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▼ 金陵山西大寺の本堂外陣左側にある御札などを授かる窓口で本堂の拝観をお願いし、指示に従って鐘楼門(しょうろうもん)から庫裏(くり)の客殿に上がり、空中廊下を通って本堂を拝観させて頂いた。
鐘楼門には、平成21年(2009)の祝主(山陽新聞社・旭電業)と福男各3名の住所・氏名が表示されていた。 |
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▲▼ 鐘楼門の鐘は、朝鮮鐘(ちょうせんがね)と呼ばれている銅鐘(口径650×総高1112mm)で、10世紀中葉に造られたものと鑑定されている。当時の新羅(しらぎ)から伝わったもので、国の重要文化財に指定されている。橦木(しゅもく)が当たる前後二箇所の撞座(つきざ)には、五体一組の舞踏奏楽飛天(ぶとうそうがくひてん)が表裏に鋳出(ちゅうしゅつ)されている。 |
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資料 |
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備前西大寺縁起 |
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▼ 金陵山西大寺は、度々火災に遭い、観応(かんおう)2年(1351)の「権少僧円慶寄進状案」が最古の文献で、それ以降の資料しか残されていない。寺の創建や来歴は、永享(えいきょう)12年(1440)の「備前国西大寺勧進帳」や永正(えいしょう)本、寛文(かんぶん)本、延宝(えんぽう)本、享保(きょうほう)本の「備前西大寺縁起絵巻」に書き継がれている。 |
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これらの文献によると、天平(てんぴょう)3年(751)周防玖珂庄(すおうくがしょう)(現山口県玖珂郡)に住む藤原皆足(ふじわら・みなたる)という女性が観音菩薩の妙縁を感じて金岡(かなおか)の荘(現西大寺金岡)松中島(まつなかじま)に草庵を建て、千手(せんじゅ)観音を祀ったのが始まりという。写真下は、その観音霊験譚を描いたものである。 |
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▼ 宝亀(ほうき)8年(777)には、開山の祖と仰がれる安隆上人(あんりゅうしょうにん)が奈良の長谷寺(はせでら)に参籠して、「備前の国・金岡に行って観音堂をあらため、つくるべし」との夢告(むこく)を得たため、西国に下り、東児島槌戸の瀬戸で龍神から犀角(さいかく)(犀の角つの)を授かり、「犀角を埋めて堂を建立すべし」との教えに従って、四面五間(しめん・ごけん)の堂を建立したのが今日の西大寺であると伝えられている。写真下は、この伝説を描いたものである。 |
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このとき、寺号を「犀角を戴く寺」犀戴寺(さいだいじ)と号したが、承久(じょうきゅう)の乱(1221)で後鳥羽上皇が執権北条義時への倒幕の祈願を行った際に書かれた御宸筆(ごしんぴつ)により、「西大寺」と改められ、現在に至っている。 |
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龍神から |
犀角 |
を授けられる |
安隆上人 |
/備前西大寺縁起絵巻 |
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▼ かつては犀戴寺(さいだいじ)だったことから犀(さい)の角(つの)が西大寺に伝わっている。日本では、現在でも動物園でしか見ることができない珍獣であるが、化石はともかく、右の犀の角は、形が細長く、実在の犀の角とは全く違っており、偽物であることは明らかである。 |
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ちなみに、犀の角は骨質ではなく、蹄(ひづめ)と同じで、皮膚の死んだ表皮細胞がケラチンで満たされてできた角質で構成されている。そのため風化が早くて化石になりにくく、折れても時間が経てば再生されるという。 |
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▼ 池田藩から寄進された備前西大寺縁起絵巻の収納箱の蓋(ふた)に犀(さい)の絵が描かれているが、見たことがない人が描いたもので、似ても似つかぬ姿をしている。鎖国政策を続けた江戸時代の情報不足が嘆かわしい。 |
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▼ 西大寺ふれあいセンターに展示されていた西大寺会陽凧?会陽の褌姿と犀を組み合わせたモチーフが市内のあちこちで見られる。愛称は何というのか分からないが、手にしているのは、バットではなく宝木(しんぎ)である。
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▼ 毎年2月1日になると、西大寺会陽に向けた「会陽事始め」の儀式が西大寺観音院で行われ、裸衆が奪い合う一対の宝木(しんぎ)を作る道具磨きの後、無事を祈る法会(ほうえ)があり、本番までの一連の行事が始まる。 |
