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 旅紀行日本の祭り

2018年10月20日改訂

今 日

昨 日

♪太鼓メドレー

木漏日の宮相撲はや四百年  北舟

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The ritual sumo match
already passed four hundred years
under the sun streaming through the leaves of trees.

2010年7月31日制作

下手投げ炸裂!

船橋大神宮奉納相撲

下手投げ炸裂!/船橋大神宮(千葉県船橋市

- 日本の伝統文化が息づく祭 -

 

日本祭百景【下巻】

神無月

 
江戸の伝統芸能
木場公園
東京都江東区
平成18年(2006)10月15日(日)
撮影・原作:志村清貴 監修:和田義男

 平成18年(2006)10月15日(日)東京都江東区木場公園で「第24回江東区民まつり」が開かれ、木場(きば)の角乗(かくのり)や木遣(きやり)、深川の力持(ちからもち)など江戸時代から伝わる江戸っ子の民俗芸能が披露された。
 「江東区民まつり」は、「世代をつなぐ心のふれあい」をテーマに、第1回以来、まつりを通して「人情溢れる快適なまちづくり」と「ふるさと江東づくり」を目指して毎年開催されている。
 角乗の会場は、都立木場公園の角乗池(かくのりいけ)と呼ばれる専用のプール。角乗は、速いテンポの葛西囃子をバックに、口上師(こうじょうし)の語りとともに行われる。筏師・囃子方・口上師の呼吸がピタッと合うことが大事。

 角乗は、江戸時代から続く伝統芸能のひとつで、川並(かわなみ)と呼ばれる深川、木場の筏師(材木業者)たちが鳶口(とびぐち)一つで丸太を自由に操り、運搬したり筏(いかだ)を組む仕事をするなかで余技として生まれた。
 やがて、数々の技術を加えて水上の曲技として発達した。角材を使用するため、丸太より高度な技能を要し、多年の修練を必要とする。わずか30cm四方の角材を回転させるまでには、3年はかかるといわれる。日本全国数いる筏師(いかだし)の中で角乗ができるのは木場の川並だけだという。
 昭和27年(1952)に木場角乗保存会が結成され、同年、都の無形民俗文化財の指定を受けた。例年10月には「江東区民まつり」で妙技が披露され、官民一体となって技能の保存・伝承がなされている。

子供を乗せた花駕籠(戻り駕籠)乗り

子供を乗せた花駕籠(戻り駕籠)乗り

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▲ 角乗の技には大きく分けて十二種類前後あり難易度の低いものから順に披露されたが、「花駕籠乗り」は、難易度が高い技である。花で飾った駕籠に子供を乗せ、かごを担ぎながら角材を回す。二人の間は駕籠でつながっており、相乗りとは違った息が必要。本来ならころあいをみて駕籠に乗っている子供がわざと水中に落ち、お面をかぶって出てくる。
 空(から)の駕籠は、先方と後方が反対になり、「戻り駕籠」としゃれこむ。江東区教育委員会生涯学習課では、この演目全体を「戻り駕籠」として説明している。
▼ 江戸時代大名の藩米を扱っていた浅草蔵前の札差(ふださし)の穀倉が佐賀町の川沿いに立ち並んでいたが、その仲仕(なかし)(荷役(にやく)人夫)たちが、力ひとつで生きてきた仕事の余技に楽しんだ力自慢の曲技が深川の力持(ちからもち)の起源。
 種々の力自慢が加わり、芸能として発達した。19世紀初めの文化・文政の頃には、興行として行われるほど盛んになり、長唄「近江のお兼」にも唄われている。 演技には、米俵、臼、小舟、脚立、長柄、小桶、桝などが用いられ、口上師が口上を述べ、砂村囃子が囃す。出し物は1俵(4斗/40升)約60kg の米俵が中心で、どれだけ軽々とあしらうかが腕の見せ所。
 演目は、俵の差し分け、用具のあしらい、酒樽の差し分け、餅つき、七福神宝の入船、文字書き、江戸の花五人持、虚無僧の8 種類である。餅つきは仰臥(ぎょうが)した人の上に4俵240kgの米俵を積み上げ、その上に臼(うす)を乗せて餅をつくという荒技である。

