっかえ棒で危ない方向に倒れないように支えていた。お陰で無事に神輿合わせは終了した。
 続いて屋台練りが始まった。木場、松原、妻鹿、宇佐崎、東山、八家の順に練り場に入り、「ヨーイヤサー!」の掛け声が御旅山に轟き、祭りは佳境に入った。今年は東山・妻鹿・松原・八家による四台練りが実現した。殿(しんがり)の八家が最後の1台となり、何度もパフォーマンスを見せてくれたので、練り場に下りて撮影し、御旅山に上がってゆく姿を見送った。
  秋高く翳す屋台や灘祭 北舟 

あきたかく かざすやたいや なだまつり

 Nada festival, people holding a wagon to the high sky of autumn.

東山・妻鹿・松原・八家の4台練り

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▼ 神輿は御旅山の山頂にある御旅所に到着し三柱の神は山上でひとときを過ごされる。屋台も山上で神のお供をする。神事が執り行われるほか獅子舞の奉納や巫女の舞などがある。夜下山が始まり何台かの屋台にはイルミネーションが輝き、お伽の国のような世界が広がり、祭りのフィナーレを迎える。
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▲ 今年も本宮だけで15万人の観客が観戦した灘のけんか祭りは、日本古来のダイナミックで美しい裸褌文化の華であり、裸祭りに対する筆者の感性を一気に燃え上がらせる原点となった。

▲ 後日、外国人愛読者から WORDS OF APLAUSE (讃辞)を頂いた。国内外に多くのファンを抱える裸祭りシリーズは、10年の節目を迎えたが、その熱意は初心と変わらない。これからも気力・体力・財力の続く限り、全国の祭りを目指して旅に出かけたい。日本古来の伝統と多くの人々との出会いを期待しながら...!

灘のけんか祭

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荒川神社小芋まつり
荒川神社
兵庫県姫路市
平成20年(2010)10月17日(日)
撮影・原作:H. I. 監修:和田義男

 平成22年(2010)10月17日(日)、 兵庫県姫路市井ノ口(いのくち)に鎮座する荒川神社で「小芋まつり」と呼ばれる秋季例大祭が開催された。

 荒川神社の秋季例大祭は、町坪(ちょうのつぼ)、中地(ちゅうじ)、玉手(たまで)、岡田(おかだ)、井ノ口(いのくち)、西庄(さいしょう)の氏子六町の大幟(おおのぼり)と大人屋台(おとなやたい)六基を中心に、宮神輿と、氏子六町に西町坪(にしちょうのつぼ)を加えた子供樽神輿(こどもたるみこし)七基が繰り出す賑やかな裸祭である。
 荒川神社の秋季例大祭は、別名「小芋祭」と呼ばれて親しまれている。これは、拝殿から馬場で練る屋台を見下ろすと、すり鉢の中で小芋を洗っているように見えることから名付けられたもの。
  天高く屋台を翳す褌衆 北舟 

てんたかく やたいをかざす ふどししゅう

 Guys of loincloth, holding a wagon to the high sky.

清楚な白シデの 町坪屋台ちょうのつぼやたい

11:28

清楚な白シデの町坪屋台 11:28

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 馬場を練り上げ、石段入口までの坂道を登った屋台は、石段下で方向転換し、練子たちは力を振り絞って一歩一歩拝殿までの石段を登ってゆく。難所の石段登は、大きな見所となっている。
 午後1時頃、御旅所神事が行われたあと、屋台は、御旅所の空地に順番に並べられ、しばしの休憩に入る。
 午後3時半ころから屋台の下山が始まる。御旅所で練り上げた屋台は、荒川神社の神宮寺であった本徳寺境内で差し上げを行った後、馬場へと続く坂道を下りて行く。この道は上りとは異なり、急勾配急カープが続くルートで、厳しい難所となっている。
▼ 現在の井ノ口屋台は平成2年(1990)に新調され、3年後に漆が塗られた。屋台紋は前後が二引両、左右は三つ巴。平成9年(1997)に幕を新調した。最大の難所・山下りのため、練子たちは法被を脱ぎ捨て、褌一丁で下山してきたガッツに拍手を送りたい。
  秋麗や褌一丁屋台舁 北舟 

しゅうれいや ふどしいっちょう やたいかき

 Bright autumn day, naked guys of a loincloth holding a wagon on their shoulders.

一丁になった 井ノ口いのくち

練子ねりこ たち 16:12

褌一丁になった井ノ口の練子たち 16:12

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