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写真:両備グループ |
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▲ 道具磨きは、岡山市東区邑久郷の棟梁・次田尚生さん(71)と典生さん(40)父子が烏帽子に白装束姿となって客殿で行われた。古式にのっとり、鋸(のこぎり)を目立てし、鉋(かんな)の刃を砥石で磨くなどして十数点の道具を丁寧に手入れした。 |
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写真:西大寺会陽奉賛会 |
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▼ 本堂内陣で行われた法会(ほうえ)には、今年の祝主の両備グループ代表や西大寺会陽奉賛会の関係者ら約50人が参列し、坪井全広(つぼい・ぜんこう)住職らが読経した。 |
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写真:両備グループ |
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▼ 2月第3土曜日の会陽の日より17日前の深夜午前零時になると、使者が西大寺を出発し、その北西3kmの芥子山(けしごやま)山腹にある広谷山無量寿院(ひろたにさん・むりょうじゅいん)へ宝木(しんぎ)の原木を受け取りに行く。 |
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一列縦隊となった一行は7〜9名で、一文字の菅笠(すげがさ)に手甲脚絆草鞋履(てっこう・きゃはん・わらじばき)という伝統装束に提灯を携える。1名は裃(かみしも)姿となり、道中は一切無言である。写真下は昔のもので、現在、この橋は架け替えられて車道となっているが、往復するルートや伝統装束は昔のままである。 |
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資料:西大寺会陽奉賛会 |
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▼ 筆者は、事前踏査の日にJR西大寺駅で西大寺会陽を撮り続けて20年になるという地元アマチュア写真家の中井三郎さんと知り合い、ご支援・ご指導を賜った。会陽当日、昼食後、中井さんに途中まで案内して頂き、この無言行列のコースをたどり、無量寿院を訪ねた。宝木(しんぎ)の原木は、この裏手の芥子山(けしごやま)山中で切り出されるという。往復6kmの歩行は大変だったが、広々とした田畑(でんぱた)の間を歩くのは清々しく、都会では味わえない貴重な体験となった。 |
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切り出された原木から長さ約18cm(6寸)、直径約4cmの円筒形に整えるのは、観音院の宝木担当の僧侶である。新たに生まれた2本の宝木は、香を塗り焚き込められて、西大寺牛玉寳印(ごおうほういん)と記された聖なる紙に包まれ、御本尊・千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)の後背に納められる。そして、14日間の修正会(しゅしょうえ)が執り行われ、結願(けちがん)の日に五福をもたらす霊験新たな宝木が誕生する。 |
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芥子山 |
中腹にある |
無量寿院 |
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▼ 約1200年前、金陵山西大寺を安隆上人が創設したとき、奈良東大寺の良弁(ろうべん)僧正の弟子実忠上人(じっちゅうしょうにん)が編んだ修正会(しゅしょうえ)が伝えられた。修正会は正月に修する法会(ほうえ)で、西大寺では14日間、一山の全僧侶十余人が斎戒沐浴して、祭壇に牛玉(ごおう)を供え、観世音菩薩の秘法を修し、国家安穏、五穀豊穣、萬民繁栄の祈祷を行う。
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会陽関係者が出席した2010年の |
修正会 |
/本堂内陣 |
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写真:両備グループ |
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写真:西大寺会陽奉賛会 |
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▼ 修正会(しゅしょうえ)では、八幡(はちまん)や明神(みょうじん)など、国内の125社の神々を勧請(かんじょう)して修される。明治維新の際に神仏分離・廃仏毀釈が行われたが、西大寺ではその被害を免れ、現在も見事な神仏習合の仏教文化が存続している。 |
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備前国神名帖