腹の上の餅つき

腹の上の餅つき

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船橋大神宮子ども相撲
船橋大神宮
千葉県船橋市
平成16年(2004)10月17日(日)
撮影・制作:和田義男

 平成16年(2004)10月17日(日)、千葉県船橋市に鎮座する船橋大神宮で子ども相撲が奉納された。奉納相撲の主催者は、船橋大神宮奉納相撲執行委員会であるが、実質は氏子青年部。毎年10月20日の秋期例大祭に相撲が奉納されるが、平日は学校があるので、当日は大人のみとし、日曜日に子供の部が行われている。

 船橋大神宮の奉納相撲は、約400年前に徳川家康が鷹狩りで船橋に滞在した際、地元漁師の子供たちが相撲を取って見せたところ、大変喜んだ家康がこれを神社に奉納したことに始まるという。
 家康の船橋御殿が廃止された後も、その広大な地所を与えられた大神宮の祭礼に相撲は欠かせない行事となった。江戸時代には行司の差し違いがあるたびに力士の応援者同士で喧嘩が起きたところから「船橋のけんか相撲」の異名がつき、関東でも屈指の草相撲として名を馳せたという。
 船橋大神宮の奉納相撲は、戦後の混乱を脱した昭和25年(1950)に再開され、一時中断があったあと昭和54年(1979)に復活。その後四半世紀を迎え、今年は土俵を新調したとのことで、伝統の奉納相撲を幾久しく伝えていこうという意気込みが感じられた。
まわしを締めてもらう子供たち 1 まわしを締めてもらう子供たち 2

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  ▲ 相撲をとる子供たちは、テントでできたまわし小屋で、氏子青年会のおじさんたちにまわしを締めてもらった。まわしには「船橋大神宮氏子青年会」の表示がある。相撲クラブの子供たちは、自前のまわしを持参していた。
 今年の参加者は小学3年生から6年生までの139人で、その中に女子が11人いるという。女子はこのテントの左の部屋で、短パンの上からまわしを締めてもらっていた。数が多いので、ボランティアのおじさんも汗だくだった。

はっけよい!

はっけよい!

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  太陽を身いっぱいに宮相撲  北舟 

たいようを みいっぱいに みやずもう

Dedicatory sumo mach, exposing whole bodies to the sun.

土俵際の上手投 / 三位決定戦

土俵際の上手投 / 三位決定戦

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  ▲▼ 午前中は、個人戦が行われた。3・4年の部と5・6年の部があり、女子と男子に分かれて対戦。熱戦や名勝負が繰り広げられ、次第に観客の目も真剣味を帯びてきた。
 昼休みになると、お母さん方による豚汁の炊き出しがあった。生徒に行き渡った後、一般にもふるまわれ、ご相伴にあずかった。空腹だったこともあり、とても美味かった。おかわりする子が沢山いた。その後、船橋大神宮奉納相撲の相撲甚句が紹介された。

船橋大神宮奉納相撲

ケンカ相撲の呼び名も高い
ここは船橋大神宮
十月二十日の大祭に
江戸のころより伝わりし
奉納相撲の賑わいは
近郷近在の腕に覚えの若者の
力と技のせめぎ合い
心整え礼尽くし
土俵踏み締め胸あわせ
浜っ子たちの心意気
 
まわし一本男気の
内がけ外がけよりたおし
下手差してのすくいなげ
八十二手なる決め技に
わきにわいたる境内は
実りの秋の風涼し
今年も豊年大漁の海山幸の有難さ
民の幸せ守りたる大神宮の大社
千代に八千代に栄えあれ
 

