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▼ その後も、祭組単位で次々に海に入り、大騒ぎをしながら楽しい浜垢離が続いた。水浴の撮影を始めて20分ほど経った頃、青い町印の鉢巻を締めた子供連が一斉に海に向かってきた。 |
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ロープに囲われた子供連/ |
水陣 |
(西区) 11:21 |
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▲▼ 見付天神裸祭保存会の祭り規約に従い、全員褌一丁を徹底し、ロープに囲った子供たちを連れて海に入ったのは、西区梯団に属する水陣(すいじん)(水堀みずほり)である。赤い襷の警固長は水野彰さん。しっかりした指導をされているようで、見ていて惚れぼれするほど、勇壮で美しい禊ぎだった。 |
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海に入る子供たち/水陣(西区) |
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▼ 沖合に見えるウエット・スーツ姿の人は、ライフ・セーバーで、万一、引き波で沖に流されたとしても救助してもらえるので、安心して子供たちを参加させることができる。裸祭保存会のきめ細かな配慮が見えないところでも光っている。 |
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あきのそら しろふんどしの はまのこり |
The autumn sky, purification wearing a white loincloth at a beach. |
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子供たちをロープで囲んで警護する大人たち/水陣(西区)
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我は海の子切手/水褌の少年 |
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BGMに流れる曲は懐かしい唱歌「我は海の子」である。水褌(すいこん)の少年が切手になっている。これが軍歌であったため、現在は3番までとなっている。海国日本の名曲として残したいものである。 |
★☆★彡 |
1 われは海の子白浪の さわぐいそべの松原に 煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家(すみか)なれ |
2 生れて潮に浴(ゆあみ)して 浪(なみ)を子守の歌と聞き 千里(せんり)寄せくる海の氣(き)を 吸(す)ひて童(わらべ)となりにけり |
3 高く鼻つくいその香(か)に 不斷(ふだん)の花のかをりあり なぎさの松に吹く風を いみじき樂(がく)と我は聞く |
(今の教科書では、以下は載せていない) |
4 丈餘(じょうよ)のろかい操(あやつ)りて ゆくて定めぬ波まくら 百尋(ももひろ)千尋(ちひろ)の海の底 遊びなれたる庭廣し |
5 幾年(いくとせ)ここにきたへたる 鐵より堅(かた)きかひなあり 吹く潮風に黒みたる はだは赤銅(しゃくどう)さながらに |
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6 浪にただよふ氷山(ひょうざん)も 來(きた)らば來(きた)れ恐れんや 海まき上(あ)ぐる龍巻も 起(おこ)らば起れ驚かじ |
7 いで大船(おおふね)に乗出して 我は拾はん海の富 いで軍艦に乗り組みて われは護(まも)らん海の國 |
★☆★彡 |
「我は海の子」は、作曲・作詞不詳の文科省唱歌といわれていたが、作詞者は児童文学者の故宮原晃一郎(本名:知久)(1882〜1945)が10歳まで住んでいた鹿児島の天保山公園の海岸から見た桜島を思い浮かべて作詞したという。 |
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波に洗われる子供たち/水陣(西区) |
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▼ 裸っぽが手にする振り鈴(ハンドベル)は、本来、神事に使われるものではないが、何時の頃からか、数少ない觸鈴(ふれすず)の代わりに用いられるようになり、合図や注意喚起、集団の鼓舞などに用いられる鳴り物として欠かせない祭り用品となっている。ただし、フィナーレの堂入りには、持ち込むことができない。 |
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海の中の裸練り/水陣(西区) |
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はだかっぽ えんしゅうなだの あきのこり |
The naked men, autumnal purification at Ensyu-nada. |
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全身ずぶ濡の海水浴/水陣(西区) |
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海から上がる子供たち/水陣(西区) |
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▲▼ 氏子たちの浜垢離は、六尺褌一丁の人と腹巻・六尺褌の人が混在していた。鈴木宮司ら神職の禊ぎが越中褌一丁であることを見ても、保存会が前袋式六尺褌のみの水褌(すいこん)を指定していることは明らかである。 |
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水陣は腹巻・褌スタイルが大半だったが、その方が褌に馴染みやすい面もあり、許容と考えているかもしれない。写真下中央の赤襷の男性が保存会が目指す模範的な姿である。 |
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▲▼ 祭り衣装は、野球のユニフォームと同じで、揃っていないと美しくない。残念ながら祭組によっては、海水パンツや大正時代に発明されたハンダコを容認しているところが見られた。また、折角褌を締めたのに、恥ずかしいのか、腹巻を下げて臀部を隠している人がいたが、これはとても見苦しい(写真上)。 |
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▲▼ 最近は、全国何処でも褌を締めるのが恥ずかしいという子供たちや母親が増えている。磐田市でも同様で、中高生を中心に子供たちの参加が減ってきているという。そのために衣装違反を黙認するという風潮が全国に見られるが、見付天神裸祭は、全国に例のない素晴らしい裸祭りであり、一度その文化が崩れてしまえば、永遠に取り返すことができない。 |
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見付天神裸祭を先祖から受け継いだ見付の人たちはとても幸運であり、羨ましく思う。裸祭りは大相撲を頂点とする国技の相撲と同様に、日本が世界に誇る素晴らしい伝統文化である。どうか胸を張って、江戸時代に確立された裸褌文化を変質させることなく、子々孫々に受け継いでいって頂きたい。 |
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▼ 浜垢離を済ました祭組は、列をなして神事が行われた松原の直会(なおらい)会場に引き揚げて行った。福田浜の入口は一箇所のため、渋滞して長蛇(ちょうだ)の列が見られた。 |
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▼ 浜垢離の取材を終え、最後に振り返って福田海岸(福田浜)をパノラマで撮影した。「我は海の子」に歌われている白砂青松(はくさせいしょう)とそっくりの素晴らしい海浜が遠州灘の荒波に洗われて何処までも続いていた。 |
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