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▼ 牛玉(ごおう)(牛玉紙)は、右から左へ「牛玉」「西大寺」「寳印」と順に並べて彫り込んだ版木(はんぎ)と墨汁を用いて杉原や日笠という丈夫な和紙に刷り込み、5箇所に宝珠の朱印を捺(お)した護符である。14日間の祈祷を経て、満願になると、今年一年の五福(寿・富・康寧・好徳・終年)を授ける意味で、この牛玉を信徒の年長者や講頭(こうがしら)に授けたところ、牛玉を頂いた農家は作物が良く取れ、厄年の人は厄を免れるので、年々希望者が増え、奪い合うようになったという。 |
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▲▼ 西大寺には現在2枚の牛玉紙版木(ごおうしはんぎ)が伝えられている。写真上の牛玉紙は、下の版木を使ったもので、240mm×318mmの大きさがある。
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▼ もう一つは、裏面に安政4年(1857)の墨書銘を持つ 300mm×428mm の大きさのもので、二枚とも現在も使用されているという。私は前者の文字がより達筆で美しいと思う。
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寺社が頒布する護符である牛玉宝印(ごおうほういん)は、特に熊野三山の三社権現のものが有名で、その裏に誓約(起請)文を書く誓紙は、熊野誓紙と呼ばれ、戦国武将たちの盟約や商人の取引などに広く使われていた。
牛玉宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあればたちまち神罰を被るとされた。
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牛玉 (ごおう)という不思議な名は、牛黄(ごおう)(牛の胆嚢(たんのう)結石で貴重な霊薬)をお札の朱印に用いていたことに由来しているともいわれているが、なぜ「ごおう」というのか、なぜ「午うま王おう」と書かずに「牛うし玉たま」と書くのかは、謎のままである。詳しくは、早春の熊野三山を参照されたい。 |
ちなみに、熊野の牛玉宝印は三本足の八咫烏(やたがらす)と宝珠が組み合わされた絵文字で、三山それぞれデザインが異なる。本宮は88羽、新宮は48羽、那智は72羽の烏が使われており、本宮と新宮は「熊野山宝印」、那智は「那智瀧宝印」と記されている。日本サッカー協会 Japan Football Association のシンボルマークや日本代表チームのエンブレムには1本の足でサッカーボールをつかみ、二本足で立つ八咫鳥がデザインされている。 |
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戦国武将たちの盟約などに使われた |
熊野牛玉 |
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/ 熊野速玉大社(新宮) |
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▼ 牛玉紙では奪い合うとちぎれるので、今から丁度500年前、室町時代の永正(えいしょう)7年(1510)、時の忠阿上人(ちゅうあしょうにん)が牛玉紙を長さ6寸(約18cm)の木製の宝木(しんぎ)に換え、むらがる信徒の中に投げ入れ、これを得た者に五福を与えるようにし、このとき初めて會陽(えよう)と名付けられた。平成22年(2010)は、それから丁度500年目に当たり、500周年記念の会陽が盛大に執り行われたが、回数的には501回目となる。 |
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かつては、陰陽二本の宝木が牛玉紙に包まれて投下されていたが、現在は、陰陽の区別がなくなり、二本の宝木が1枚の牛玉紙に包まれて御福窓から大床に投下される。 |
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▼ 忠阿上人(ちゅうあしょうにん)は、西大寺中興の祖・会陽の開祖と伝えられ、高さ31cmの座像が本堂内陣に安置されていて、拝観することが出来る。右手に持つのが牛玉杖(ごおうづえ)といわれるもの。木造彩色で、江戸後期の作品という。 |
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西大寺縁起には、「十穀の聖、紀州の人なり、無二の願いを起こして再興の志切なり、これ又化身の随一なるをや」と記され、観音化身の一人に数えられている。 |
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本堂内陣の |
忠阿上人 |
座像(高31cm) |
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▼ 下の会陽の図は、藩主池田光政の家老が寛文(かんぶん)年間に奉納した備前西大寺縁起絵巻の一部である。会陽の始まった初期の有様を描いた最古の会陽の図で、岡山県指定重要文化財となっている。 |
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備前西大寺縁起絵巻最古の会陽の図(岡山県指定重要文化財)
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さいだいじ えようえまきの ふどししゅう |