見事な投げ技

見事な投げ技

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  ▲▼ 午後1時から団体戦が行われた。参加チームは11で、くじ引きにより組合せが決まった。チームは先鋒・次鋒・中堅・副将・大将の5人。このうち先鋒と次鋒だけは3・4年生から出さなければならない。3〜4人しか出せないチームは、欠員は不戦敗となる。3勝した段階で勝負が決まるが、全員対戦する。
 午後2時から表彰式が開かれた。個人戦5・6年の部の勝者には紫の優勝旗が、団体戦の勝者には紅の優勝旗が手渡された。優勝者には優勝カップが授与されたほか、入賞者には賞状、トロフィー、メダル、副賞など、豪華な賞品が授与された。

団体戦二連覇の海神小学校

団体戦二連覇の海神小学校

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船橋大神宮奉納相撲
船橋大神宮
千葉県船橋市
平成17年(2005)10月20日(木)
撮影・制作:和田義男

 平成17年(2005)10月20日(木)千葉県船橋市に鎮座する船橋大神宮で奉納相撲が行われた。午前11時幼児によるこども相撲のあと、まわし(相撲褌)一本の選手たちが東西に勢揃いして個人戦の競技が始まった。今年の参加者は50名で、その内40名が地元自衛隊関係者。10名が部外からの参加者という。出場者名簿を見せてもらうと、木更津市から連続15回参加した人がいるほか、東京大学相撲部の名もあった。

50人の力士が東西に分かれて対戦

50人の力士が東西に分かれて対戦

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▲▼ 最初は個人戦が行われた。一番勝負、同じ者同士が続けて取り組み二勝した方が勝つ二番勝負、三番勝ち抜き勝負と続き、勝者には賞品が授与された。
 三役揃踏のあと東方と西方から代表(シード)選手が土俵に上がり個人戦最後の大一番が行われ、強烈なはたき込みにより東方の力士が勝ち、トロフィやカップを手にした東の三役が事務局のカメラにおさまった。

差し手争い

投げの打ちあい

差し手争い 投げの打ちあい

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▼  午後1時半、今年から実施されることになった団体戦が始まった。習志野自衛隊、木更津航空補給処A、同B、海上自衛隊下総基地A、一般、駒場相撲クラブの7チーム35名が参加。一般は個別参加者が5名集まったチーム。駒場相撲クラブは東京から初めて参加した東京大学相撲部。熱戦の末、習志野自衛隊チームが団体戦を制した。
  木漏日の宮相撲はや四百年  北舟 

こもれびの みやずもうはや よんひゃくねん

The ritual sumo match already passed four hundred years
under the sun streaming through the leaves of trees.

下手投げ炸裂!

下手投げ炸裂!

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たこ舞神事
福岡神社
鳥取県日野郡溝口町
平成16年(2004)10月17日(日)
撮影:ちばあきお 監修:和田義男

 平成16年(2004)10月17日(日)、鳥取県日野郡溝口町(みぞくちちょう)に鎮座する福岡神社の例祭で蛸舞式(たこまいしき)神事が行われた。町中を日野川が流れる溝口町は日本最古の鬼伝説があり、鬼の町として知られる。

 蛸舞式神事は、福岡神社の祭神・速玉男命(はやたまおのみこと)が熊野灘で嵐にあって遭難した際、蛸(たこ)に助けられ、無事に吉備国(きびのくに)に上陸したという故事にちなんで行われるようになった奇祭である。
 奇祭といわれるわけは、境内にある舞堂(まいどう)で、褌一丁の裸形(らぎょう)となった氏子たちが、藁(わら)で作った蛸を掲げ持つ男を神楽囃子(かぐらばやし)にあわせて何度も担ぎ上げ、藁の蛸の舞いを演じた後、丸梁(まるはり)に抱きついた願主(ねがいぬし)の氏子を下から大勢で回転させるという神事が行われるからである。
 蛸舞式神事は、昭和61年(1986)に鳥取県無形民俗文化財の指定を受けた。溝口町では、この神事を日本三大奇祭の一つであるとしている。
藁の蛸の舞い

藁の蛸の舞い

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▲ 藁の蛸を掲げ持った男は、立ったままの状態で、男たちに抱えられ、胴上げのように上下される。蛸の足の8本にちなみ、8回天井に突き上げられる。そのたびに藁蛸は海中で舞っているかのように揺れ動く。
 舞堂の中で押し合うのは、海が荒れている様子を表し、藁の蛸を持った男を担ぎ上げるのは、海が静まった様子を表現しているのだという。男たちは息を切らせながら、このパフォーマンスを4回繰り返した。
 舞堂は、全周が格子窓になっていて、外から中を覗くことができる。中に入れたのは、NHKの取材班だけで、神事関係者以外は、格子窓から中の様子をのぞき見することになる。
▼ 丸梁にまたがり、抱きついた願主(ねがいぬし)を大勢の男たちが丸梁のまわりを回転させるこの神事は、蛸役の1人と蛸の足役8人が必要である。奇祭中の奇祭といわれる所以がここにある。

 ぐるぐる廻しは、神楽の笛と太鼓が厳かに鳴り響くなか、全員が「そーれ、そーれ」と掛け声を掛けながら行われる。短い休みを入れるものの殆ど連続で、一度に8回転させ、これを何回も繰り返すので、全員汗ダクである。
 この神事は、祭神が熊野灘で難破して大蛸に助けられたことに感謝して、その喜びを表現したもので、願主が梁のまわりを廻るのは、蛸が船の舳先(へさき)で航海の無事を喜ぶ様子を表しているという。地元では蛸を敬い、長年蛸を食べるのを禁じてきたというから徹底している。大切な丸梁は、ツルツルの状態で、歴史の長さが偲ばれる。何ともユーモラスな神事である。

丸梁の上に押し上げる

丸梁の上に押し上げる

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釣上古式子供相撲土俵入り
釣上神明社
埼玉県さいたま市岩槻区
平成21年(2009)10月18日(日)
撮影制作:和田義男

 平成21年(2009)10月18日(日)、埼玉県さいたま市岩槻区釣上(いわつきく・かぎあげ)220に鎮座する釣上神明社(かぎあげ・しんめいしゃ)(高梨佳樹(たかなし・よしき)宮司)において、「古式子供相撲土俵入り」が行われた。

 さいたま市岩槻区(旧岩槻市)の古式子供相撲土俵入りは釣上(かぎあげ)地区の他に、笹久保(ささくぼ)地区でも行われており、この双方が平成17年(2005)2月21日に「岩槻の古式土俵入り」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 300年を超える歴史を持つ「古式子供相撲土俵入り」は、地区の氏神である釣上神明社に子供たちの健やかな成長を願い毎年、神明社例大祭の10月21日に奉納されていたが現在は10月21日に近い日曜日となり、今年は10月18日(日)に開催された。
 子供のことを真砂子(まさご)ともいうことから「真砂子土俵入り」とも呼ばれ、「子供の土俵入り」とも俗称される。さいたま市教育委員会の説明では行事名は「古式真砂子土俵入」となっている。保護団体は釣上神明社子供相撲保存会(橋本勇会長)であるが、祭礼は釣上神明社氏子総代会(森田邦利総代長)が主催する。

ヤッコを踏む年少組8人

ヤッコを踏む年少組8人

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▲▼ 子供たちが身につけている化粧廻しは、誕生を祝ってあつらえた専用のもので、表に名字が表示されている。日輪や鷹、虎、鯉など勇壮で縁起の良い柄を刺繍したものが多く、その豪華さ如何によって値段が決まるが、安いものでも20万円はかかり、高いものになると天井知らずという。
 化粧廻しは、紐の付いた前垂れの上端部に褌を縫いつけたもので、前垂れと褌とが一本の帯(おび)になっている大相撲の化粧廻しとは違って着脱に便利なように工夫されている。前垂れの裾に鈴がつけられているので、動くと鈴の音が響く。男児を授かった親の喜びと愛情が代々豪華な化粧まわしに表されてきた。
 大相撲でも力士たちが化粧廻し(化粧相撲褌)を締めるときは、汚れないように白晒木綿の六尺褌か越中褌を締め、その上に化粧廻しを締めている。
  奴踏む相撲童や土俵入 北舟 

やっこふむ すもうわらべや どひょういり

Ceremonial entrance to the ring, sumo children perform Yakko walk.