Saidaiji temple, men of fundoshi loincloths on a picture scroll of Eyo festival. |
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▼ 西大寺寺宝の縁起絵巻は、時代が下るにつれ、書き写されて奉納されており、下の図は、最古の図が原形になっていることが伺われる。素朴な会陽を描いたものであるが、男たちの生き生きとした表情が良く画けている。 |
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会陽の図/備前西大寺縁起絵巻(岡山県指定重要文化財)
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▼ 展示コーナーには、日本三大奇祭の一つ大阪・四天王寺の「どやどや」の牛玉宝印(お札)が展示されていた。解説文によると、西大寺会陽(岡山県)・四天王寺どやどや(大阪府)・黒石寺蘇民祭(岩手県)が日本三大奇祭と呼ばれ、寺院の祭礼で正月に祈願したお札をふんどし姿で取り合うところが共通するとしている。「どやどや」と「蘇民祭」は既に取材済みであり、詳しくは
日本三大奇祭 を参照願いたい。 |
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▼ 西大寺の西大寺会陽を「岡山県指定無形文化財として指定する」と記載された昭和28年(1953)5月4日付の指定書が展示されていた。かなり痛んでいるが実物である。 |
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▼ 寺宝の涅槃図(ねはんず)は、釈迦(しゃか)が跋菩提河(ばつぼだいがわ)の沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で涅槃(仏世界)に入る情景を描いたもので、仏法の永遠性を象徴する。多くの弟子と諸動物が悲しみに浸っている。 |
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沙羅双樹の花 |
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資料
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■ 平家物語 ■ |
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理(ことわり)をあらはす
驕(おご)れる者 久しからず ただ春の夜の夢の如し
猛(たけ)き人もついに滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ |
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沙羅の花の色は、黄色がかった白で、春に小さな花を枝の先につける。 |
▼ 釈迦は、クシナーラ〈現ビハール州)で、弟子に見守られて、入滅のため横になった際、その四方に対(双・二股)になって生えていた沙羅(サル)の木が、ときならず満開の花を咲かせたといい、それ以降、この対のサルの木が沙羅双樹と呼ばれるようになったという。 |
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日本では白い花をつける夏椿(なつつばき)のことを娑羅(しゃら)(沙羅)と呼び、今でも広辞苑は夏椿の別称と説明しているが、犀の角と同様、誤りである。京都のあるお寺では、二股の夏椿を沙羅双樹と解説しており、夏椿を見て、祇園精舎の鐘の声・・・と説明しているホームページが散見される。 |
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平家物語の作者は、純白の夏椿の花が突然首からポタッと落ちてゆくはかなさを見て、世の無情を悟ったのだろうか。ともあれ、日本では、聞いたこともない祇園精舎の鐘の声や見たこともない沙羅双樹の花の色から平家物語が書き進まれ、名作が生まれた。 |
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ちなみに、入滅した釈迦の最後の言葉は、「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」だったといわれている。
インド通信第3集 / 沙羅双樹(丹下誠司) 閑話休題。 |
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インド・ベンガル地方の |
沙羅双樹 |
の林 |
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撮影:丹下誠司 |
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▼ 本堂内陣入口の通路に展示されている巨大な「なで珠数」は、欅(けやき)の本堂の古材で造られたもので、長さは、365日を象徴する365寸(約11m)あり、この珠数をなでれば1年中健康でいられるよう祈りをこめて造られたもの。 |
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