ヤッコ踏み(前姿)

ヤッコ踏み(後姿)

ヤッコ踏み(前姿) ヤッコ踏み(後姿)

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▲▼ 釣上神明社(かぎあげしんめいしゃ)では、釣上上組(かぎあげかみぐみ)、釣上下組(かぎあげしもぐみ)、釣上新田(かぎあげしんでん)、釣上新田南(かぎあげしんでんみなみ)の4地区に分かれて氏子組が組織され、それぞれ5人の氏子総代がいる。土俵入りに参加する子供たちは、宮本といわれる釣上下組の子供たちを中心に選ばれる。少子化の傾向にあるため、年々、選考する区域が広がっているという。
 午後2時10分、いよいよ古式子供相撲土俵入りの奉納が始まった。土俵上の子供たちは、赤襦袢を脱ぎ、氏子役員に手渡した後、土俵を一周した。豪華な化粧廻しのお披露目ということだろう。
 化粧まわしの披露が終わると、古式子供相撲の土俵入りに移った。最初は、年少組8人の出番。年長組9人が土俵の南に正座して見守るなか片手を額に片方を腰に、それぞれ掌(てのひら)を外側にして交互に当てながら歩く「ヤッコを踏む」所作(しょさ)が始まった。

年少組の土俵入り

年少組の土俵入り

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 「ヤッコ踏み」は古式子供相撲土俵入りを特徴付けるもので、豆力士たちは、この所作を繰り返しながら土俵の外周を廻ったあと、東側から土俵の中に入った。
 行司が土俵中央で北の神殿に向かって蹲踞(そんきょ)の姿勢を取り、その廻りを取り囲んだ年少組の豆力士たちは、蹲踞の姿勢から立ち上がり、様々な所作を組み合わせた土俵入りを披露した。
 この後、年長組も年少組と同様に、土俵中央で北の神殿に向いて蹲踞(そんきょ)する行司の周りを廻りながら種々の所作を組み合わせた土俵入りを披露。最後に、橋本・池澤・森井くんの三役による土俵入りが行われた。
▼ 新しく完成した土俵をバックに、金棒曳(かなぼうひき)、行司、拍子木、力士のオールキャストが勢揃いして、記念写真を撮った。豆力士たちは、格好良く腕を組んでポーズを取った。お陰で、豪華な化粧廻しを一望することができたが、こうして見ると、豆力士たちには橋本・本橋くんが多い。

オールキャスト勢揃い

オールキャスト勢揃い

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剣鉾の飾席
鞍馬の火祭り
由岐神社
京都府京都市左京区鞍馬本町
平成14年(2002)10月22日(火)
制作:和田義男

火祭や鞍馬の宿の鉾飾

ひまつりや くらまのやどの ほこかざり

Kurama fire festival displaying spears at villager's inns.

 鞍馬の火祭りは、京都府京都市左京区鞍馬本町に鎮座する鞍馬寺(くらまでら)の鎮守社・由岐神社(ゆきじんじゃ)の例祭で、毎年10月22日に行われる。(雨天決行) 大小の松明を担いで「さいれーや、 さいりょう!」の掛け声とともに鞍馬街道を練り歩く紅蓮の炎の祭典として知られ、那智の火祭りや久留米市・玉垂宮(たまたれぐう)の鬼夜(おによ)とともに日本三大火祭りに数えられる。

由岐神社本殿

由岐神社本殿

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▲ 由岐神社の祭神は、元は京都・御所の内裏(だいり)にあった靱(ゆぎ)社に祀られていたが、都で大地震や天慶の乱が起き、朱雀天皇(すざくてんのう)(923-952)の勅により、天慶3年(940)、鞍馬の地に遷宮し、北方鎮護を仰せつかった。例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を持って神霊を迎えたことによるものである。

鞍馬の火祭の神輿や大松明

鞍馬の火祭の神輿や大松明

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▼ 午後6時「神事に参らっしゃれ」の合図(神事触れ)が響くと、鞍馬街道に沿った氏子約150軒の軒先のエジ(小篝火)に一斉に火がつけられ、祭りが始まる。まずトックリ松明を手に、色鮮やかな着物姿の幼児が街道一帯を行き来する。
 続いて、小、中の松明を担いだ小学生、中・高生が加わり、鞍馬太鼓が「ドンコ、ドンコ、ドコ、ドコ、ドン」と打ち鳴らされる中、「さいれーや、さいりょう!」と掛け声を掛けながら通りを練り歩き、最後に、長さ5m・重さ80kgを超える大松明を3〜4人がかりで担いだ若者たちが加わる。
     
 午後8時頃、菊・桐・蝶・葵・鳳・百足・寺の鉾や鎧を着た武者が七つの宿から出てくると、山門前には大小の松明を担いだ若者たちが集合してひしめき合う。
 あちこちで高さ3mの大篝火が炎を吹き上げ、鞍馬の町の坂道は家々のエジ(小篝火)・松明・大松明で火の川と化し、山門前の石段は、黒い褌に白い下がりをつけた若者たちが担ぎ上げた大松明の火の粉が舞い、熱気と煙の匂いが立ちこめる。

褌に下がりをつけた若者たちが大松明を担ぐ

褌に下がりをつけた若者たちが大松明を担ぐ

▲▼ 松明は小さいものから巨大なものまで、この小さな町によくこれだけ担ぐ人がいたものだと思うほど、次から次に現われ、大勢の観客の前を練り歩いていく。
 その数約500本。午後9時過ぎ、町内各地区の鉾が大小の松明の先導で神輿が据えられた山門前の石段に勢揃いし、「さいれーや、さいりょう!」の掛け声の中、炎と火の粉の饗宴は佳境を迎える。
 午後9時20分ころ、合図の太鼓とともに注連縄(しめなわ)切りの儀が行われ、青葉の精進竹に張られた注連縄が切られる。続いて神輿渡御が始まり、火の粉が舞うなか、神輿2基が若者たちに担がれて山門から下りてくる。各神輿の後には鎧武者が乗り、石段では二人の若者が夫々の神輿の先の担い棒に足を逆さ大の字に上げてぶら下がる。これをチョッペン (chyoppen) の儀といい、かっては鞍馬の若者が成人になるための儀式であった。
▲▼ 神輿の背後には綱がつけられ、坂や石段から神輿が急に降りないよう町の乙女たちが綱を引く。神輿を引くのに女性が参加するのもこの祭の特色だ。この綱を引くと安産になると伝えられているので若い女性が多い。
 山門を下ったところから神輿は車に乗せられ、町内を巡幸し、お旅所に着くと神輿は再び担がれる。神楽の囃子にあわせて4本の大きな神楽松明が各々4〜5人の若者たちに担がれて巡回する。神輿が御旅所に安置されて儀式が終わるのは午後12時頃になる。

鞍馬の火祭り

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 火祭りは午後6時からだが、始まる前に大篝や大松明を据え、鉾を飾っている七仲間の宿の飾席(かざりせき)も見ておきたい。祭のクライマックスは午後8時〜10時半頃。大勢の観客で身動きできないほど混み合う。帰りの叡山電車の待ち時間は1〜2時間。鞍馬温泉に宿泊するには一年前にくじ引きで決められるので、宿泊は不可能。
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